khora & passions
デリダによる正しさの場所は名以外ではない
『d/SIGN』no 8, 太田出版, 2004年7月, p. 162.


以下の書評です. ジャック・デリダ『パッション』湯浅博雄訳, 未來社, 2001年 ; ジャック・デリダ『コーラ』守中高明訳, 未來社, 2004年.


 ジャック・デリダ (1930– ) が大量に発表してきた本は近年, 明るいベージュ色の表紙であることがほとんどだ. それらは読者の本棚に整然と並ぶだろう. それらのなす全体は, スノッブなコレクターであろうとする者の奇妙な満足感と, 忠実な読者であろうとする者の奇妙な敗北感を, 同時に誘発してきたかもしれない.

 そんななかに, 紙質は似ているが色はグレイの小さな本が3冊, まぎれこんでいる. デリダが「与えられた名についての3つの試論」と仮に呼び, 1993年に同時に刊行したものだ. この灰色が, コレクターの充足と読者の不満をさらに募らせてきた, と冗談まじりに想像してみることもできる. ベージュ色の背表紙が連綿と続くなかに細々と, しかしはっきりと場所を占めるこの3冊の灰色は, これらの「試論」の「異色」さをそれとなく主張しているようにも見える. その「異色」さを自分のものにしなければならないという暗い欲望が, コレクターと読者をともに襲ってきたかもしれない.

 しかし, そのうちの『名を除いて』という1冊を除いた残りの2冊がすでに—偶然だろうがこれまた明るいベージュ色の表紙をともなって—日本語に移された今日, 読者にはそのような悲しい態度とは別の構えが許されている. とりあえず読んでみる, という構えだ.

 読めばわかるのは, これらが, 1986年に発表され翌年に論文集『プシシェ』に収められた「どのようにして語らないか」や, 1989年に発表され1994年に単行本として刊行された『法の力』(とりわけその第1部) ととともに, ぼんやりとした一圏域をなしている, ということだ (後者にはすでに堅田研一による日本語訳がある). 『パッション』も『コーラ』も, この意味ではそれほど「異色」ではない.

 これらの文章は, 大雑把に言って, 2つの難問を無理に解くことなく慎重に縁取るために書かれている. それらは, 「正しくあろうとするとはどのようなことか?」という問い, そして「何かが名であるとはどのようなことか?」という問いとして, 仮にまとめることができる. それぞれについて, ごく雑駁に説明すれば, 以下のようになる.

 十全に正しくあろうとするとき, 私たちはそれを法権利や義務に照らしておこなうことはできない. たしかに, 私たちは正しさを, 法権利や義務とまったく無関係のものとして想像することはできないが (そのようなことができるのは自信に満ちた一種の狂信者だけにちがいない), しかしそれらの慣習から任意に距離を取り, 自ら決定したうえで正しくあることができるのでなければ, それは十全な正しさとは見なされない (法権利や義務の命ずるかぎりで正しくある者は, 十全に正しいとは言えず, 単に正しさを僭称しているのかもしれない). とはいえ, 距離を取るというそのこと自体が, 正しさのなかにあらかじめ書きこまれているのだとすれば, どうだろうか? 私たちは, 正しいしかたで正しくあることがあらかじめできない, ということになる. 正しさ自体が, ある程度までは慣習によって成立している, ということになるからだ. これが, 「正しさ」をめぐる堂々めぐりの難問だ.

 にもかかわらず, たとえば, 「正しさ」は, 「名」としてはそこにある. そのことを知らない者はいないというのも確かだし, だからこそ誰もがそこから出発してあらゆることを語りうるのでもある. しかし, その「正しさ」は「名」以外としては存在しないのでもあって, どうやら, そのように「名」が与えられているということ自体が, 私たちに「正しさ」を求めさせる当のものであるらしい. そのような「名」から出発しつつ, 名づけられた当のものを「名」を離れて思考することが要請されると思われるにもかかわらず (つまり「正しさとは何なのか?」といった問いがともあれ要請されるということだが), そのような思考はもともと不可能であり, そこで名指されている当のものについて語ろうとするたびに, 私たちは別の不適切な名を与えるか, もとの名を裏切るか, あるいはさまざまな隠喩に依存して解明を僭称することになってしまうらしい. これが, 「名」をめぐる行き場のない難問だ.

 『法の力』第1部では法権利との対比を軸として語られ, 「脱構築」とも同一視されていたこの「正しさ」だが, 『パッション』では, これが「責任」の名のもと, 「友愛」や「礼節」をめぐって議論され, 義務との対比において語られている. 言い換えれば次のようになる. 責任ある友愛や礼節は, 法権利ないし義務 (遵守すべきとあらかじめ表明されうるもの) の手前にある「名」であり, つねにそのような法権利ないし義務から離れて思考することが要請される. にもかかわらず, 「名」以外ではありえないかぎりにおいて, そのようなものは法権利や義務を離れることはできず, 法権利や義務を通じてのみ, そこに—つまり「友愛」や「礼節」と呼ばれる場所に—あるということが把えられる.

 (そもそも, 「約束」がそれを違えることができるという可能性においてのみ約束たりうる, といったたぐいの議論は, 「デリダ‐サール論争」として知られる1970年代の一連の議論においてすでに提出され, それ以降, 折に触れて反復されてきた. それが『パッション』の時期に至ると, この「約束」もまた, 「友愛」や「礼節」と同じく, 「名」ゆえの難問という性格をもつものとして捉えなおされる, と言っていい.)

 この難問の性格は, 「秘密」という名でも呼ばれる. デリダはこのような名について, 「そこには幾分かの」ないし「何ほどかの秘密がある」と言っている (翻訳者による「そこには密かなものがある」という翻訳は, 読みやすくはあるが, 私見では少しばかり正確さを欠く). 「名」のもつこのような「何ほどかの秘密」は, 「問題 [プロブレーム]」とも呼ばれる. この語は, 語源的に言えば, 手前に突き出したものを意味する. つまり, これらの「名」は「名」であることでつねにすでに手前に突き出しており, それゆえに難問をなす, ということだ. ここでは, 「名」は何かの代わりに立てられているのだが, その「何か」のほうではなく「の代わりに」のほうが, まさしく「問題」になる. そのことが「何ほどかの秘密」の正体であって, それはべつに実際に何かが—たとえば「正しさ」の正体というようなものが—隠されているということではない.

 (ここに, いわゆる「初期」デリダの姿をぼんやりとではあれ重ねることもできる. すでによく知られていることだが, 彼は, 充溢した意味をなすとされる本来的な「言葉 [パロール]」の優位—「ロゴス中心主義」と呼ばれた—を, そこからの不純化と見なされる「書きもの [エクリチュール]」を擁護することによって問いただすという仕事を, 1960年代からおこなっていた. その仕事を彼は, 従来であればいわば「善」の諸範疇とでも見なせたようなさまざまな「名」—「責任」「友愛」「礼節」「約束」などなど—を「書きもの [エクリチュール]」の場所に置いてみることで今も継続している, と言えなくもない. ただし, そこまで遡らなくてもデリダの真意は汲めるはずだ.)

 何か「の代わりに」立てられる, 「問題 [プロブレーム]」としての「名」. これに対して, デリダは「アポファティック」な (否定を旨とするというほどの意味) アプローチが必要だと述べるが, 残念ながらこの語の意味は翻訳者の付した注や「訳者あとがき」を参照しても判然としない. 私たちとしてはこのアプローチを次のように理解しておきたい. すなわち, 「名」を通じて知られる「友愛」や「礼節」といったものを, それが「代わりに」立てられている当のものを表明することによって「ではない」しかたで捉える, つまりはそれが「名」であるということ自体において捉える, というアプローチである. つまり, それらは, 何かの手前に突き出すように立てられた「問題 [プロブレーム]」であるということ自体のままで捉えられなければならない, ということだ.

 このような「問題 [プロブレーム]」への「アポファティック」なアプローチの卓越した例が『コーラ』である. そこでアプローチされている「コーラ」こそ, 存在一般にとっての, 「問題 [プロブレーム]」としての「名」にほかならない.

 2400年近く前のギリシアの哲学者プラトンが晩年に書いたとおぼしい『ティマイオス』という本にこの「名」は現れる. あらゆる存在は, 「イデア」と呼ばれる不変不滅の可知的な雛形 (A) がそのつどこの世界に現れることによって可感的なもの (B) となる, というのがプラトンの教説として広く知られているものだが, 『ティマイオス』ではさらに, AでもBでもない第3のものが語られる. AがBとして現れるにあたってこの世界に占める場所 (C) がそれだ (つまり, そのCにおいてAがBとして現れる). これが「コーラ」(ギリシア語で「場所」) という「名」だ.

 デリダが『コーラ』で展開している議論はすべて, この「場所」が「名」以外ではない, つまり「問題 [プロブレーム]」としてのみ捉えられるものだ, という一点を死守するためのものと考えられる. 『パッション』からひるがえってこの本を読めば (さらには, すでに挙げた「どのようにして語らないか」を参照すれば) このことは明らかであるように思える. そして, そのような「名」としての「場所」こそ, 「友愛」や「礼節」の「場所」でもある. しかし, 翻訳者は「解説」—総じて明快かつ有用だが—の各所で, この「場所」を, 名づけることの困難な (いわく言い難い?) 何かだと見なしており, 読者はその了解をもとに『コーラ』の全体をあらためて読みかえしてしまいそうになる. だが, じつはそうではない. この「場所」が「名」以外であることなどない.

 「場所」と「名」づけられたことになる当のものなど, 存在しない. たとえば, この「場所」の政治性を云々することはたしかに「正しい」ことなのかもしれないが—今日, そのようにしようとしている人は少なくないようだし, その点にとくに異論はない—, そこではあくまでも「名」であるかぎりにおいての「場所」こそ云々されるべきである. この「場所」は政治的にであれ何であれ, 「問題 [プロブレーム]」としてアプローチされ, 「何ほどかの秘密」としてのみ開かれるかぎりにおいてのみ, 救済され, 善用される. そのことこそおそらくは, デリダがこの一連の文章で伝えようとした教えではないだろうか?


(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)