debord
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』
『文藝』vol. 39, no 3 (秋季号), 河出書房新社, 2000年7月, p. 281.


以下の書評です. ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』木下誠訳, 現代思潮新社, 2000年.

なお, 『文藝』掲載時は無題でしたが, 当初は「あらゆる簒奪者は, 自分が到着したばかりだということを忘れさせたがってきた.」というドゥボールの警句をタイトルにしてもらう予定でした. そのつもりで書かれた一節が本文中にあります.


 最近, 日本語での紹介の相次いでいる状況主義者 [シチュアシオニスト] たちの活動だが, その中心人物ギー・ドゥボールの著作がまた1冊, 日本語で読めるようになった. 1967年に書かれた『スペクタクルの社会01』への注解という形で1988年に刊行されたこの本の翻訳を, 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌全号の翻訳02とあわせて, ドゥボールたちの思考の軌跡を日本語でたどる機会の到来として, まずは喜びたい.

 とはいえ, 「69年」の挫折によって語りが抑圧された日本での根源的 [ラディカル] な思考を, 状況主義者 [シチュアシオニスト] たちの軌跡を頼りに30年前からやりなおすことには, 何の意味もない. かつて到来することに失敗した革命の日が今ようやく到来する, などという幻想を抱くことはもう不可能だ. 根源的 [ラディカル] な思考というこの戦場ではとりわけ, 郷愁や幻想を信用してはならない. 解放の思考においてさえ, 明るい未来はもはや約束されていない.

 ドゥボールの展開している誇大妄想的ないし迫害妄想的な陰謀論をそのまま受け取るのも危険だ. 全体主義的体制 (集中したスペクタクル的なもの) と資本主義的体制 (拡散したスペクタクル的なもの) が今や, 統合されたスペクタクル的なものという体制のうちにおいて1つになる, というドゥボールのテーゼは全面的に受け容れることができるが, その体制がいかなる堅固な実体ももっていないのも確かだ (ドゥボールもこのことはわかっている). もちろん, 広告や電波を通じて我々の欲望が操作されているのは明らかだ. だが我々は既に, その操作が純朴でも画一的でもないことをよくわかっている. 陰謀が我々の欲望を, 身体を, 経済感覚を操作する, というだけでは足りない. 陰謀のないところで, どのようにして多様な画一化が遂行されているのかを検討しなければならない.

『スペクタクルの社会』からこの『注解』に至るまで, ドゥボールが「スペクタクル的なもの」を特定するにあたってスペクタクルの時間性を検討しているのは, この点からすると有益な示唆の1つだ. ジョゼフ・ガベルが1962年に刊行した『虚偽意識03』の諸テーゼから得られているこの着想は, ここに題として引用した『注解』の一節が端的に示しているとおり, 体制としてのスペクタクルを「過去を忘れさせること」として, あるいは「永続的な現在」として名指している. 「スペクタクル的な支配の第一の意図は, 歴史的認識一般を消滅させるということだった. [...] 歴史の終わりは, 現在のあらゆる権力にとっては, 心地よい休息である. [...] スペクタクルの観客はただ, 一切を知らず, 何にも値しないと見なされている. 事の続きを知ろうとしてずっとまなざしを向けている者は, 決して行動しないだろう.」 人が非政治化され個性という単位に回収されている今日, 望むままに足を止め, 現在から自由に退却する可能性こそが思考の可能性をなし, その可能性においてはじめて共同的なものの身振りが力をもつ. ドゥボールを読むことは, このことを想い起こす恰好の契機となるだろう.



注 :

01. ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳, 平凡社, 1993年.

02. 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』全6巻, 木下誠監訳, インパクト出版会, 1994年–2000年.

03. ジョゼフ・ガベル『虚偽意識』木村洋二訳, 人文書院, 1980年.


(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)