esposito
「「イタリア現代思想」の雄 エスポジトが共同体と生政治を再考」
『週刊読書人』no. 2814 (読書人, 2009年11月20日), p. 3.


以下の書評です. ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築』岡田温司訳 (講談社, 2009).


 話題作を量産する岡田工房からまた1冊,「イタリア現代思想」の翻訳が届けられた.

 作者ロベルト・エスポジトはもともとは, どちらかというと正統的と言ってよい政治哲学者だった. 日本語でも, 20数年も前のことだがマキャヴェッリとヴィーコを論じた『政治の理論と歴史の理論』の翻訳が出されたことがある. だがその後, 翻訳の刊行は途絶した.

 その後のエスポジトが何もしていなかったわけではない. それどころか, 政治哲学を構築してきた概念自体を横断領域的に問いただすという作業に1980年代後半から取りかかっていた. ジョルジュ・バタイユの思想をカギとしてジャン‐リュック・ナンシーによって提起された共同体論に対して, いわば本職の政治哲学者として参与することで生まれたのが主著『コンムニタス』(1998年) である. 次いで, ミシェル・フーコーによって提起されジョルジョ・アガンベンやアントニオ・ネグリらによって発展させられた生政治をめぐる議論に向き合い,『コンムニタス』における議論をさらに発展させたのが『インムニタス』(2002年) と『ビオス』(2004年) である.

 本書『近代政治の脱構築』は, この三部作—さらにはその後出された『三人称』(2007年) —の執筆のかたわらで書き継がれた関連論文を集めた本であり,「イタリア現代思想」のこの新たな立役者の思想を概観するのに最適の内容となっている.

 ...さて, このまま淡々と書評を続けるのが「大人の振る舞い」というやつなのかもしれない. だが, やはり正直に言っておきたい. 当該の問題 (共同体や生政治に関する議論) に多少なりと関心を寄せてきた読者にとって, この本から新たに得られるものは少ない.

 生政治について言えば, そもそものフーコーの『安全・領土・人口』やアガンベンの『ホモ・サケル』, ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』といった仕事に対してエスポジトの仕事が本当に新しい批判的視点を提示できているとは思えない. そもそも,「アガンベンの悲観的な生政治のヴィジョンとネグリの楽観的なそれを調停させる」というような図式自体があまりに粗雑である.

 それに—これはエスポジトのせいではないが—, じつのところ日本語では, これらの件についてはすでに西谷修の『不死のワンダーランド』や『〈テロル〉との戦争』がはるかに緻密かつ明快な議論を提供していた. この問題設定において中心的な意味をもつナンシーの『無為の共同体』や『侵入者』, モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』といった著作群も他ならぬ西谷によって翻訳されて久しい. しかもその導入にあたっては十二分の註解・読解が提示されていた. この問題に関心をもってきた日本語読者にとって, 今回のこの本は徒労感をもたらすデジャ‐ヴュ以外の何ものでもないかもしれない.

 「エスポジトの思想を知る」ということであれば, 3年前に雑誌『RATIO』の創刊号に掲載された, 論点のすべてを手際よくまとめた論文「生政治, 免疫, 共同体」(多賀健太郎訳) だけで充分だった.

 最後にもう一つだけ. 私もたびたびやらかすが, さすがに「ロバート・アントルメ」はちょっと... (もちろんロベール・アンテルム). 岡田さん, 増刷されることがあれば, なおしてくださいね.