detective
「私たち、推理小説の読者 情報受容のレイアウト」
『d/SIGN』no 5, 太田出版, 2003年10月, pp. 95–99.



単に読む者 

 誰がやったのか [フーダニット]—今, 推理小説というジャンルに冗長な定義を与えている暇はない. 口語におけるこの換喩表現があれば, その意味を把握するにはとりあえず充分だ.
 すでに幾度も書かれてきたところによれば, 推理もの [フーダニット] の読者は, 善良で無知な語り手ワトスン博士に自己同一化しつつ (あるいはワトスンを自分がわずかなりと凌駕できていることを期待しつつ), シャーロック・ホームズに自己同一化することを願うという. では, ホームズに随伴するワトスンに随伴する読者は, じつのところ何をしているのか? おそらくは, 単に物語を読んでいるのだ. しかし, 単に物語を読むとはどのようなことなのか?
 何が問題なのかをさっそく明瞭にしておこう. 今, 私の念頭にあるのはじつは推理小説自体のことではなく, まるで推理小説であるかのように「誰がやったのか?」をめぐって展開された今回の戦争報道のことだ. 推理小説の読者 (戦争報道の受容者) である私たちは, ホームズ (アメリカ合衆国政府の発表に代表される審級) やワトスン (テレビや新聞) を前にして, 何をしているのか? 推理小説を読むという行為を典型とする受容のレイアウトが, どのようにここで流用されているのだろうか?
 (以下, ホームズ=アメリカ, ワトスン=報道, といった類比を念頭に置いて論を展開するが, この類比自体の検討—「アメリカは本当に探偵なのか?」「戦争は推理小説なのか?」といった問いの形を取る—についてはここでは問題にしない. そのような問いになら簡単に応えられる. 戦争は推理小説ではない. この短いテクストで問題にするのはあくまでも, 推理小説と同型と見なしうる情報受容のレイアウト, それだけだ.)
 単に物語を読むことの効果については, すでにギー・ドゥボールが批判的に語っている. 「スペクタクル的な支配の第一の意図は, 歴史的認識一般を, それもまずは, 最も近い過去に関する情報と, その過去に関する理のある注解とを, すべて消滅させるということだった. [...] 歴史は, 本当の新しさの是非を計る尺度だった. そこで, 新しさを売る者は, その新しさを計る手段を消滅させることこそ自分の利になると考える. [...] スペクタクルの権力は, あたかも前からそこにあったかのように, すでに馴染みのものとして出現する. 簒奪者は皆, 自分が到着したばかりだということを忘れさせたがってきた. [...] 観客はただ, 一切を知らず, 何にも値しないものと見なされている. 続きを知ろうとしてずっとまなざしを向けている者は, けっして行動しないだろう01.」
 ドゥボールによるこの指摘は, まさしく推理小説と戦争報道の両方に適用できるものと思われる. そして, この議論の中核にあるのがまさしく, 単に読む者 (スペクタクルを見る者) の存在なのだ.


読者による「単なる読み」の否認 

 推理小説の愛好者たちのほとんどは, 自分がそのような者であるという見解を受け容れようとしないにちがいない. 彼らは次のような主張をするだろう. すなわち, 自分は「単に (続きを知ろうとして) 読んでいる」わけではなく, 英雄に随伴する語り手が自分のもとに送り届けてくる文字のすべてを「手がかり」かもしれないものとして記憶にとりあえず刻印しつつ, 英雄のおこなう「推理」の展開に一歩なりと先んずるべく, あるときは英雄の実際の言動—それらもすべて「手がかり」の一部になる—に従いつつ, あるときはそれに逆らいつつ, 自分なりに個別に「推理」をおこなっている, というわけだろう. その活動は「単に読むこと」には完全には還元されえず, じつのところ, 読者による知性のそのような能動的使用こそが推理小説を固有のジャンルとして成立させている当のものだ, というわけだ.
 しかし, 本当にそうだろうか? 推理小説を読むという経験により忠実であろうとするなら, 次のように説明するほうが正確ではないか? すなわち, 語り手が次々に提示してくる「手がかり」(ないし「手がかり」でありうるもの) のあまりの多さに読者は圧倒されてしまい, 整理されていない記憶の不明瞭な集積—今まで読み進めてきた物語の全体と過不足なく一致するものの漠然とした印象—をただ忘れないように努めるだけで精一杯で, いくつかのありうべき「推理」を自分なりに試みようとはするものの, 結局は, 複数の「手がかり」を自分の知性の活動によって結びつけた連合の正しさには最後まで確信がもてず, あらゆる「手がかり」が等価に思え, あるいは重要な「手がかり」を看過してきたのではないかと疑い, 英雄による謎の解決が得られるまでその不安が続く, というのが本当のところではないか?
 言い換えれば, 「単なる読解」のそばにどのような「推理」を読者が随伴させようとも, その「推理」は物語にとって無関係なままなのだ. 仮に, 自分の「推理」が正しかった—英雄のそれと一致した—ことになっても, この事情に変わりはない. その一致は結局のところ偶然であるにとどまる.
 なぜこのようなことになるのか? なぜ, にもかかわらず, 読者は読書に自分の「推理」を随伴させているという幻想を払拭することができないのみならず, その幻想を強調しさえするのか? 「単に読」んでもいっこうにかまわないはずの推理小説が, その存立の基礎を問われ続けるのはなぜか? また, そのような問いに対して, 愛好者が, とくに自分が能動的な読者であるとする立場から, 手を替え品を替えて護教論を発明してきたのはなぜか?


アブダクションの共有という幻想 

 英雄のおこなう「推理」, とりわけシャーロック・ホームズのそれは, 彼の同時代人たちの知性の活動としばしば比較されてきた. なかでも, チャールズ・サンダーズ・パースとジーグムント・フロイトのそれがとりわけて特権的な扱いを受けてきた.
 「推理」は, パースの用語法にしたがうなら, 「演繹」でも「帰納」でもない第三の知性の活動である「アブダクション」に相当する, と多くの研究者がすでに指摘している02. 「重いものを馬車で運ぶと深い轍 [わだち] が残る」「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った」「ここには深い轍がある」をそれぞれA, B, Cとすると, A→B→Cが演繹, B→C→Aが帰納, そしてA→C→Bがアブダクションだとされる03. 「重いものを馬車で運ぶと深い轍が残る」→「ここには深い轍がある」→「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った04」というわけだが, じつは, Aが与えられる根拠は推理小説という論理の世界の内部では得られない. 人間を人間たらしめるこの知性の活動, パースを熱狂させたこのひらめきは, じつを言えば論理を構築するものではなく, 論理の構築を何らの保証もなく準備するものにすぎない. 帰納についても同じことが言えるが, 帰納のばあいはその説明の論理的不充分さ自体がその論理展開を一範疇として弁別させる当のものとして充分に認識されている—したがって論理学では, 到達点である当の規則自体の論理上の不充分さ, 検証の必要性が当然のように言及の対象になる—のに対し, アブダクションでは論理展開とは別のところから規則が到来するため, 論理展開の当の内容の検証の必要性が言及されることは, そのあまりの無粋さゆえに, 稀になる.
 (「無粋さ」などはもちろん論理的範疇ではない. だが, 論理の展開を二次的にであれ支持するもののなかにはこのような範疇がなくはないはずだ. たとえば, 「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った」→「ここには深い轍がある」→「重いものを馬車で運ぶと深い轍が残る」(帰納) のばあいは, 「もしかしたら, 私が確認しなかった事例のなかに, 重いものを運んだにもかかわらず深い轍を残さなかった馬車があるかもしれない」という反駁がありうるが, 「重いものを馬車で運ぶと深い轍が残る」→「ここには深い轍がある」→「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った」(アブダクション) に対する反駁は, 「重いものを運ぶ馬車以外でも轍はできることがある」を経由したうえで, 「なぜ馬車の話を急にするのか?」へと少なくとも論理的には到達しうるが, このような批判は「無粋」なのである. この「無粋」さを排除することを受け容れるかどうかが, この小説ジャンルを消費できるかどうかの鍵である.)
 推理小説のばあい, アブダクションの検証は一挙になされる. すなわち, 「誰がやったのか」の最終的な特定と確認が, その検証の代わりになる. その特定と確認は, 物語がおこなうのであって, 「推理する者」がおこなうのではない. したがって, このかぎりでは, 権利上は, 英雄も読者も, 犯人を誰と決める権力を平等に剥奪されていると言え, 読者はアブダクションさえ, 英雄同様に試してみることを許可されているように見える. しかし物語は結局は, 物語内の英雄に対してのみアブダクションの最終的な正しさを裁可する. 裁可されなかったアブダクションは, 正当な論理をなさないものとして忘却される. つまりは, アブダクションの模倣を試みつつ随伴してきた読者は, 最後の一歩手前までは英雄の能動性を経験しているという幻想を抱くことができるが, それが最後には抹消され, 能動性は英雄の側にのみ取り置かれることになる. では, このように騙され, 読みの権力を不当に簒奪された読者が, なぜ憤慨しないのだろうか? それは, 読者が, 自分を騙した物語を結局は (記憶のなかに) 所有しえたからだろう. この象徴的な所有によって物語は単なる虚構になる. 裁可された英雄のアブダクションの記憶は読者にとってささやかな財をなし, その物語をまだ読んでいない他の読者たちに対する優越感と, 自分がこれから読む他の推理小説を読むにあたってそのアブダクションの記憶が役に立つのではないかという漠然とした期待—この無意味な期待はむしろ帰納にもとづいているが—を保証してくれるのだろう. 自分の騙されたなぞなぞを記憶しておこうとする子どもと事情はまったく同じだ.


説明欲の充足の舞台としての推理小説 

 フロイトと推理小説についても多くが書かれたが, ここでとくに検討したいのは, フロイトとホームズに共通するというコカインの服用という, これまた耳目を引いてきた嗜癖についてである05. コカインは, 服用すると脈拍・血圧が上昇し, 興奮のうちに快感が訪れ, 多弁になり, 身体が軽くなり, 知力と体力が増した気になるという. フロイトやホームズのばあいに増しているのは「説明欲であって, それは知への欲望, 認識への欲望と同じではないと思われる. 知への欲望のほうが, 可能なかぎり十全に外部に開け, したがってつねに, 相対化され, 批判的な姿勢を取るのに対して, 説明欲のほうははっきりとした自己愛的色彩を保存し, 自足して知性に快楽を与えるような体系を産み出す傾向にある. それはまるで, 享楽の自己愛的な性質が知性の働きのうえにずらされ, 享楽と知性の働きのあいだの境界が多少なりとぼやけているかのようだ06.」
 「推理」が「アブダクション」であるかなどを問うことより, むしろ, 「推理」がどのように与えられ, 読者がそれをどのように受容しているかを問うことのほうが問題だろう. 実際には, 英雄のおこなっているという「アブダクション」は, (コカインの服用の有無や是非はともかく) 単なる説明欲の結果でしかないかもしれない. 最終的に, 英雄の「推理」は無謬性を保証されるため有効な「アブダクション」として裁可されうることになるが, 読者の側は単に「アブダクション」を模倣して「説明欲」を昂揚させるにすぎない.
 知的昂揚の作用を別の側面から検討してみてもいい. 当時の文学の世界でその状態をちょうど表現しているのは, ハーバート・ジョージ・ウェルズの短篇「新加速剤」かもしれない. ジバーン教授の発明したこの新薬を飲むと, 身体のあらゆる機能がおそろしい加速を受け, 1秒が30分ほどにも感じられるようになり, 世界はほとんど静止し, それに対して自分はおそろしい速さで活動できるようになる. 語り手が教授とともに街に出ると, 男が女にウィンクしている瞬間に遭遇する. 「ウィンクというものは, 我々のしたようにゆっくり研究すると, 魅惑的ではないものだ. それは機敏な愉快さをすべて失う. ウィンクする目が完全には閉じず, 目蓋の下からは目玉の下の端と白目の白い線が見えることがわかる07.」 ちょうど瞬間写真のように (より正確には高速度撮影されたフィルムのように) 時間の細部が拡大され, いわば「視覚的な無意識08」として知覚されるものになる. それが, 知的昂揚のみが捉えることのできる「手がかり」なのだ.
 しかし, この「手がかり」をそれとして (つまり, 従前の図式で言えば, Aを触発するCとして) 提示できるのは, 現実を高速度撮影されたフィルムのように見ることができる (と主張する) 者に限られる. それ以外の者にとっては, 逆に, 現実は「ゆっくり研究する」ことなどできないものとなり, いわば相対的に速く流れるようになる. 「奴らには見えないよ. そうとも! 我々は, 今までにおこなわれた最速の奇術より, さらに千倍も速く行くことになるわけだ09.」 止まっていることすら可能だったかもしれない現実が, 現実を止めた者たちの知的昂揚ゆえに, 速度をもって流れ去るようになる. これこそまさに, スペクタクル化された映像のことではないか?


推理小説型のレイアウトから脱するために 

 このようにして, 私たちはドゥボールのいう「続きを知ろうとしてずっとまなざしを向けている者」にふたたびたどりついた. 正しさを裁可される英雄の側とは反対の, アブダクションの論理的不充分さの側に, つまりは存在しないことにされる側に締め出され, にもかかわらずなおも自分ではアブダクションを試みているつもりのままの者である.
 もし, このような「推理小説の読者」の立場にあることをやめたいと思うなら, そのような「推理小説」型の情報受容のレイアウトを把握したうえで, これに対していわば「無粋」な問いを立てる必要がある.
 どのような社会で推理小説が成立してきたのかを問う論考はすでに数多いが, 複数の言説の布置を検討するなかで推理小説の社会的位置を明らかにしようとしている論考は, 私の知るかぎりでは少ない. ここでは, ミシェル・フーコーによる貴重な指摘を参照してみよう. ある刑務所で闘争運動を組織した元受刑者セルジュ・リヴロゼ (現在は文筆家になっている) の書いた本『監獄から反抗へ』に寄せた序文で, フーコーは, 7月王制ごろから確立してくる司法と言説の布置に関して, 犯罪者の冒険記, 推理小説, 犯罪学という3種の言説に言及する10. まず, 犯罪者の冒険記には, つねに主人公の生が偶然によって翻弄されなければならないという規則があるとフーコーは言う. 「[...] 刑の宣告と監獄は特異な冒険として現れる. それは, 運命や度外れに次いではじめて起こりえた. 捕らわれた者は, おそらくはそうした運命や度外れを, 一種の弱さゆえに, あるいは判然としない天分ゆえに呼び寄せてしまったのだ11.」 つまり, 偶然が犯罪者を生産するとされ, 犯罪者には生の記憶の非蓋然的な連鎖のみが取り置かれる. 「受刑者は追想しかもってはならないのだから思考をもつことはできない, ということになってしまう. 彼の記憶だけが容認され, 彼の考えは容認されない. 彼の身振りの背後には狂った欲望しかなく, それが一切を衝き転がしたものとされ, あるいは, あるのはただ不可避な付帯状況だけであり, それが一切の陰謀を図ったとされる. [...] 違反は思考されるためになされるのではない. それはただ生きられ, 次いで想起されるべきものなのだ12.」
 この, 非蓋然的な出来事の連鎖を納得しつつ, 実際の犯罪から離れて安心するためにあるのが推理小説 (「最大限の非蓋然性, 解読不可能な痕跡, 精密きわまる計算を作動させる発見という偶然13」) だとフーコーは言う. 犯罪者の冒険記と, 非蓋然的な出来事の連鎖というプロットである点はまったく同じだが, 最後に, これまた非蓋然的かつ無謬の「推理」が介入して終わりを迎えるジャンルだ. 「一度しか産み出されない, 想像を絶する冒険に対して, そのつど非蓋然的なものを発見する無謬の推理が対応する. このようにして我々は安心する14.」
 さらに, 犯罪における偶然の支配と思考の不在というこの虚構を修正するものとしての犯罪学 (犯罪者の思考を科学的なまなざしのもとに置き, 真理を犯罪者の側から犯罪者を一般化する科学の側に簒奪する言説) への言及があり, 「ラスネール‐ガボリオー‐ロンブローゾという3人組の登場する舞台15」としてこの言説の布置がまとめられる. 「さあきみ, きみは個人だ, 冒険だ, 記憶だ. きみは一人称で語るのだ. これには, 我々が法を手中にしている書きものにおいて語る, というただ一つの条件がついている. これと引き換えにきみは耳を傾けられ放免される. 我々のほうは, 虚構の物語 (不安にさせるとともに安心を与えもする) に耳を傾けていよう. その物語では, きみの乱脈な冒険がしかじかの理性的な計算によって辿られ, 再構成され, 捉えられ, 制御されることになろう. その計算はきみの奸智に対して勝利し, 絶妙な掘り出し物によって謎を解くだろう. さて, 我々がこの虚構に魅惑されているあいだに, きみたち学者だけが, 個人の記憶の物語る特異な冒険を集団現象へと変形できる. その集団現象を, きみたちは科学の名において表し, 非行という用語で武装解除するのだ16.」
 これが推理小説型のレイアウトのさらなる大枠だとしたら, どのようにすればそのレイアウトから脱することができるか? フーコーが序文を寄せているリヴロゼはというと, 犯罪や政治に関する個人的かつ一貫した思考が犯罪者においてありうることを示すことで, このレイアウトからの脱出を図っている. 私たちのほうは, 謎を解くとされる「絶妙な掘り出し物」を受け容れない, という手段を構想することもできる. すでに述べたとおり, またフーコーの指摘からも理解されるとおり, 非蓋然的なアブダクションは, 最終的な謎解きの保証が与えられなければ—つまりは物語に終わりがなければ—, 単なる説明欲の昂揚にとどまるからだ. 推理小説を読みながら, 推理小説がするのとは別のしかたで, 説明欲の昂揚に圧倒される代わりに, 知への欲望, 認識への欲望を昂揚させ, 別の思考の可能性を探し続けること. これが, とりあえずは, 「推理小説の読者」であることをやめる一つの道かもしれない.

 以上述べたことが戦争報道にどのように対応しているのかについては, さっそく考えてみてほしい.



注 :

01. ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』(1988) 木下誠訳, 現代思潮新社, 2000, pp. 26, 28 & 38. 強調はオリジナルの作者による.
02. 関連する論文のほとんどが以下に収められている. ウンベルト・エーコほか編『三人の記号』(1983) 富山太佳夫ほか訳, 東京図書, 1990.
03. 私見では, C→A→Bと記述しても同じように思われる. また, 推理小説の言説では通常, C→B→Aと記述されるようだ.
04. あるいは, 「ここには深い轍がある」→「重いものを馬車で運ぶと深い轍が残る」→「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った」, ないし「ここには深い轍がある」→「ここを, 重いものを運んだ馬車が通った」→「なぜって, 重いものを馬車で運ぶと深い轍が残るだろう?」
05. 以下が, この主題についての最もよく知られた仕事である (ただしこれは, ホームズもののパスティッシュ—ないしパロディ—の形を取っている小説). ニコラス・メイヤー『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』(1974) 田中融二訳, 立風書房, 1975. また, 以下は, この問題に関する最も基礎的な文献である. David F. Musto, “Sherlock Holmes and Sigmund Freud”, in Robert Byck (ed.), Cocaine Papers, New York, Stonehill, 1974, pp. 355–370.
06. Roger Dadoun, « Un “sublime amour” de Sherlock Holmes et de Sigmund Freud », in Littérature, no 49, Paris, Larousse, février 1983, pp. 72–73. 強調はオリジナルの作者による.
07. ハーバート・ジョージ・ウェルズ「新加速剤」(1903), in 『タイム・マシン』橋本槇矩訳, 岩波文庫, 1991, p. 169.
08. 以下を参照のこと. ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」(1931), in 『図説写真小史』久保哲司編訳, ちくま学芸文庫, 1998, pp. 17–18.
09. ウェルズ「新加速剤」, op. cit., p. 167.
10. 以下にも, それと同じ方向に向かう指摘が見られる. ミシェル・フーコー「刑罰の理論と制度」(1972) 高桑和巳訳, in 『思考集成 IV』筑摩書房, 1999, p. 378 ; 『監獄の誕生』(1975) 田村俶訳, 新潮社, 1977, pp. 70–71 ; 「監獄についての対談」(1975) 中澤信一訳, in 『思考集成 V』筑摩書房, 2000, pp. 363–365.
11. フーコー「序文」(1973) 高桑和巳訳, in『思考集成 IV』, op. cit., pp. 381–382.
12. Ibid., p. 382.
13. Ibid.
14. Ibid.
15. Ibid., p. 386. ピエール・フランソワ・ラスネール (1800–1836) は窃盗を重ね, 殺人を2件犯して絞首台に掛けられるが, 処刑される前に執筆した『回想録』が死後刊行され, 大人気を博した. エミール・ガボリオー (1832–1873) は「ルコック探偵」もので知られる, フランス古典推理小説の代表的作家. チェーザレ・ロンブローゾ (1835–1909) はイタリアの犯罪学の大家で, 天才論などでも知られる.
16. Ibid., pp. 384–385.


(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました. また, 図版を増やしました.)