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「空気から脱け出す人たち」
空気・アンダーコントロール (DOMMUNE x ReFreedom_Aichi), 2020年3月20日 (於:DOMMUNE [渋谷PARCO 9階]).
このイヴェントは5時間におよぶもので, トークや演奏など多彩なセッションを含みます. 私はその冒頭で, 以下を無題で話しました. タイトルは私が勝手に想定していたものにすぎません.
以下は, 準備しておいた原稿をもとに話した内容を, 録音にもとづいて修正したものです. ただし, 細かな言いまわしは再現していません.
高桑です. よろしくお願いします.
あまり突拍子もない話はしません. それから, いまお三方 [ダースレイダー, 卯城竜太, 田中沙季の三氏] がお話しになったことのなかに出てきたことと共通のこともいろいろあるかと思います. この先の議論に共通に使える材料を提供するというくらいのつもりでお話ししたいと思います.
いくつかお話ししたいことはありますが, まずは補助金不交付問題をめぐる雑感から始めたいと思います.
いきなりですが,「国体イデオロギー」の話を最初にしておきたいと思います.「国の体」と書く「国体」です.「国体イデオロギー」というのはわかりにくいですが, 簡単に言えば,「この国は, 象徴にしろ何にしろ万世一系の天皇を上に戴くものであり, そうである以上, この国の統治の歴史にはケチなどつけられるはずがない」という勘違いのことです. この国体イデオロギーという勘違いに対して, アートでいわば膝カックンのようなものを食らわせた作品群が中心的に提示されていたのが, 今回の「表現の不自由展・その後」ではなかったかと思います.
企画自体がメタ・レヴェルのアート・アクティヴィズムになっています. いま流行りのソーシャリー・エンゲイジド・アートの模範的な形と言えます.
当然のように, これに右翼が噛みついてきました. それだけでなく, 名のある何人もの政治家もそれに追随するということが起こりました. 企画が, 事件発生を懸念していったん中止され, 後に, 少しだけ再開されたということは, 皆さんご存じのとおりです.
この騒動を承けて,「あいちトリエンナーレ」全体への文化庁からの補助金交付が取り消されました. さらに, さきほども少しお話のあったとおり, その不交付の決定プロセスはまったく不明瞭なものでした.
以上が大概, この騒動の流れです.
念のために言っておきますが,「表現の不自由展・その後」は, ソーシャリー・エンゲイジド・アートとしては大成功だった, とぼくは思います. これは, 言っている人もいないわけではありませんが, もっと大勢の人が言ったほうがいいことだと思います. なぜ大成功なのかというと, 日本社会のマジョリティと制度の「ウンコ・メンタリティ」とぼくの呼んでいるもの—不寛容さ, 排外性, 国家依存, 歴史不問, 権威主義, 無関心, 順応主義, シニシズム, 無知への開き直り—を目に見えるものにすることができたからです. それから, 行政の暴走まで引き出せたのだから, 百点を優に超えていると言っていいと思います.
ただ, だからといって補助金不交付問題をこのまま放置していいかというと, 当然そうではありません. これから先にお話があると思いますが, このままだと「芸術表現の自由」が規制された悪しき前例になってしまうからです.
ここで攻撃されている「自由」とは何なのかということですが, これは観念的・抽象的な「自由」ではありません. 国体イデオロギーを批判する自由だと言いきっていいと思います.
この補助金不交付問題に対しては, ぼくも非常に関心があって調べましたが, ネットで数えただけでも26の団体が立派な抗議声明を出していました. しかし, 国体イデオロギーに言及していた団体は, ぼくの知るかぎり, ありませんでした.
なぜなのか? それは,「普通の人」を排除しないためなのだと思います.「普通の人」というのは, 戦後の象徴天皇制はそこまで嫌いじゃないとか, このあいだ辞めた天皇やいまの天皇もそんなに嫌いじゃないとか, 神社や初詣にも抵抗感のない, ひょっとすると愛着もある, そういうタイプの人です. たくさんいると思います. こういう人たちに配慮したということです.
ただ, ぼくに言わせれば, ここで国体イデオロギーに言及しないのはほとんど自己検閲だと思います. もちろん, 抵抗はすべてそれ自体貴重なもの, 尊重すべきものであって, それぞれの抵抗にケチをつけようというのではありません. しかし, これから先は, 国体イデオロギー批判の自由ということをもっと前面に出していったほうがいいのではないかと, 個人的には思います.
補助金不交付問題については以上です.
さて, この補助金不交付問題と, 今回のコロナ騒動のあいだに何か関係があるのかという話をこれからしたいと思います.
まず, 共通性として誰もがすぐに思いつくのは, 安倍晋三一派の明らかに不明瞭な動きかたです. そもそも記録がないということがデフォルトになっています. どこが命令の最初の出所で, どのような指示があって, どのような決定がどのような審級でなされたのか, わからない. 先ほども言われていたとおり, まさに「ブラック・ボックス」です.
これは安倍一派の統治のスタイルの一般的特徴です. 単に, 立法の歯止めが利かないというだけではありません. 立法から行政に統治の重心がシフトするというのは, 日本だけでなくどこでも見られることですが, それだけでなく, 安倍の統治のスタイルは, 行政がそれ自体, まったく根拠なく動けるようになっているというところが特徴です.
しかし, 不思議なのは, 確かな証拠はまったくないけれども, 実際に何が起こっているのかは誰もが100%わかっているということです. 森友・加計問題, 昭恵私人問題, 桜を見る会問題, 最近だと検事長の定年延長問題, これらは全部, 同じ形をしています. 問題が生じて, その後に法制化や閣議決定によって取りつくろうということです. 安倍一派は, おそらく自分たちのその統治のスタイルの異様さを隠すつもりはないのでしょう.
繰り返しますが, 安倍の意向は, 少なくとも記録に残る形では, 内容としてはほとんどゼロに等しい. 意志の伝達経路もまともではありません. しかし,「忖度」というものによって, 不思議なことにシステム全体が機能してしまう. 今回の補助金不交付問題も, まさにそのような形になっています.
コロナ騒動でもまったく同じことです. 安倍一派の今回の対応の根拠はまったく不明瞭です. 学校閉鎖, PCR検査の極度の制限, こういうものが, 科学的根拠がいつ, どこまで参照されたのかわからない形でなされています. また,「要請」その他で彼がしゃしゃり出てきてしゃべるわけですが, その法的根拠もそもそも不明です.
なぜこんなことが起こるのか? これは異様だと思いますが, これはおそらく, 安倍一派が官邸でふだん用いている命令系統の異様さが, 図らずもパッと顔を出してしまったというだけのことなのでしょう. 明確な根拠はないし, 明確な指示もない. しかし,「忖度」によって, 不思議なことに意図は末端まできちんと届く. 次のように言えばよいと思います.「いまや, この国全体が霞ヶ関になった」.
自分や自分の大事な人がひどい目に遭えば, 人はさすがに嘆くことはします. しかし, けっして誰も抵抗しない. なぜか? これはすべてコロナのせいだからです. 戦没者を何百万人出しても, それは戦争のせいです. 原発が壊れても, それは震災のせいです. 誰かのせいではありません.
そういう空気, それが「空気・アンダーコントロール」なのだとぼくは理解しています.
このような統治のスタイルにおいて, 仮想敵として最適なのは何か? それはもはや国家ではありません. もちろん仮想敵は国家でもかまわないけれども, 国家よりももっとふさわしいものがある.
たしかに, 人々をまるごと動員できるという点では, これは戦争とそっくりな形をしています. フランスではマクロンが「私たちは戦争状態にある」と言いました. アメリカではトランプが国防生産法を使おうとしています. 非常事態が云々されるというのはそういうことです. つまり, 政府が国家内のさまざまな活動を可能なかぎりコントロールできるようにするということです.
新安保法制というのが2015年に成立しましたが, それ以来, 日本は安倍一派による自己クーデタ政権下にある, というのがぼくの大まじめな認識ですが—そんなに間違っていない認識だと思いますが—, この政権は, だからといって, 単に戦争をしたがっているというわけでもない, というところは注意が必要かと思います. 聞こえてくるのは軍靴の音だけとはかぎりません. 起こるのは, じつは戦争でなくてもまったくかまわない. 一種の戦争状態によって国家が非常事態に入り, 官邸が可能なかぎりすべてをコントロールできるという状態が獲得できさえすればそれでいい. パニックのなかで永続する日常的な非常事態, これが彼らの望んでいることです.
そのばあい, 設定できる最も理想的な敵は, 目に見えないものです. 目に見えないものの恐怖をいかに操るか, というところが, この統治のスタイルにとっては重要なものになってきます.
少し前までは, テロリストがその見えないものの役を果たしていました. もしかすると日本では, 少し違う形で,「国体イデオロギーを批判する」人たちもそこに含められたのかもしれません.「非国民」や「反日」は, テロリストに対するわかりやすいレッテルです. ただ, 正直なところ, これはすでに少し古くさいレッテルでもあります. これだけでは, この国にいる人たち全員の情緒をまとめあげることはできそうもありません.
それに取って代わるのが, 科学的な見かけを借りた—「科学的な」とは言いきりませんが—, 目に見えないものです. これが人々の想像力の世界で恐怖をはぐくんでいきます. その代表的なものは, 言うまでもなく, 放射能です. 誰もが知っていることです. 目に見えないものがあったとき, どこに安全/危険の境界線を引けばいいのか, 誰にもわかりません.
このことを考えるときに思い出すのは脳死のことです. 脳死をめぐって科学者が法に入りこみ, もともとは固定的だったはずの生/死の境界線を都合のいいように動かすようになった, と言った人がいます. ぼくの研究しているイタリアの哲学者で, アガンベンという人です. アガンベンはそのように『ホモ・サケル』という本で1995年に語ったのですが, 科学コミュニティが呼び出されて安全/危険の境界線が任意に設けられ, 統治者の都合でその境界線が融通無碍に動く, というのは, 帰宅困難地域や除染土や処理水海洋放出の線量をめぐる各種政策でもおなじみのものになっています.
その次に来たのが, 今回のコロナ騒動です. 新しいものが来たという印象はあまりないのではないでしょうか. ウイルスはもちろん目に見えません. 人と人は何メートル離れるべきか, マスクは要るのか要らないのか, 集会はどの規模がダメなのか, 誰が感染しているのか, 誰が検査を受けることができるのか, これはいつまで続くのか.... 何もわかりません.
もちろん, これらすべてについて統治者に責任を負わせるのはお門違いかもしれません. 科学者にすらわからない, 誰にもわからないからです. すべてを担わせるのはお門違いかもしれない. ただ, そうだとしても, その見えなさを手玉に取り, 人々をパニックに陥れて手なずけていくという戦略は責められてしかるべきでしょう.
いま国際的におこなわれているように, 疫病に対して政治的な手当てがなされることに, 一概に反対する理由はもちろんない. だとしても, そのような対処がなされたときにそれに乗じて何が達成されるのか, 政治がどのようなものに姿を変えてしまうのかについては警戒を怠ってはいけない, と思います.
先ほど名前を挙げたアガンベンは, 先月 [2020年2月] 末に「疫病 (エピデミック) の発明」という短い文章を発表しました. 誇張的に内容を要約すると, コロナなんか大したことはないんだ, 疫病の蔓延がでっちあげられているんだ, 政府は例外化のネタをいつも探しているんだ, うまい具合にコロナがやって来たんだ, というような主張でした. いま, アガンベンのこの議論は正直, 評判がよくありません. おきまりの例外化のロジックをウイルスよろしく蔓延させやがってという反論もあったし, そんな議論は陰謀史観だと言う人もいました. 仮にそのような批判がなくても, 事実が彼に反駁してしまった. 疫病はその後, ヨーロッパで大々的に広まってしまいました.
ただ, アガンベンが当初コロナを甘く見ていたのは事実だとしても,「目の見えないものによって引き起こされる惨事に国家が科学と連携して便乗する」というモデル自体は依然として妥当でしょう.
ただ, 日本はさらに違う. 日本では, 科学の代わりに「情緒」が入る. わからないことが多ければそれだけ, 人々は情緒にしがみつき, 統治者はそれを悪用します. あちこちで矛盾が生じてもかまわない (一番目立つ矛盾はオリンピック開催でしょう). そのような矛盾が次々と起こっても, さまざまな情緒でそのつど埋めあわせていけばいい. これもまた, 目に見えない「空気」になっている.
つまり,「目に見えないもの」を口実に,「目に見えないもの」によって, 人々は支配されていく. その人々もまた, 統治者の側からすれば, ほとんど「目に見えないもの」になっていく. たとえば, いまここ [渋谷PARCO9階のDOMMUNE] まで来るのにぼくは渋谷を歩いてきました. たしかに人々はうじゃうじゃいますが, いないに等しい. 目立って抵抗する人なんて, 誰もいないのです.
この数十年で, 情緒の支配は盤石なものになりました. 抵抗者はわずかに残ってはいます—ここにもいると思います—が, できることなどたかが知れている. 奴隷教育は, 統治がこの先もしばらく続行可能な程度には充分に完了しています.
この先, アートに何ができるかは, やってみないとわかりません. ただ,「支配的な情緒以外の何かを受け手に知覚させ続けること」は, きっとこの「目に見えないもの」の体制に膝カックンを食らわせることになるでしょう. そのとき,「目に見えないもの」になってしまった人たちが一瞬,「空気」から脱け出して,「目に見えるもの」になるかもしれません.