carte blanche
白紙委任 [カルト・ブランシュ] 子どもが絵を描くところを描くピカソ
『視覚の現場・四季の綻び』no. 10 (醍醐書房, 2011年9月), pp. 44–45.


 パブロ・ピカソと児童画のあいだの交渉についてはわずかながら資料があり, 神話めいた正史もすでに存在する. それによれば, 自分の制作を児童画に譬えられることを嫌っていた彼が1940年代なかばから態度を変化させ,「子どものように描くのに私は長い年月がかかった」という奇妙な論理を開陳するようになる.

 いずれにせよこの件で重要なのは, 彼が実際に制作において児童画とどのように向きあったかということだけである. 知るかぎりでは, ピカソがこの件に応答している作品は3点だけ (より正確には2点と, 5点からなる1連作) である.《デッサンをするパウロ》(1923年), 《デッサンをするクロード, フランソワーズとパロマ》(1954年) その他同趣向の4作品, そして《画家と子ども》(1969年). 絵を描く子どもが描かれている絵はおそらくこれですべてである.

 順不同で見ていこう. 児童画の創造性が裁可されてすでに久しい《画家と子ども》では, 定型化された童子 [プットー] が, パレットと絵筆をもった画家の横で, 絵筆をもって両手を挙げている (だから, 厳密に言えば絵を描いてはいない). この絵は先述の40年代なかばのコメントの最終的な, なくもがなの再確認である. 他の2作品と違って作家自身が画布上に姿を現していることも, テーマがすでに観念論的に捉えられているということを示唆している.

 《デッサンをするパウロ》ではパウロ (最初の子ども) が写実的に描かれている. 椅子に座ったパウロが机に向かって専念している作業はお絵描きである. 彼が何を描いているのかはわからないが, その殴り描きもそのまま転写されている. ただし, このことから息子への画家の投影を読み取るのには無理がある. この時期にはまだピカソと児童画との奇妙な和解も宣言されていない. そもそも, ピカソが子どもの描いた絵をそのまま写して描けているということ自体が, 逆説的にも, 児童画がまだそれとして意識されていないことを示している.

 それに対して,《デッサンをするクロード, フランソワーズ, パロマ》はどうか ? 前景の左で兄クロード (3人めの子ども) が右向きに立て膝で座って床に置かれた紙にお絵描きをし, 右の少し奥には妹パロマ (4人め) があぐらをかいてそれを見ている. 暗い背景には, 白い輪郭だけで描かれた2人の母フランソワーズが幽霊のように立ち, 子どもたちを包みこむように覗きこんでいる. 3人は目を伏せているが, ともあれデッサンのほうに目を向けている. いや, そこには4人いる—画布のこちら側にもう1人. 子どもが紙をもらって自由に絵を描く. それを家族が見守る. この何の変哲もないように思える風景もつねに自明というわけではない. 見守る当の親が巨匠ピカソであればなおさらである. 児童画として意識された児童画が温かく見守られ, さらにはそれが画家の制作のテーマになっているということがここでは決定的である.

 そして, この絵において最も驚くべき点はクロードの紙が白紙のままだということである. それはただの白い台形だが, 作品左上の白い縦長の長方形が窓を意味しているだろうように, 紙を意味している. 窓の向こうに見えるはずの木や草は美的観点から省略されたのかもしれない (実際, 窓の向こうに木や草が描かれているヴァリアントもある). だが, クロードの紙が白紙のままであることを強いたのはそのような美的観点ではありえない. 何も見えていない窓はただの窓だが, 何も描かれていない紙は白紙になってしまう. どのヴァリアントにおいてもこの紙はつねに白紙のままだが, そもそも題名で「デッサンをしているクロード」云々と断られている以上, それが本当は白紙ではないと私たちは知っている.

 ではなぜ白紙なのか ? そもそも, この絵のテーマは児童画なのだから, クロードが何かを描いている以上, 父親はそれを何らかのしかたで自分の絵に写し取ってしかるべきである. しかし当の児童画は, いかなるやりかたでであれ転写されると, 父と子の創造性—この作品によって讃えられるべき当のもの—の少なくともいずれかに (いや, おそらくは両方に) 決定的な傷を残さずにはおかない. 児童画をそのまま転写すればパブロの創造性が否定され,「ピカソふう」に歪形を加えてしまえばクロードのそれが否定される. というより, 描かれた結果がそのいずれであるかなど, 自分の制作との関わりにおいて児童画を肯定してしまった事後であってみれば, どのようにして判断できるというのか ?

 だとすると,「解なし」というのがこの方程式の最終的な解になる. 絵のなかで子どもに白紙を差し出すこと, これが, 子どもの描画の自由を全面的に尊重することを選んだ画家にとって唯一可能な身振りである.

 この白紙は20世紀絵画によって児童画が裁可された瞬間そのものを定着させているとも言える. 16世紀初頭にヴェローナでルネサンス画家ジョヴァンニ・フランチェスコ・カロートによって画布の上に強引に引き入れられてから4世紀以上を経て, 子どものもつ紙はついに, 本当に真っ白になった.