lacoue-labarthe
「スペクタクルの社会」の哲学的系譜を書く人、ラクー‐ラバルト
『d/SIGN』no 7, 太田出版, 2004年4月, p. 113.


以下の書評です. フィリップ・ラクー‐ラバルト『近代人の模倣』大西雅一郎訳, みすず書房, 2003年.


 ジャン‐リュック・ナンシー『コルプス』を大西雅一郎が『共同‐体 (コルプス)』という奇妙な題で日本語に訳したもの (松籟社, 1996) の中身は, 間違った文意すら取れない不思議な文字列だった. フランス語オリジナルはむしろ, くだけた口語調を交えたわかりやすい文章だったため不思議さはなおさらつのる. 今回, 同じ人物が翻訳したフィリップ・ラクー‐ラバルト『近代人の模倣』(みすず書房, 2003) ではそれほどのことはなく, 最悪の懸念はひとまずおさまった. (ちなみに, この人物自身による翻訳一般—あるいはむしろ自分の翻訳—のぎこちなさのぎこちなくも安易な正当化は, やはり彼の翻訳したナンシー『哲学の忘却』(松籟社, 2000) 末尾に付された「訳者あとがき」に読める.)

 『近代人の模倣』のフランス語オリジナルは1986年に刊行されている.

 同じ原著者によってその1年後に刊行されている『政治的なものの虚構』は浅利誠と大谷尚文によってすでに日本語訳されている (藤原書店, 1992). 碑文めいた簡潔さをもつこの主著によって, ラクー‐ラバルトの名は「ハイデガー問題」と呼ばれる騒動とともに読者の記憶に残っているかもしれない.

 この「問題」は, 1987年にフランス語版が出され, 次いで山本尤の手になる日本語訳も出されたビクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』(名古屋大学出版会, 1990) をきっかけに各地で再燃したものだ. その詳細について記憶を新たにしたければ, たとえば当時の『現代思想』や『思想』を参照するにしくはない. だが, ここではとりあえず, 『政治的なものの虚構』がそれ以前から (とくにこの騒動への反応としてではなく) 準備されていたものであり, 発表がこの騒動と重なったのはいわば偶然にすぎないということを確認するにとどめておこう.

 とはいえ, ラクー‐ラバルトがこの「問題」との対決を避けているわけではまったくない. それどころか, 彼はこの「問題」との対決を当初から彼なりのしかたで中心的な課題とし, 執拗に探究を進めてきた. それによれば, 短期間のナチ加担 (1933) の後のハイデガーは, ヘルダーリンの詩を論じはじめるという, 極端にも思える態度の変更をおこなうが, じつは詩論へのその一見した引きこもりこそがこの哲学者にとっては「政治的なもの」に関する思考のさらなる深化を証すものだという.

 このテーゼは, 2002年にフランス語オリジナルが発表され, 西山達也によってすでに日本語訳された『ハイデガー 詩の政治』(藤原書店, 2003) においてあらためて慎重に取りあげられている. これはまた, その他の彼の著作—たとえばこれも2002年に発表されている『歴史の詩学』—においても議論の大前提となっている.

 このテーゼを通じて垣間見られる研究の姿勢はすでに, 「政治的なものについての哲学研究センター」での主導的活動を通じても知られている. たとえば, 「センター」が1983年に刊行した論文集『政治的なものの引きこもり』の末尾にナンシーとラクー‐ラバルトが共同名義で発表した「政治的なものの「引きこもり」」というテクストがある. そこには, 一方の, ナンシーが1983年に発表した『無為の共同性』から一貫して語り続けている「喪失されたとされる起源をでっちあげたうえでこれを取り戻そうとする身振り」とでも定義づけられるもの (彼は「内在主義」と呼ぶ) に対する批判と, 他方の, すでに見たとおりのラクー‐ラバルトによるテーゼとが, いずれも平易に理解できる素描の形で, 一体として書きこまれていると読める. そこからそれぞれ継続されていくことになる, かたやしだいに自由さと闊達さを増す能弁な教説と, かたやしだいに不自由さと悲痛さを増す一途な探究, その両者の進む道を思うと, いやでも人は時間の経過に思いを致してしまう. とはいえこれはまた別の話ではある....

 話を戻そう. 『近代人の模倣』は, 『政治的なものの虚構』で提示されていたあのテーゼを支える各論からなる. この2冊は, 同時期に書かれ, 互いに寄り添い支えあうものと見なすのがよい.

 しかし, すでに名を挙げたものを含めた最近のいくつかの本を参照したうえで『近代人の模倣』へと立ち返ると, この研究者の思考のまた別の側面があらためて浮き彫りになってくる気がする. そしてその印象は『政治的なものの虚構』をひるがえって読みなおすことでもいっそう深まる.

 ラクー‐ラバルトは周知のとおり, とくにソポクレスとヘルダーリンをめぐってではあるが, 演劇の実際や演劇に関する言説を探究の対象にしている. そしてその探究が哲学的なものと政治的なものをめぐる探究と不可分に結びついたものであることもよく知られている. とはいえ, 何が彼のそのような探究の悲痛なまでの一途さを支えているのかは一見したところよくわからない. 疑問を一言でまとめると次のようになる. なぜそこまでヘルダーリンを, ハイデガーを, しかもほとんど同じ視角から, 論じ続けるのか?

 この愚問と折り合いをつけるべく私がたどりついた平凡な思いつきは, 要するにこの研究者は, ある特殊なしかたでではあれ状況主義者 [シチュアシオニスト] としての活動を継続しているのではないか, というものだ (この思いつきは, じつを言えばすでに挙げた「政治的なものの「引きこもり」」のさまざまな細部から容易に得られた). とはいえ, この状況主義者 [シチュアシオニスト] は, 今日の社会の批判的分析へと直接に向かうのではない. 彼は, 批判対象である「スペクタクルの社会」のさまざまな起源を, 主として哲学的言説のなかにあとづけ, その系譜を書いていくのだ.

 私は, このような作業は「スペクタクルの社会」という機械を狂わせるにはそれだけでは不充分であり, また無用な晦渋さを帯びるおそれがあると思ってはいる (その証拠に, 今のところ, 彼の研究をそのような意味でとらえて本気で善用しようとしている者は誰もいないにちがいない). とはいえ, この平凡な思いつきによってでさえ彼の研究に何らかの位置づけが与えられるなら, 思考を含めた活動にとって, 何らかの新たな視点が提供されないとも限らない. しばらくはこの思いつきにしたがって彼の仕事をたどりなおしてみようかと思う.


(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)