はじめに
「はじめに 成長のホログラフィ」
高桑編『成長 生命の教養学IX』(慶應義塾大学出版会, 2013年9月), pp. i–xii.


 慶應義塾大学の日吉キャンパスに拠点を置く「教養研究センター」は, センターの活動に対する極東証券の深いご理解・ご協力のもと, 寄附講座「生命の教養学」をすでに2004年度から授業科目として開講している (正確には, 2003年度に公開講座として企画され, その翌年度に授業科目へと姿を変えた). この講義録は2012年度 (第9回) に展開された講座の模様をお伝えするものである.

 これに先立つ2010年度と翌2011年度には, 本講座は理系と文系をそれぞれ代表するゲスト講師1名ずつによる集中講義を交叉させる学問的対話という形で運営された. その成果はそれぞれすでに, 講義録『生命の教養学VII 異形』『生命の教養学VIII 共生』として刊行されている.

 2012年度は, それ以前の (2009年度までの) スタイルをあらためて採用することになった. 週替わりでゲスト講師をお招きするオムニバス講義という形式である.

 とはいえ, スタイルの変更にもかかわらず, 講座の本質にはいささかの変化もない. その本質を大ざっぱにまとめれば次のようになるだろう. 1. 講座名にある「生命」を, あらゆる学問分野からアプローチ可能なだけ広い意味を含みうる概念として捉えること. 2. 年度ごとに, その広い意味での「生命」現象にとって本質的と思えるサブテーマを設定すること. 3. そのサブテーマをめぐって人文科学, 社会科学, 自然科学等の研究領域をそれぞれに代表する研究者にお話しいただくこと. 4. そのお話を承けて, 受講する学生のそれぞれに「教養」的視座から「生命」について自分で再考してもらうこと.

 (「教養」的とはここでは, 特定の学問分野におもねることなく思考の材料を広く求め, とはいえ各分野の厳密さによって得られた成果には充分な敬意を払い, そのようにして得られた雑多な材料のすべてをもとに新たな知の組織を自分なりに工夫する, というほどの意味である.)

 サブテーマの設定は, 当講座のコーディネイター一同の合議によって決定された. コーディネイターは, 各学部で研究・教育にたずさわるかたわら教養研究センターに兼担で所属する延べ8名の教員からなる. 以下, 所属と専門分野を添えて名前を列挙する (50音順, 敬称略). 赤江雄一 (文学部, 西洋中世史). 小野裕剛 (法学部, 生物学 [任期は正式には2011年10月から]). 小瀬村誠治 (法学部, 化学). 鈴木晃仁 (経済学部, 医学史). 鈴木忠 (医学部, 生物学 [任期は正式には2011年9月まで]). 高桑和巳 (理工学部, フランス・イタリア現代思想). 高橋幸吉 (商学部, 中国文学). 鳥海崇 (体育研究所, 水球・コーチング). なお, 講座の企画委員長は前年度までは鈴木晃仁教授がご担当だったが, 2011年10月からは (実質的には2012年度講義の企画段階の最初から) 高桑が後任を仰せつかった.

 所属学部も専門分野もさまざまに異なる研究者が一堂に会し, 各自が夏休みのうちに考えておいたサブテーマ案 (自らの知る分野においてはもちろんのこと, 他の研究領域においても興味深い議論がさまざまに展開されるだろうと確信できるもの) を出しあう会合は通例, 前年度の秋口におこなわれる. それは2012年度講義であれば2011年9月にあたる.

 言わずもがなの—2年後にあたるいま (2013年夏) でもやはり言わずもがなである程度には影響の甚大だった—例の破局の開始から半年が経過したにすぎないそのとき, 毎年恒例の白熱した話しあいがさらに未聞のニュアンスを暗黙のうちに帯びなかったなどということがありうるだろうか ?

 会合の簡潔な記録には, この件に関する明示的な言及は残されていない. だが, 新学期の開始が1ヶ月弱にわたって延期されたり, エレベーターの間引き運転や廊下の消灯といった節電対策が微に入り細を穿って実施されたり, 歩きやすい靴を履くことや懐中電灯を携行することが学生に対して強く勧められたり, 電力節約のために, 夏休み前の学期末試験がおこなわれるはずの教室群の冷房が切られて試験がレポート提出に切り替えられたりした大学内の状況を日々生きていた私たちにとって, そのことを感じたり考えたりせずにいることはそもそも不可能だっただろう.

 その私たちはまた, 個人的にも—つまり, たとえば私のことだが—連日の報道に悪酔いしてテレビと新聞から完全に自分を切り離したり, 反原発デモに幾度か出かけたり, 福島県に住む親戚の状況に心を痛めたり, 心配する外国の友人たちから各国語でばらばらに届くメールになるべく正確に応えようとして膨大な時間を費やしたり, 売られている野菜の産地をこれまでになく気にしたり, 近海ものの魚介類を食べるのをやめたり, 精神的に参って論文がまったく書けなくなったりしていた. これは要するに, 誰もが生きただろう普通の異常な日々である. 私たちは意識的に感じたり考えたりしていないときにさえ, さまざまな水準でそのことの影響下にあっただろう.

 その私たちが, 他ならぬ「生命の教養学」を次年度に向けて企画するときに, にもかかわらず, 一見すると災厄の痕跡を感じさせない「成長」というサブテーマを選んだのはなぜだろう ?



 以下, いささか迂遠な弁明になるが, どうかお許し願いたい.

 「破局」や「災厄」といった直接的な主題を立てることは, 私たちを脅 [おびや] かし責め苛 [さいな] む状況に正面から向きあうことを意味する. なるほど, そのように向きあうことはアカデミズムの責務とされてもおかしくない—その責務がもっぱらアカデミズムだけに帰されるものではないにしてもである. 少なくともこの災厄については (あらゆる災厄についてそうであるかはわからない), 人々とアカデミズムとの関わりや, 日常生活と知や教養との関わりが問われずにはいないだろう. じつのところ, 多くの人は,「そんなことになっていたとは知らなかったし, 説明されてもいまだによくわからないし, 情報自体が正確なのか, あるいは情報の布置が適切なのか (恣意的に操作されていないか) 確かめるすべがない」と多かれ少なかれ考えたはずである. つまりは, 知の対象もさることながら, 大学を含めたあらゆる知のフィールドにおける知の配備のされかた—編成のされかた, 人々のあいだでの偏在のしかたなど—それ自体が問題だった. だとすれば, なおのこと私たちは直接的な主題に即座に取り組むべきだったようにも思える.

 仮にアカデミズム全体に集合的な自我が想定できるとして (いまでは「産官学連携」という豪奢にして軽薄なロココ調の衣をまとうこともあるが, かつては正反対に「象牙の塔」とも表象されたこともある何かのこと, 研究者がアカデミズムの全体を多かれ少なかれ念頭に置いて「私たち」と自称するときに存在する当のもののことである), そのような自我をこの期に及んで崩壊から防衛してやる必要などもちろん存在しない. そのような自我がぼんやりとであれ存在してきたこと—存在していると見なされてきたこと—それ自体が災厄の責任の一端を担っているのかもしれないのであってみれば, そのようなもの (大学の自称する「私たち」) などこの際, むしろすみやかに自壊してしまえばよいと考えることができる程度には良心的なアナーキストでありたいと私は思っている. その自壊はアカデミズムの内的な論理展開によって導かれるのがやはり望ましいだろうし, 私たちがあえて「私たち」の名において語り, アカデミズムの集合的自我をまるごと背負いこむ—イエスが全人類を, アトラスが全宇宙を背負いこむように—つもりなら, 本講座をその問いなおしの場としてしつらえることも当然, 考えてしかるべきだっただろう.

 いずれにせよ私たちは「私たち」のまったき共犯者だという意識もないし—だから「私たち」を問いに付すにあたって明確な居心地の悪さを感じることはない (ついでに言えば, 慶應義塾大学には原子力工学を専門に研究している研究室はたまたま存在しなかったので, 是非はともかくこの大学の研究者たちは集団としての罪悪感をその意味では感じずに済んでもいる)—, それと同時に逆説的なことに,「私たち」の共犯者ではないという明確な意識があるわけでもない—だから「私たち」であることの罪 (そのようなものがあるとして) を完全に免れているとも思わない. この微妙な立場はこの種の問いなおしにとっていわば理想的だったかもしれない.

 だが, そうは言いながらも, ともかくも私たちの1人1人は脆い心的機制を備えた生身の人間にすぎない. 少なくとも私はそうである. けっして開きなおるわけではないが, 私たちには (少なくとも私には) そのとき,「破局」を問うという選択肢はおそらくなかった. そのような講座を企画・運営するための余裕は私には残されていなかっただろうといまでも思う. 状況のなかでいわば病みついていたとはいえ, その病的な状態にとどまることでかろうじて自我を維持できたのかもしれないのであってみれば, 一種の分析が疾病利得 (心のぎりぎりの均衡) を私から取りあげてしまうことに対して自我防衛のために無意識によって抵抗が構成されたとしてもそれは不思議なことではない.

 私はいま経緯を説明するにあたって, ある分野の道具立てを使っている. 突飛に思われるかもしれないが, このような説明はある程度まで正当化されうるだろう. じつのところ, 私たちのサブテーマ決定には程度の差はあれ精神分析めいた自由連想がつきものである. なるほど, その鬼子にあたるブレインストーミングという無粋な手法が用いられることはさすがにないとしても—原則として, コーディネイターはあらかじめ自分で考えてきたサブテーマを責任をもって披露し, 会合ではそれを全員で理性的に検討するのであって, コーディネイター会議という資本家が寄ってたかって無意識というプロレタリアートを即興で容赦なく搾取するというような乱暴な手法はここでは採用されていない—, コーディネイターの各自がアイディアをひねり出すにあたって無意識という詩神 [ムーサ] の声に個々に耳を傾けなかったということはむしろありそうもない. コーディネイターは研究室で, あるいは家で (たとえば, 長椅子 [カウチ] ならぬソファーに身を伸ばしつつ), いわゆる基本規則にもとづいて, どんなに些細と思われること, どんなにはばかられることでも, 思いついたことは省略したり選択したりすることなくすべて口にするという作業—少なくともそれに似た作業—をおこなっただろう. だが, 分析に対する抵抗が当然のように生じたはずである. つまり, 何も思いつかない, そのことに関係する何も.

 (いや, これはさすがに誇張かもしれない. 少なくとも, 私個人にしか当てはまらなかったことかもしれない. それどころか, ひょっとするとこれはすべて私個人にすら当てはまらない捏造された記憶, いま私が2年前を振りかえって自己正当化のために美しくまとめてしまった空想上の抑鬱の物語なのかもしれない. いまとなっては記憶にないが, もしかするとじつは「破局」は何の衒 [てら] いもなく議論の俎上にのぼったかもしれない. わからない. すべてはぶ厚い霧の向こうである. だが, にもかかわらず確かなのは, 私たちはいずれにせよこの時局的な議論を最終的にサブテーマに据えることがなかったということである.)

 やむをえないとはいえ恥ずべき部分が皆無とは言えないこの自己防衛以外に, 破局をめぐるサブテーマが選ばれなかったということについて納得できる理由があるとすれば, 私たちはまさに終わりのない破局のただなかにいたからという一点がやはり大きいだろう. まったく先が見えない状況にあって, 半年後から開始される予定の連続講義を現在進行中の破局に直接結びつけて組織してもよいのか ? そのような企画は間違った先読み, さらには (残念ながらありそうもないことだったが, 万が一にも) 結局のところ無用な悲観主義に終わってしまうことはないか ? これが仮に, 企画してから間を置かずに開催できるイヴェントであったならば私たちはまた別の考えかたをしたかもしれないが, 1週間後の状況さえ誰も明確にイメージできないときにあって, 半年という微妙な時間の隔たりが私たちを躊躇させたというのは充分にありそうなことである. 企画準備にかける時間や手間からして, もともとこの講座は時局的なもの, ジャーナリスティックなものを容れる器にはなりにくい. これまでも, 時局をそのまま反映するサブテーマが立てられたことはない (将来にそのようなサブテーマが設定されうるということをここで否定しようというつもりはないが). その時局が切迫を極めたものであってみればなおのこと, そのような選択は忌避されておかしくなかった.

 これと同じことかもしれないが, この講座を受講する学生のための配慮というのもつねに念頭にあっただろう. とはいえそれは, 陰鬱な印象を与えるサブテーマは学生を受講へと駆り立てないだろうから, 受講者を増やすためには無難な, 能天気なサブテーマを立てるべきだ, というような姑息な戦略に属することではない (「生命の教養学」は枠組みの堅固さ, 真面目さゆえにはじめからこのような安直な戦略の可能性を放棄しているし, 受講者数はもちろん多いに越したことはないとはいえ達成すべき目標数などはじめから設定されていない). そうではなく, あまりに直接的な主題によって単に受講者たちの目が眩まされるだけで終わってしまったり, 最悪のばあいには彼らの心の安定がさらに失われてしまったりするかもしれないということに対する懸念があっただろう, ということである. そのような講座を企画してしまってはつまるところ, 毎日のように更新される, 正誤の確認すらままならない情報の洪水によって人々を怯えさせ, 判断力を麻痺させる役にしか立っていなかったあのジャーナリズムの生んでいた効果とつまるところそれほど変わらない効果を学生たちに対してアカデミズムの名のもとにあらためておよぼすことになったかもしれない. それは, 知のありかたを問いなおすという大義あってのことだとしてさえ, 大学での企画であるがゆえに知の権威の見かけを借りずにいない以上は, ジャーナリズムよりいっそう悪質な, 容赦のないものになりえたかもしれない.



 ともあれ, 私たちは合議で「成長」というサブテーマを選んだ.

 ひとたび選ばれてみれば, これはきわめて適切な主題だった. つまるところ,「成長」を問いなおすことは, ある程度の距離を取りつつそのことを冷静に論ずることを可能にしてもくれるからである (そしてもちろん, そのことを必ず論じなければならないわけでもない). 私たちは—コーディネイター, ゲスト・スピーカー, 受講者の誰もが—それぞれの望みに応じて, 議論にそのことを重ねて読むこともできるし, そうしないこともできる.

 これは時局との関連から見たかぎりでの利点だが, もちろんそれ以前に,「成長」は何よりもまず「生命」を捉えるうえで最も重要な概念の1つである. 本講座「生命の教養学」では, かつて2004年度—つまりは本講座が授業科目になった初年度—に「進化」がサブテーマとして取りあげられたことがあるが (講義録も『生命の教養学 ぼくらはみんな進化する ?』として2006年に刊行されている), それをある意味で含みこむより大きな概念と言えるこの「成長」はなぜかこれまで扱われたことがなかった. このサブテーマは, つねに目の前にあったにもかかわらず—あるいはそれゆえに—私たちの目に留まっていなかった貴重な掘り出しものだった.

 成長のない生命は考えられない. 生命を考えるうえで成長を無視することは, 理論上ありえないのみならず, 事実上も不可能だろう. またその逆に, 生命 (少なくともその類比物) のないところに成長はありえない. つまり一言で言えば, 成長は生命にとって本質的な現象である. すでにこの「はじめに」の冒頭で述べたとおり, 私たちは本講座において「生命」を可能なかぎり広い意味を含みうる概念として捉えているが, その広い意味での「生命」に含まれるもののそれぞれにも, 成長は本質的な特徴としておそらくつねに随伴しているものと思える.

 ゲスト・スピーカーのかたがた—冒頭に挙げたコーディネイター一同がそれぞれ個人的に培ってきた教養や人脈をフルに活用して作成した依頼リストに挙げたかたがた—への依頼文では, 私たちは「成長」を次のように説明していた.「最も狭い意味では生物個体の成長が考えられますが, 発生や進化, 群体の成長も考えることができます. 人間の身体の成長, 心の成長も重要です. 個人のキャリア上の成長も考えられます. 社会の成長やその一側面としての経済成長なども考慮できます. テクノロジーも成長との関わりで語られます. また, 人々がそのようなさまざまな成長に対して, たとえば文学においてどのようなまなざしを向けてきたかという問いも立つでしょうし, そのような成長との関わりのなかで学問自体がどのような成長を遂げてきたかということも問題になるように思います」.

 この種のオムニバス講義では牽強附会の危険に対してつねに警戒をおこたらない必要があるが, こと「成長」に関してはその危険はほとんどなさそうである.「成長」はあらゆる分野に見られるのみならず, 各分野において重要な位置をそれぞれに占め, しかもそれが各分野における「生命」(ないしその類比物) のありようを如実に示しているだろうことが無理なく想像できる.

 というわけで私たちは,「そのようなさまざまな角度からのアプローチによって, 全体としていわば「成長の博物誌」のような授業が構成されることを夢見ております」という文言を付して, 展開されるべき講座について私たちの思い浮かべているヴィジョンをそれぞれのゲスト・スピーカーのかたにお伝えした.

 この趣旨をご理解くださり, 講義をお引き受けくださったかたがたのお名前を以下に, 肩書きと専門分野を添えて, 実際のご登壇順に列挙しておく (敬称略. なお, より詳細な略歴はそれぞれの講義冒頭に記載されている). 三中信宏 (独立行政法人農業環境技術研究所上席研究員, 進化生物学・生物統計学), 石倉洋子 (本塾大学院メディアデザイン研究科教授, 経営学), 村上陽一郎 (東洋英和女学院大学学長, 科学史・科学哲学), 山海嘉之 (筑波大学大学院システム情報工学研究科教授, ロボット工学), 古市憲寿 (東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍, 社会学), 松浦良充 (本塾文学部教授, 比較教育学), 斎藤修 (一橋大学名誉教授, 比較経済史), 茅根創 (東京大学大学院理学系研究科教授, 地球システム科学), 富田庸子 (鎌倉女子大学児童学部准教授, 教育心理学・発達心理学), 近藤滋 (大阪大学大学院生命機能研究科教授, 発生生物学), 奥野景介 (早稲田大学スポーツ科学学術院教授, スポーツコーチ学).

 本講義録は実際におこなわれた講義内容を実質上, そのまま再現している. ただし, 1冊の本としてよりスムーズにお読みいただけるように講義の順番は入れ替えてある. 今回は, 講義を人文科学, 社会科学, 社会実践, 自然科学という4つの範疇におおまかに分けて配置した. とはいえ, 境界的な領域を扱っていらっしゃるかたも多く, この配列は厳密な体系性を反映しているものではない. また, これも言うまでもないことだが, 各講義は独立しているため, 私たちによる配列を考慮せずにお好きな順序でお読みいただいてまったくかまわない.

 実際の講義との相違点がもう1つある (こちらのほうがはるかに甚大な相違点である). 4回めにご登壇くださった山海嘉之教授といえば, ロボット・スーツ「HAL」を開発なさり,「サイバーダイン (Cyberdyne) 」社を設立してCEOの任に就かれ,「サイバニクス」とご自身の呼ぶ新複合領域の展開のために尽力されているという, いわば斯界の大立者でいらっしゃるかただが, まさにそれゆえに校正のお時間を取っていただくことさえ困難なほど多忙を極めていらっしゃった. そのため, 大変残念ながら今回は講義収録を断念せざるをえなかった. 付記するが, ご自身の研究・開発の経緯や実際の成果の紹介を中心に据えつつ, サイバニクスによってもたらされる社会と人間の成長のヴィジョンをご披露くださった講義は非常に啓発的なものであり, 講義後も受講者たちからの質問が途切れることはなかった.



 さて, 各講義の実際に触れるには本書をひもとけば足りる. コーディネイターにすぎない私があえてさらに言い添えるべきことなどないが, 互いを知ることのなかった巨人たちの肩から肩へとジャンプしてまわることのできた特権的な者として—そのような幸福な立場に身を置くことができたのはコーディネイターと受講者たちだけだが, 今後はそこにもちろん読者の皆さんが付け加わる—, 誰でも気づけただろうことを少しだけ書きとめておく.

 「成長」の何たるかは, 各分野において「生命」(ないしその類比物) の占める位置に応じてさまざまな形を取る. 11名 (講義録では10名) のかたによる, ご自身の専門分野における「生命」の捉えかたがすでにさまざまであり, だとすればもちろん, そこから出発して試みられる「成長」の解釈は多様なものになって当然である. そして事実, ある程度まではそうである.

 ところが, その多様な「成長」観の全体からしだいに共通のイメージが浮かびあがり, 少しずつ鮮明さを増していく. まったく異なる対象をまったく別の視角から論じているにもかかわらず, 共通の概念や例証や譬喩がそこかしこに現れ,「成長」への認識, そして「成長」を通じての「生命」への認識が改まっていく.

 私は本講座の企画・運営に関わるたびにこの種の予期せぬ符合に心地よい不意打ちを受けてきた. 私は, ゆるやかに連関しつつ多様なヴィジョンを提示してくれるこの講座全体のありようを「博物誌」と呼んだり, あるいはそこから生まれるイメージを「万華鏡 [カレイドスコープ]」のそれに譬えたりしてきた.

 しかし, もしかするとそれはむしろホログラフィのようなものかもしれない. 聞くところによると, ホログラフィ—クレディット・カードに付されている偽造防止用イメージでおなじみの, 私たちの両目に対して3次元イメージを自然に立ち現れさせてくれる技術—では, これこれの物体を写したフィルム上の個々の微細な部分のそれぞれにイメージの全体が記録されているという. したがって, 仮にそのフィルムを2つに切ってしまっても, 写されている物体のイメージ自体が半分に切れたものになるわけではなく, 2つの断片のいずれからもやはりその物体全体のイメージが得られることになる (ただし, イメージの鮮明さというか, 3次元性を生む情報は減る). 逆に言えば, すでに全体を写している個々のイメージが大量に集積した効果として, 視差を活かした鮮明な3次元イメージが得られているということである.

 これは教養のありようを譬えるのにかなり好都合な特性に思える. 個々の研究 (あるいは今回のような講義) のそれぞれはそれ自体,「いずれ到達されるはずの, 窮極の, 世界の完全な認識」といったありそうもないものの一部をなすにすぎない部品—単独では意味をもちえないジグソー・パズルのピースのようなもの—などではない. 個々の研究はそのつど単独ですでに全体をなし, 独立して意味をもつものとして提示され, 単独で十全に理解される. とはいえ, そのような独立した全体的把握の1つ1つは, いかに充実したものであろうと, 全体なるものの一面をまずはそれぞれに捉えているにすぎない. ところが, それぞれに視差をはらんだそのような全面的なヴィジョンの数々が分野を超えて邂逅すると, そこに現れるのは—やはり全面的なヴィジョンであるにはちがいないが—ついにいわば3次元性を獲得した, そのつど明確さを増すヴィジョンなのである.

 本講義録において成長のホログラフィがイメージを結ぶカギとなるかもしれないもの—要するに, 10の講義のそこかしこに登場し, それらを互いに結びつけうるとも読める考え—を簡潔に列挙して, この「はじめに」を終えたい.



1. 成長は発達, 発展, 発育, 進化, 成熟, 変化といった類語と対照されうる. そのように対照することで, 成長ならではの特質が浮き彫りになるとともに, 種々の分野において「成長」と呼びならわされているものの命名の是非もあらためて問うことができる.

2. 成長は個体 (ないしその類比物. 人間にかぎらない. 以下も同様) が単独でおこなうものではない. ある個体の成長に関与する別のものがそれにあわせて—当の個体への配慮を通じて—自ら成長するということもあるし, 個体を取り巻く環境が個体と不可分なしかたで成長するということもある.

3. 成長には他のものの関与がしばしば不可欠である. その関与には消極的なもの—最低限の関与—もあれば, 積極的な介入もある. その両者が多かれ少なかれ葛藤をはらみつつ有機的に連関するのが通例である. また, 関与には規範を付与するたぐいのものもあれば, むしろ規範を逸脱するたぐいのものもある. そして, それらの複合的関与を通じて, 最終的にはある種の同一性 [アイデンティティ] への到達が目される.

4. 成長は連続的にではなく段階的になされるばあいがある. その発達段階に応じて, 成長への関与のしかたもおのずと異なってくる.

5. 成長には, 単にそれを促進する要素だけが関わるのではない. ばあいによっては, じつは他ならぬ成長を阻害・抑制する要素がこれこれの個体に特有な成長の最終的結果に対して不可欠なものとして関与することがある.

6. 成長する当の個体は, 成長するための素地としてあらかじめ未成熟であることがしばしばある. 本来であればある程度まで成長の終わった状態で生命を開始しているべきところに, 設計上, 未成熟—つまりは早すぎる誕生—が与えられてしまっている. それは当然のことながら個体自体の脆さや依存性を帰結してしまうが, その弱点こそがじつは逆説的に個体の成長の可能性を確保することになる.

7. 成長は必ずしも無条件に肯定されるべきものでもない. それは終わりなく続くものではない. また, ある特定の時期の成長を見て, その成長の尺度を他の時期にそのまま当てはめるのも危険である. 無限のさらなる成長を信じたり, それを無反省に議論の前提としたり, それによって無理に成長を促進し続けたりすると歪みが生ずることもしばしばである. 歪みはさまざまな破局・災厄という形を取ることもある. そのばあい, 成長は問いなおされ, ばあいによっては脱成長が要請される.

8. 個体は危機や災厄においてさえ, それらを糧にしてさえ成長することがありうる.