ミシェル・フーコーと推理小説
「ミシェル・フーコーと推理小説」
『現代思想』vol. 31, no 16, 青土社, 2003年12月, pp. 206–218.


1 「体刑の輝き」の終わり

 生前に単行本として刊行したテクストのなかで, フーコーが推理小説に比較的まとまったページを割いているのは, 知るかぎりでは2ヶ所だけだ01. 『監視と処罰』の第1部第2章「体刑の輝き」末尾の数ページと, さらにもう1ヶ所である. 最初の議論を紹介する前に, まずはこの本の冒頭からの叙述を概観しておこう.

 大逆罪を宣告されたダミヤンに加えられた体刑 (1757年) の描写と, レオン・フォーシェの手になる「パリ少年拘置所のため」の規則 (1838年) を並置して転記し, この2つの出来事のあいだに経過した百年足らずの時間のうちに起こっただろう知の転換を想像させることで開始される第1部第1章「受刑者の身体」の冒頭から, フーコーは, 処罰制度におけるスペクタクル的体刑の消滅という事態に焦点を合わせている. 「処罰は, ほとんど日常的とも言える知覚の領域 [つまりスペクタクル的体刑の領域] を離れ, 抽象的な意識の領域 [つまり罪悪感を生む良心の領域] へと入っていく. 処罰は, 目に見える〔あからさまな〕強烈さによってではなく, 必ずや処罰されるという宿命によって効果あるものとなる. 人が犯罪の道を歩まないのは, あのおぞましい演劇があるからではもはやなく, 必ずや処罰されるだろうという確実さ〔確信〕があるからなのだ02」. それと同時に, 感覚する身体から自由を享受する身体へと処罰の対象が移行する様子が語られる. 処罰は身体の感覚という直接的なものに対して加えられるのではなく, 身体が本来もちうるとされる自由という理念的なものに対して加えられることになる. 体刑から禁固刑への質的転換である.

 続く第2章「体刑の輝き」ではこの転換をふまえ, あらためて過去に立ち返って, 失われたスペクタクル的体刑の時代がたどられる. 体刑を単に無軌道かつ粗暴な処罰制度だと見なす先入見を払拭するために, いくつかの事実がまず確認される. すなわち, 体刑を規定している法は実際には必ずしも厳密に適用されてはおらず, 恣意的な運用によってしばしば適用が緩和されていた. 各種の具体的な段階別の体刑 (鞭打ちの回数, 斬首か絞首か八つ裂きか, 云々) を備えることによって, 制度は量刑の階梯に説得力をもたせていた. 処罰を身体に書きこむこと—またその書きこみを公衆にスペクタクルとして見せつけること—は, 処罰の効果を人々に対して明示的に説得するという役割を果たしていた. 処罰として現れる暴力は支配権力の恥辱をではなく, むしろ威光を保証していた.... 「刑罰としての体刑とは, さまざまに違いをもった苦痛を生産するというものである. 体刑は, 犠牲者を有徴のものとするために, また処罰をおこなう権力を顕示するために組織立てられた一個の儀礼である. それは, 司法がおのれの諸原則を忘れ自制を失って猛りたった姿などではない. 体刑の「行き過ぎ」と言われているものとは, じつは権力の一大エコノミーがそれに向けて備給されている当のものなのだ03」.

 そのうえで, この時代の体刑をめぐる司法の特徴と見なしうるいくつかの点が指摘されるが, それらはつまるところ, 体刑が捜査ないし裁判の過程とも不可分だったという一点に収斂する (捜査の過程で用いられるはずのものである拷問が, じつは処罰の一つとして分類されていた, 云々). この時代にあっては, 一方の捜査ないし裁判の過程と, 他方の処罰の過程とは, 手続きの違いこそあれ実質的には連続性をもったものと見なしうる. そこでフーコーが主張するのは次のとおりである. すなわち, その時代の司法においては, 真理はあらかじめそれとして存在するものが何らかの試験を通じてそれとして認証されるというしかたで定着されるのではなく, 試練 (神明裁判の流れを汲む拷問, 公衆を前にして罪人に真理を語らせる体刑...) を通じてそのつど生産され表明されることで定着される. その真理の生産の舞台だという点については, 捜査ないし裁判の過程と, 処罰の過程とのあいだに性格上の違いはない. そして, 身体こそが, その真理の生産にまさに身体を与えるものとされる. 司法が身体に対して働きかけることで, 真理が出来事として表明される. 「被告の身体, すなわち語る身体, 必要なばあいには苦しみを受ける身体は, この2つの機構 [裁判における拷問と処罰における体刑] の歯車として働いている04」.

 というわけで, 体刑は, 公衆を前にしておこなわれる身体の語りを, 司法権力が犯罪の暴力を凌駕しようとしてまとう暴力の「行き過ぎ」ぶりにあわせて, 行き過ぎたものとして要求することになる. すなわち, 処刑を前にして今や罪人となった者は, スペクタクル的な語りを残すことになる. 公衆はこれを, 犯罪者への共感や恐怖のないまぜになった感情をもって欲する. 「群衆が処刑台のまわりに押し寄せるのは, 単に罪人の苦痛に立ちあったり, 死刑執行人の激昂をあおったりするためではない. それはまた, もはや失うものなど何もない者によって裁判官, 法, 権力, 宗教が呪詛されるのを聞くためでもある. 体刑は罪人に対して, もはや何も禁じられず処罰されることのない, このにわか仕立ての無礼講に及ぶことを許すのだ05」.

 そこで, 「処刑台の言説06」とでも呼ぶことのできる一連の語りが残されることになる. 罪人が処刑される直前に自分の犯した犯罪や犯罪へと至る経緯や教訓などを語るものだが, その内容の真偽はともあれ (一般に流布された版はあまりに教訓じみた様相を呈しているため, 粉飾が施されていると見なすほうが理に適っている), そのような言説が存在し, 公衆のあいだで受容されていたという事実は動かしがたい. 犯罪者自身が処罰に際して, 自分の身体を賭して真理としての犯罪を語るのだ.

 ここに至って私たちはようやく, 犯罪に関するある種の文学の生産にまでたどりついた. ここからが, スペクタクル的体刑の時代から近代への移行にともなう, 推理小説の誕生の光景である. 少し長くなるが, 引用する.

 それら [「処刑台の言説」を転記したものと言われ, 民衆のあいだに流布された文学] は, まったく異なる犯罪文学の発達につれて消滅した. その [新たな] 文学で犯罪が讃美されるのは, それが一つの芸術であり, あくまでも例外的な本性をもつ営為たりえ, 強者や力あるものの怪物性をあらわにするものだから, 非道がやはり特権者である一つのやりかただからだとされる. 暗黒小説からド・クィンシーに至る, 『オトラント城』からボードレールに至る, 犯罪の美学的な一大書きなおしがあるのであって, その書きなおしはまた, 犯罪というものを受容可能な形にして我がものにするということでもある. これは一見, 犯罪の美と偉大さの発見であるように見える. だがこれは実際には, 偉大さもまた犯罪を犯す権利をもっているという断言, 犯罪は現実に偉大である者たちの専有する特権にさえなるという断言なのだ. 美しい殺人は, 不法行為でちびちび稼ぐ者たちのものではない. ガボリオーから始まる推理小説は, まず起こったその転位に次いで登場したものだ. 推理小説によって表象される犯罪者は, 奸智と精妙さと知性の極端な明敏さによって, 容疑を掛けられない者となった. 2つの純粋な精神—殺人者のそれと探偵のそれ—が, 対決の本質的な形をなすことになる. 犯罪者の生涯と悪行を詳細に語り, 犯罪者自身に自分の犯罪を告白させ, 加えられる体刑を仔細に物語る, あのかつての物語とはまったくかけ離れたところに私たちはいる. 事実の陳述や告白からゆっくりとした発見の過程へ, 体刑の瞬間から捜査の局面へ, 身体を張った権力との対決から犯罪者と捜査者のあいだの知的な闘争へ, という移行が起こったのだ. 推理小説が誕生したときに消滅したのは, あの [「処刑台の言説」を転記した] ビラだけではない. それとともに, 野卑な悪者の栄光や, 体刑のもたらす暗い英雄化も消滅した. 民衆から出た人間は, 精妙な真理の主人公になるには今や単純に過ぎる, というわけだ. この新たなジャンルには, もはや民衆の英雄も大処刑もない. そこでは人は悪者ではあっても知的なのだ. 人は処罰されるとしても, 苦痛を受けるにはおよばない. 推理小説という文学は, 犯罪者を取り巻いていたあの輝きを, かつてとは異なる社会階級へと置換する. 新聞は, 軽罪とそれに対する処罰とを日々の雑報であらためて取りあげることになるが, そこに見られるのは, 叙事詩的な [高らかな] 調子のない, 灰色一色の描法だ. 民衆はかつて自分たちの犯罪につきまとっていた誇りを奪われ, 大殺人事件は賢人たちの静かな遊びになった. 分割がなされたのだ07.



2 推理小説と民主主義

 さて, 今この一節を引用したのは, 推理小説をめぐって展開されているさまざまな議論に対してこれだけをもって新たな抵抗を形成しようとするためではない. そもそも, ここでフーコーが述べていることのうちのいくつかの点はすでに—別のしかたでではあれ—指摘されている.

 どのような点がすでにフーコー以前に指摘されていたか? まず, 推理小説が近代的司法の確立をまって誕生したという点はすでに指摘されて久しく, このジャンルをめぐる言説においてはこの点に触れることが一種の典礼になってさえいる. ドロシー・リー・セイヤーズは1928年にすでに次のように書いている.

E・M・ロング氏が輝かしい小論で示唆しているように, この初期 [推理小説の誕生以前] を通じて次のように言えるだろう. すなわち, 「証拠に依拠する法が [依然として] 不完全だったということが問題だったのだ. というのも, 何が証拠を構成するのかを公衆が理解するまでは探偵は活躍することができなかったからだ. 犯罪に対する通例の手続きは逮捕, 拷問, 告白, 死, であった」. さらには次のようにも言えるかもしれない. すなわち, 犯罪の物語は開花しえただろうし実際に開花してもいたが, いわゆる推理小説が開花しえたのは, 公衆の共感が法と秩序の側に移ってからのことなのだ. 概して, 初期の犯罪文学には犯罪者の狡猾さや抜け目なさを称讃するという傾向があると言えるだろう. 法が恣意的で, 抑圧的で, 粗暴なしかたで運営されているうちは, そうあらざるをえない08.

 近代以前に「法が恣意的で, 抑圧的で, 粗暴なしかたで運営されている」とされている点はフーコーの議論にしたがって修正する必要があるとはいえ, 一方の近代的な意味での証拠においてのみ法的な真理が明らかになるとする規定の一般的な受容と, 他方の文学ジャンルとしての推理小説の誕生とが軌を一にしているとする命題は, ここですでに定式化されている.

 推理小説をめぐるこの一種の定理は, 「法と秩序がそれとして最も尊重される制度は近代民主主義に他ならず, またそれは最も善い制度だ」という憶見に支えられ, 「推理小説が最も発展しうる社会は近代民主主義国家であるはずであり, 事実そうであると確認される」という, 現状を追認する命題として固着されることになる.

 セイヤーズも, 今しがた引用した一節に続けて, 「今日でもアングロ‐サクソン人種のあいだでは推理小説が花盛りである」ことと「イギリスの群衆は警官の側につくということで悪名高い」こと, フランスでは「イギリスにおけるほど街路の警官が尊重されていない」ことと「英語を話す人種に比べて推理小説の生産量は明らかに少ない」こと, また「ヨーロッパの南のほうの国々では法に対する愛がさらに薄い」こととそこでは「推理小説がさらに少ない」こと, このそれぞれ両者を結びつけて語っているが09, この種の議論が最もあからさまに見られるのは, 今日も依然としてつねに推理小説研究の第一に挙げられるハワード・ヘイクラフト『娯楽としての殺人』に収録されている補論「独裁者, 民主主義者, 探偵」においてである. ヘイクラフトは第2次世界大戦直後に書いたこの小論で, いわゆる全体主義国家の興隆という, セイヤーズが1928年には知りえなかった状況をふまえ, その体制 (ドイツとイタリア) によって推理小説が断罪されたという出来事を報告しつつ, 民主主義と推理小説の通底性をあらためて確認している.

このような動き [ドイツやイタリアの全体主義体制によっておこなわれた推理小説に対する迫害] を, 自由な土地の市民の多くは単に, 独裁制の示す道理のない莫迦莫迦しさ (かつては非常に可笑しかった!) のさらなる実例として等閑視していた. だが, 推理小説の発生, 歴史, 諸前提自体のことを少し立ち止まって思い返してみた読者たちには, これらの布告にはそれほど驚くべきところはないと思われた—ただ, 布告がずいぶん延期されたという点を除いては. というのも, 推理小説はその本質から言って民主主義の制度であり, また今までもつねにそうだったからだ. すなわち, 推理小説が大規模に生産されたのは民主主義体制においてのみなのだ. 推理小説は, 立憲制下の土地に住む者たちをそれほど幸運でない者たちから区別する貴重な権利や特権の多くを, 娯楽という明るい上着に包みながら, 芝居仕立てにして描いている10.

 とはいえその少し先で, ヘイクラフトは一見するとフーコーのそれにも似た歴史的検討をおこなってもいる.

統治が〈私たち〉のおこなう統治であれば, 〈私たち〉の共感は〈私たち〉の作った法の側にある. 統治が〈彼ら〉のおこなう統治であれば, 〈私たち〉は本能的に, 〈彼ら〉によって追いつめられる孤独な輩 (「神の恵みによって私がある」) のほうに共感を寄せる. 暴君制によって育まれるのは反抗者だけではない. ならず者の文学も育まれる. 慈善で犯罪を犯すロビン・フッドやその「血統」の兄弟たちのことだ. 統治に本当に人気があるなら, このロビン・フッドたちはほとんどいなくなる11.

 しかし, あらためて言うが, 問題なのはこれらの議論においては「民主主義」が検討なしで肯定されているということなのだ. また, これらの議論が, しばしば軽視されてきた推理小説というジャンルの市民権 (文学一般という場における, 文化一般の消費における, あるいは社会における) の要求にともなって姿を現しているということも無視できない. すなわち推理小説は, 全体主義によって敵視されているからには民主主義の側に立つのが当然であり, 民主主義の側に立つからには完全な市民権を主張しうる, とされる. 推理小説は民主主義社会における善良な一市民だ, したがって軽蔑してはならない, というわけだ. このような結論は, フーコーの議論からはもちろん導かれない. 推理小説の愛すべき市民権など, このジャンルのもともとの成立をめぐる議論とは何の関係もない (これも, その後のジャンルとしての確立と, そのように確立されたジャンルの分析には, ジャンルとジャンルの分析との相互作用—推理小説論の十全な展開をまって「純粋な推理小説」を志向する小説が書かれるといったたぐいのこと—があるがゆえにむろん関係してはくるが). これは, 推理小説の自覚的な擁護者たちが歴史記述を装った言説のなかに滑りこませた護教論の一片と見なすのが理に適っている.

 そもそも, 推理小説がいわゆる民主主義と「相性がいい」などということも自明ではない. 19世紀末までは, 推理小説の出版と読書を許すことは犯罪をむしろ助長するという見解が広く見られ, セイヤーズやヘイクラフトの型の言説—推理小説は法と秩序の尊重に対する親和性をもつ遊びだとするもの—が登場するのは世紀が変わるあたりからであるらしい. そこからさらに, その陰画として, 推理小説はブルジョワ社会が自分に都合のよい法と秩序の保存のみに充足することを保証する保守的な遊びだとする言説も現れるようだ12. いずれにせよ, すべては読者の立場によって左右されうる. 単なる平凡な読者の居場所はやはりない.



3 非行と言説

 フーコーの議論にあって, それまでの議論にも見られるものとして, もう一点のみ指摘しておこう. すなわち, 推理小説を準備したのが, (理念的には別の系譜を発明することは可能だとしても) 歴史的には「処刑台の言説」とフーコーが呼ぶものであり, またその近傍に位置する犯罪文学, そして犯罪と芸術とを結びつけようとするある種の運動だった, という点である.

 推理小説の誕生に先行するものとして, 推理小説論においてほとんどつねに言及される固有名が少なくとも3つある. 『ニューゲイト・カレンダー』, ピエール・フランソワ・ラスネール, ウジェーヌ・フランソワ・ヴィドックである. 最初のものは, 18世紀にロンドンのニューゲイト監獄に収監された罪人について書かれ公衆に供された各種の読みものの総称で, そこでは生まれや育ち, 犯罪に至る経緯, 最後の悔悛の言葉などが興味本位にまとめられていた. それら雑多な読みものが後に同名で編纂されて広く読まれるに至った. これはフーコーのいう「処刑台の言説」の代表的なものと言える. ラスネール (1803–36年) は犯罪を称揚する文筆家くずれで, 窃盗を重ね, 殺人を2件犯して処刑されるが, その前に『回想録』(1836年) を執筆し, これが死後, 大人気を博した. これは, 「犯罪の美学的な一大書きなおし」とフーコーが呼んでいるものに相当する. そしてヴィドック (1775–1857年) は逮捕と脱獄を何回かにわたって繰り返した犯罪者だが, その後, その職業的知見を生かして警察のスパイとして雇われた. その職を辞した後に民間で捜査を請け負う仕事を始め, 世界で最初の私立探偵の1人と言われる. 彼の『回想録』(1828–29年) はその半生を物語るが, 実際に本人が書いたか, また書かれていることが事実か, かなり疑わしいとされる. ただ, この人物は実際に, エミール・ガボリオーのいくつかの小説—最初期の推理小説—の主人公である探偵ルコックのモデルになったということが広く知られており13, 犯罪文学と推理小説を系譜上つなぐものとして, また近代的な捜査—探偵の活動を含む—の確立にあたって犯罪と警察が不吉なつながりをもっていたことを示すものとして, しばしば言及の対象となる14. フーコーの議論では, 推理小説の誕生に際して見られたという「事実の陳述や告白からゆっくりとした発見の過程へ, 体刑の瞬間から捜査の局面へ, 身体を張った権力との対決から犯罪者と捜査者のあいだの知的な闘争へ, という移行」の点に相当する一例だと言える. したがって, これら3者に言及するという, 推理小説論における一種の因習を知っている者であれば, この点についてフーコーの議論に新しいところは少ないと考えるかもしれない.

 フーコー自身によるヴィドックとラスネールへの明示的な言及は『監視と処罰』にはないのか? ある. それはこの本の末尾近く, 第4部第2章「不法行為と非行」に見られる15. この章では, 近代における処罰の変容 (体刑から収監へ) を周知のとおり長々と分析してきたフーコーが, ここでもやはりあらためて体刑の時代に戻ったうえで—まるでこの問題がはずみをつけないと越えられない急な坂であるかのようだ—, 不法行為一般がこの変容につれて「非行」に置き換えられていった様子をたどっている16. 規律にもとづく処罰への移行は社会における犯罪者の数を減少させることはなく, むしろ監獄が犯罪者の再生産の場となってしまう, という批判はしばしば口にされてきた. フーコーはこの種の言説を否定せずふまえたうえで, ただしそれでも制度の側には確実に利があったと主張する. 一言で言えば, 制度は, 不法行為がどうしても生産されてしまうのなら, せめて扱いやすい, さらには役に立つ不法行為が生産されるようにはからうのだ. 「[...] 監獄は, 一見したところ「失敗」しているように見えながら, 目標を外していない. いや, 監獄は, 不法行為がさまざまあるなかで特定の不法行為を惹き起こすかぎりにおいて, 目標に到達するのだ. 監獄はこの不法行為を他から引き離し, 明るみに置き, ある場として組織することを可能にする. その場は相対的には閉じてはいるが, そのなかに入りこむことはできる17」. その「場」こそ, 「非行」と呼ばれる不法行為である.

 非行は, 制度が各種の不法行為を制御するために導入することができる種類の不法行為だと言える. その導入の代名詞として挙げられているのがヴィドックだ. フーコーによれば, 彼がこの点から見て重要なのは, ある時期まで花盛りだった『ニューゲイト・カレンダー』をはじめとする「処刑台の言説」—過去の言説になりつつあった—に類したものを彼もまた『回想録』で展開していたからでも, 一犯罪者が警察で高位に就くに至ったからでもないという. ヴィドックが重要なのは「彼において, 非行が目に見えて両義的な立場を取ることになった」からだ. それは「警察装置にとっての [捜査の] 対象でもあり道具でもあるという立場, 警察に抗して働くとともに警察とともに働くという立場」だ. 「ヴィドックは, 非行が他の不法行為から引き離され, ひるがえって権力によって備給されるという契機をしるしづけている18」. この分析は, この人物についての推理小説論の枠内での通常の読解とは, わずかだが決定的に異なっていると思える. すなわち, 因習的な読解がこの人物に見るのは単に, 犯罪小説から推理小説への転換点, 探偵の形象の誕生, さらには警察と犯罪との結びつきの可能性といったものだが, フーコーはいわば, 犯罪それ自体がヴィドックとともに質的に変容していく, と言っているのだ. これ以降, 秩序を維持することがではなく, 無秩序を運営する (犯罪によって犯罪を制御しつつ, できるだけ運営のしやすい無秩序を生産する) ことが制度の課題になる, と言ってもいい19.

 ラスネールはというと, この, すでに「非行」化された不法行為をおこなったにすぎない者とされる. 本人の主張とは異なり, そこにあるのは体刑の時代に公衆に恐怖を与えた大犯罪ではなく, せいぜいが単なる殺人である. 彼が称讃するものは, かつてスペクタクルをともなって自らの真理を告げたあの恐怖に満ちた犯罪ではなく, 芸術や美といったものと結びついた犯罪なのだ. 「死に際して, ラスネールは不法行為に対する非行の勝利を明らかに示す. いやむしろ, 彼が明らかに示すのは一つの不法行為の形象だが, その不法行為は, 一方では非行へと回収され, 他方では犯罪の一美学へ, つまり諸特権階級の一芸術へとずらされている20」. 犯罪は, 体刑の恐怖と結びついた言説であることをやめ, 純粋な言説となる, と言ってもいい. 以後, 愛されるのはこの言説自体であって, かつての恐怖ではない.

 そしてフーコーは言う. 「称讃されたのは, 非行に隷従し, 言説へと姿を変えた—つまり2度にわたって無害にされた—不法行為の象徴的形象である. ブルジョワジーは自分のためにある新しい快楽をでっちあげていたが, その快楽の営みを汲み尽くしたと言えるほどではなかった21」. この「新しい快楽」こそが, 私たちが当初から問題としていたものなのだ. これは処罰の変質と犯罪自体の変質とにともなってはじめて生まれた快楽であって, この点をふまえずに単に犯罪と警察の関係や「民主主義」の確立のみをもって推理小説の誕生を語ることがいかに危険なことであるかが, ここからわかるにちがいない.

 そして, 一見すると因習的な推理小説論の歴史記述とそっくりな道具立てで終始議論を展開してきたフーコーがたどりつくのが以下の結論である.

[...] 非行者についての人々の知覚に対してあるはっきりと規定された格子を押しつけようとする長い企て [がなされた]. すなわち, 非行者たちをほんの近くにいる者たち, 至るところにいる者たち, そして至るところで恐ろしい者たちとして提示するという企てである. それが, 報道〔新聞〕の一部分を侵食した雑報の機能であり, 雑報だけを載せる新聞も生まれるようになる. 犯罪の雑報は, 毎日の [繰り返して掲載されるという] 冗長さによって, 社会を方囲する司法と警察による制御の総体を人々が受け容れられるようにする. 雑報は日々, 顔のない敵に対する一種の内的な戦いを物語る. 雑報はこの戦争において, 警告や勝利を日々伝える広報になっている. [新聞の] 続きものや安手の文学で発達しはじめていた犯罪文学は, これとは明らかに逆の役割を引き受ける. その機能はとりわけ, 非行者がまったく異なる世界に属し, 馴染みのある日常の存在とは何の関係もない, ということを示すということである. その疎遠さとは, まずは最下層のそれ (『パリの神秘』『ロカンボル』), 次いで狂気のそれ (とりわけ19世紀後半), そして最後は金色に輝く犯罪, 「上等な盗み」という非行のそれだった (アルセーヌ・リュパン). 雑報と警察文学〔推理小説〕は一緒になって, 1世紀以上にわたって, 度外れた量の「犯罪の物語」を生産した22.



4 3方向からの攻囲

 推理小説についてフーコーが単行本で述べているのは, おそらくは以上に尽きる. わずかな量だが, これだけでもかなり信用に足る出発点だ. 事実, 今では, この2ヶ所の記述を理論的な出発点として書かれたとおぼしい優れた研究を挙げることもできる. 「警察は, 警察の物語によってはじめて存在する23」と主張するウリ・アイゼンツヴァイクの卓越した研究『ありえない物語』(1986年) や24, さらに極端なところでは, 「小説 [一般] の本性と警察の実践とのあいだには根源的なもつれあいがあるかもしれない25」と想定するデイヴィド・A・ミラーの『小説と警察』(1988年) が思い浮かぶ26.

 アイゼンツヴァイクはある箇所で, 「ポウを扱ったフーコーの講義があったなら出席したかったところだ27」と書く. これは, エドガー・アラン・ポウ「モルグ街の殺人」(1841年) を分析し, 歴史 (主人公デュパンの「貴族性」) から考古学 (犯人であるオランウータンの「前歴史性」) へと—「狂気を通りつつ28」—移行していく言説に言及するときに洩らされた一言にすぎない. とはいえ, フーコーの書いたものとしては『監視と処罰』のみを参照するしかなかったこの研究者に対しては, 私たちは今では (ポウへの言及の有無はともかく) 関連する他のテクストもわずかながら読めるのだと言ってみたいところだ. 言うまでもなく, フランス語では『Dits et écrits』(1994年) として4巻本で, 日本語では『思考集成』(1998–2002年) として10巻本で刊行されたものに含まれるいくつかのテクストのことである.

 『思考集成』の第4巻と第5巻 (『Dits et écrits』では第2巻) に収録されているそれらのテクストから, とくに1つだけを紹介したいと思う.

 (念のためその前に, 関連するその他のテクストを簡単に挙げておく. まず, 『監視と処罰』の刊行後におこなわれた多くの対談のなかに, ジャン‐ジャック・ブロシエとのものがある. そこでは, 監獄が犯罪者を矯正するより助長させるという状況に直面した制度が, その状況を逆用して自分に都合のよい犯罪者を生産するようになったということ, ヴィドックとラスネールはその新たな犯罪者の2つの型を代表するものだということ, 前者は制度が犯罪者集団の制御のために活用した型の犯罪者であり, 後者は犯罪を美学化して大衆から切り離す役を果たす型の犯罪者であるということ, これらがあらためて簡潔に確認されている29. 『監視と処罰』の末尾近くの議論とまったく同じである30. また, ラスネールへの言及は『監視と処罰』刊行の2年あまり前, コレージュ・ド・フランスの1971–72年度講義の梗概にもすでに現れている. この梗概の末尾では, 翌年に『私, ピエール・リヴィエールは...』として刊行されることになる資料の分析の進捗状況が簡潔に語られており, そこで時代背景としてラスネール『回想録』の刊行が言及されている31. ただし, その示唆的な言及も, もちろんこれだけでは私たちにはあまり役に立たない.)

 私たちがここで検討したいのは, ある監獄で収監者の闘争運動を組織していた元受刑者セルジュ・リヴロゼの書いた『監獄から反抗へ』(1973年) に寄せてフーコーが書いた「序文」だ32. 全文を引用したいという誘惑に駆られるほど整理された, しかも『監視と処罰』に先だって基礎的な枠組みをすでに提示している議論がそこには読める.

 まず, 受刑者の言説がすでにある因習によって囲いこまれていることが指摘される. 公に許可されてきたのは, いわゆるラスネール型の言説だけである. 「彼ら [書きものを綴る受刑者] に私たちが課す条件は一つだけである. 自分の生を [思考を交えずに] 物語る, という条件だ33」. 思考をではなく回想のみを語ることで, 出来事は意味ある連鎖をなさず, 偶発事の羅列としての冒険となる. 「出逢い, 機会, 行為, 逃走, 逮捕, 証拠, 判決, 脱走—ただ一度しか出逢われない, 一つしか名をもたない非蓋然性と好運とのなす総体だ34」. この言説によって「私たちは彼らに注意を払い, その注意は彼らを讃え私たちを楽しませる35」. 私たちは, 犯罪を偶然という範疇においてのみ考えたがっているというわけだ.

そのように納得するために, 私たちは, 互いに向きあった2つのジャンルの物語をもっている. 一方は推理小説であり (最大限の非蓋然性, 解読不可能な痕跡, 精密きわまる計算を起動する発見という偶然), 他方は犯罪者の冒険記である (これは推理小説の裏面として存在しなければならない. 好運, 不運, 悲運, 運命, 失敗した計算, 驚異的な僥倖, 蝶の予測不可能な飛翔). 一度しか産み出されない, 想像を絶する冒険に対して, そのつど非蓋然的なものを発見する無謬の推理が対応する. そのようにして私たちは安心する36.

 したがってこの2種の言説の布置は, 犯罪の理論と知識, そして犯罪者の再生産の機構について知らずにいることを可能にすると言える. 理論と知識のほうは, 無害化されたうえで探偵の知性の側へといわば簒奪され, 犯罪者の再生産のほうは, 犯罪者自体が階級から分離されて特権化 (これも一つの無害化だ) されてしまうため不可視になる. いずれの文学ジャンルも, 犯罪の言説化にともなって, 犯罪者たちが共通にもっているだろうものを抹消してしまう.

 しかし, 共通なものは, じつはやはり無害化されたうえで, ある言説へと回収されていく. 犯罪をめぐる諸科学がそれであり, 共通なものとはもちろん, 「非行」の諸類型のことである. 「受刑者が単なる自分の冒険の主体であることをやめるには, 学者のまなざしが彼に注がれなければならない. 諸々の概念できっちり武装した言説が彼について語るのでなければならない. 何らかの制度—「社会学」「精神医学」「心理学」「犯罪学」, 名は何でもかまわない—が彼を対象として捉えるのでなければならない37」.

 この3種類の言説からなる布置—フーコーはこれを「ラスネール‐ガボリオー‐ロンブローゾの3人組の舞台38」と呼んでいるが, ガボリオーの代わりにヴィドックを入れてももちろんかまわない—を, フーコーは芝居稽古に見立てて, 次のように描写している.

さあきみ [犯罪者], きみは個人だ, 冒険だ, 記憶だ. きみは一人称で語るのだ. これには, 私たちが法を手中にしている書きものにおいて語る, というただ一つの条件がついている. これと引き換えにきみは耳を傾けられ放免される. 私たちのほうは, 虚構の物語 (不安にさせると同時に安心を与えもする) に耳を傾けていよう. その物語では, きみの乱脈な冒険がしかじかの理性的な計算によってたどられ, 再構成され, 捉えられ, 制御されることになろう. その計算はきみの奸智に対して勝利し, 絶妙な掘り出しものによって謎を解くだろう. さて, 私たちがこの虚構に魅惑されているあいだに, きみたち学者だけが, 個人の記憶の物語る特異な冒険を集団現象へと変形できる. その集団現象を, きみたちは科学の名において表し, 非行という用語で武装解除するのだ39.

 この, 犯罪と犯罪者とを無害化しさらには有益化する3方向からの言説による攻囲を理解してはじめて, 「虚構の物語」の誕生について語ることができるのではないだろうか? たしかに犯罪と犯罪者にはすべてのもちものが返却されているように見える. しかしそれらはつねにすでに無害化され, あるいは制度に利するように変形されてしまっている. 『監視と処罰』における議論をあらためて照らし出すこの議論は, ひるがえって『監視と処罰』のなかに論拠となる多くの実例を見いだすことになるだろう40.

 さて, フーコーと推理小説のかかわりは, おそらくは以上ですべてだ. あとは, 私たちが推理小説とどのように向きあうことができるかという問題だけが残っている. とはいえ, この「虚構の物語」を単に読むことを問いたださなければならないわけなどない. だれもが単に読んでかまわない. おそらくはフーコーも, 単に推理小説を読んでいたにちがいない. しかし問題なのは, 歴史記述や一種の科学を装いつつ, このジャンルをさらに単一なものとして補強し続けるかのような推理小説論と, それに力を得るたぐいの教条的な読解である. 該博な知識で武装した護教論は, このような諸言説の布置の分析を前にして, まだ何か言うことがあるというのだろうか?




注 :

01. 以下に続くテクストはもちろんこれだけで読めるものとして書かれているが, 関連するものとして以下もある. Kazumi Takakuwa, “Per costruire una situazione,” trans. Manuel Guidi et al., in Antasofia 1, ed. Alessandro Lucera et al. (Milano: Associazione culturale Mimesis, 2003), pp. 194–210. 高桑和巳「私たち, 推理小説の読者」, 『d/SIGN』no. 5, 太田出版, October 2003, pp. 95–99. とくに後者とのあいだには, 参照している資料に若干の重複がある.
02. Michel Foucault, Surveiller et punir (Paris: Gallimard, 1975), p. 15.〔『監獄の誕生』田村俶訳, 新潮社, 1977, p. 14.〕 以下, 引用にあたっては, 既訳は参照したが文言をそのまま採用してはいない.
03. Ibid., p. 39.〔Ibid., p. 39.〕
04. Ibid., p. 44.〔Ibid., p. 44.〕
05. Ibid., p. 64.〔Ibid., p. 63.〕
06. Ibid.Ibid.
07. Ibid., p. 72.〔Ibid., pp. 70–71.〕 この一節については, 後述する文献の他, たとえば以下にも参照が見られはするが, そこでの議論からは, フーコーの議論に見られる, 諸言説の布置のなかでの犯罪文学の変容と成立という最も重要な視点がきれいに抜け落ちている. Christine Marcandier-Colard, “Le sublime,” in Crimes de sang et scènes capitales (Paris: PUF, 1998), p. 50.
08. Dorothy Leigh Sayers, “Introduction,” in Edgar Allan Poe et al., Great Short Stories of Detection, Mystery and Horror, ed. Sayers (London: Victor Gollancz, 1928), p. 11.〔「探偵小説論」, 『顔のない男』宮脇孝雄訳, 創元推理文庫, 2001, p. 316.〕 セイヤーズが引用しているロングの「輝かしい小論」の一節は以下にある. Edward Murray Wrong, “Introduction,” in Poe et al., Crime and Detection, ed. Wrong (Oxford: Oxford University Press, 1926), p. 10.
09. Sayers, “Introduction,” op. cit., pp. 11–12.〔「探偵小説論」, op. cit., pp. 316–317.〕
10. Howard Haycraft, “Dictators, Democrats and Detectives” (1939), in Murder for Pleasure (New York: Appleton-Century, 1941), p. 313.〔「独裁者, 民主主義者と探偵」, 『娯楽としての殺人』林峻一郎訳, 国書刊行会, 1992, p. 351.〕 そもそも, この本の序文もまた, 第三帝国によるロンドン空爆に抗して避難所に逃げこんだ市民が読んでいたのがもっぱら推理小説だったという奇妙な逸話の紹介から始まっている. Cf. ibid., p. vii.〔ibid., p. 7.〕 同型の議論はたとえば以下にも—やはり「ファシズム」への明示的な批判をともなって—見られる. Ernst Bloch, “Philosophische Ansicht des Detektivromans” (1962), in Werkausgabe 9 (Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1965), pp. 243–244.〔「探偵小説の哲学的考察」, 『異化』船戸満之ほか訳, 白水社, 1997, pp. 42–43.〕 この点について必要な冷静さを失っていないものとして, かろうじて以下がある. Thomas Narcejac, “Roman policier et démocratie,” in Une machine à lire (Paris: Denoël/Gonthier, 1975), pp. 205–209.〔「推理小説とデモクラシー」, 『読ませる機械=推理小説』荒川浩充訳, 東京創元社, 1981, pp. 219–223.〕 また, 以下は, 非常に早い時期—第2次世界大戦の1年後—に同種の批判をおこなっている点で貴重である. Marshall McLuhan, “Footprints in the Sands of Crime,” The Sewanee Review, no. 54 (Sewanee: University of the South, October 1946), p. 620.
11. Haycraft, “Dictators, Democrats and Detectives,” op. cit., p. 316.〔Ibid., p. 353.〕 なお, 括弧内はパウロによる「コリント人たちへの手紙」(12:10) からの引用である.
12. 以下の分析を参照のこと. Uri Eisenzweig, “L’imaginaire géopolitique,” in Le récit impossible (Paris: Christian Bourgois, 1986), pp. 185–187. (ウリ・アイゼンツヴァイクはこの卓越した推理小説論『ありえない物語』—後でも言及する—で, フーコーによる議論をこの最後の型の言説に属するものとしているが, フーコーの事例は, 後述するとおり, じつはもう少し複雑だと思われる.) なお, 犯罪文学が道徳的効果をもつという言説に対して明快な批判を加えているものとして以下がある. McLuhan, “Crime Does Not Pay,” in The Mechanical Bride (Boston: Beacon, 1951), pp. 29–31.〔「犯罪は儲からない」, 『機械の花嫁』井坂学訳, 竹内書店新社, 1991, pp. 74–80.〕
13. ヴィドックはこの他, オノレ・ド・バルザックの『ペール・ゴリオ』(1834年) や『娼婦の栄光と悲惨』(1839–47年) の登場人物ヴォートランや, ヴィクトール・ユゴの『レ・ミゼラーブル』(1862年) の主人公ジャン・ヴァルジャンや登場人物ジャヴェール捜査官のモデルになっているとも言われる. これらの事実もしばしば言及される.
14. 以上の3者への言及については, 文献を特定するにもおよばないだろう. これは本当に, 各所に見られる.
15. その一節は以下の文献でも若干の言及の対象になっている. 酒井隆史「現在性の系譜学へむけて」, 『自由論』青土社, 2001, pp. 388–392. 小倉孝誠「犯罪と物語」, 『推理小説の源流』淡交社, 2002, p. 25.
16. 「非行délinquance」とはわかりにくい用語だが, 数々の「不法行為 illégalismes」のうち, たとえば「青少年犯罪」などとして, 犯罪学が特定・分類・検討しうるたぐいのものを指すと考えればよい.
17. Foucault, Surveiller et punir, op. cit., p. 281.〔『監獄の誕生』, op. cit., p. 274.〕
18. Ibid., p. 288.〔Ibid., p. 280.〕
19. 「無秩序を運営するgérer le désordre」という表現はたとえば, ジョルジョ・アガンベンがアメリカ合衆国政府 (とその同胞) の戦略を名指すために用いていた (2001年12月21日, 東京外国語大学での討論会).
20. Foucault, Surveiller et punir, op. cit., pp. 289–290.〔『監獄の誕生』, op. cit., p. 281.〕
21. Ibid., p. 290.〔Ibid.
22. Ibid., p. 292.〔Ibid., p. 283.〕
23. Eisenzweig, Le récit impossible, op. cit., p. 261.
24. ただし, アイゼンツヴァイクによれば, フーコーの議論は, 推理小説の誕生を準備したものについて語ってはいても, 誕生の瞬間がなぜこれこれの時期になったのかという必然性については不充分にしか説明していないという点で, 補足されなければならないという (ibid., p. 320, n. 6). だが, それを考慮に入れてもなお, アイゼンツヴァイクの議論がフーコーの議論を重要な出発点の一つとしていることに変わりはない.
25. David A. Miller, “The Novel and the Police,” in The Novel and the Police (Berkeley & Los Angeles: University of California Press, 1988), p. 2.〔『小説と警察』村山敏勝訳, 国文社, 1996, pp. 18–19.〕 なお, フーコーへの影響を想定することもできるが言及はない研究として, 以下がある. 小倉孝誠『近代フランスの事件簿』淡交社, 2000. この欠如は, 次いで刊行された『推理小説の源流』(op. cit.) によって補填された.
 貴重な研究であるにもかかわらず, フーコーの提示したこの視角への配慮がないと思われる遺憾なものには以下がある. Jacques Dubois, Le roman policier ou la modernité (Paris: Nathan, 1992).〔『探偵小説あるいはモデルニテ』鈴木智之訳, 法政大学出版局, 1998.〕 山路龍天ほか『物語の迷宮』(1986) 創元ライブラリ, 1996. 内田隆三『探偵小説の社会学』岩波書店, 2001. 高山宏『殺す・集める・読む』創元ライブラリ, 2002. 笠井潔『探偵小説論』光文社, 2002. 諸言説の布置をめぐる問題は, ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行路』(1928年) や『パサージュ論』(1935–40年) による近代都市生活への視角によって, あるいはカルロ・ギンズブルグの「徴候」(1979年) による一種の記号論の導入によって, 犯罪の変容という現象から引き離されて論じられる傾向にある (犯罪に向けるまなざしも, せいぜいが犯罪学の発達の詳細—チェーザレ・ロンブローゾ, アルフォンス・ベルティヨン, フランシス・ゴールトンといった犯罪学者たちの「業績」—を追う程度に終わる).
26. フーコーへの負債は以下で明言されている. Miller, “Foreword,” in The Novel and the Police, op. cit., p. 2.〔「序言」, 『小説と警察』, op. cit., p. 16.〕 ただし, ミラーによれば, フーコーは文学制度については依然, 多くを語っていないという.
27. Eisenzweig, “L’imaginaire géopolitique,” op. cit., p. 196.
28. Ibid.
29. Foucault, “Entretien sur la prison” (1975), in Dits et écrits 2, ed. Daniel Defert et al. (Paris: Gallimard, 1994), pp. 746–747.〔「監獄についての対談」中澤信一訳, 『思考集成』5, 筑摩書房, 2000, pp. 363–365.〕
30. 以下にも, ヴィドックについての類似の説明がある. Foucault, “La prison vue par un philosophe français” (1975), in Dits et écrits 2, op. cit., p. 730.〔「あるフランス人哲学者の見た監獄」中澤信一訳, 『思考集成』5, op. cit., p. 341.〕
31. Foucault, “Théories et institutions pénales” (1972), in Dits et écrits 2, op. cit., p. 393.〔「刑罰の理論と制度」高桑和巳訳, 『思考集成』4, 筑摩書房, 1999, p. 378.〕
32. Foucault, “Préface” (1973), in Dits et écrits 2, op. cit., p. 394–399.〔「序文」高桑和巳訳, 『思考集成』4, op. cit., pp. 381–388.〕
33. Ibid., p. 394.〔Ibid., p. 381.〕
34. Ibid.Ibid., p. 382.〕
35. Ibid.Ibid., p. 381.〕
36. Ibid., pp. 394–395.〔Ibid., p. 382.〕
37. Ibid., p. 396.〔Ibid., p. 384.〕
38. Ibid., p. 398.〔Ibid., p. 386.〕
39. Ibid., pp. 396–397.〔Ibid., pp. 384–385.〕
40. 風来坊のベアスくんに対するフーコーのまなざしはしばしば言及の対象になってきたが, リヴロゼもまた, フーコーにとってはベアスと同じように—違う方法でではあれ—この制度的権力の布置をすり抜けようとする者の範型となっていたのではないだろうか?



(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)