解題
「解題」
『水声通信』no. 34 (水声社, 2011年8月), pp. 151–156.


以下の解題です. ジョルジュ・バタイユ & ジャン・ベルニエ「クラフト‐エビングについて」高桑訳,『水声通信』no. 34 (水声社, 2011年8月), pp. 130–151.


 この論争は以下の翻訳である. Georges Bataille, “(no title),” La critique sociale, no. 3 (Paris: Marcel Rivière, October 1931), p. 123 ; Jean Bernier, “À propos de Kraft-Ebing,” La critique sociale, no. 4 (Paris: Marcel Rivière, December 1931), pp. 191–192 ; Bataille, “À propos de Kraft-Ebing,” La critique sociale, no. 5 (Paris: Marcel Rivière, March 1932), pp. 239–240 ; Bernier, “Quelques mots de réponse,” La critique sociale, no. 5, p. 240. (以上のテクストが発表された当の雑誌『クリティック・ソシアル』は, 全号を収録した以下の復刻版が出されたことがある. La critique sociale (Paris: La Différence, 1983). また, このテクスト群は, バタイユの部分については以下でも参照できる. Bataille, Œuvres complètes, 1, ed. Denis Hollier (Paris: Gallimard, 1970 [1973]), pp. 275–276, 291–294. ベルニエの部分も, 一部省略されているが編者註に収録されている (pp. 657–660).)

 一読しておわかりになるとおり, これは「クラフト‐エビングについて」というより,「性倒錯と社会について」と題したほうが内容を反映しているだろう文章群である. このやりとりは, 当事者の名を取って「バタイユ/ベルニエ論争」とも呼ばれる. 反主流派マルクス主義者ボリス・スヴァーリンの主宰する『クリティック・ソシアル』誌で1931年から翌年にかけて展開された. ジョルジュ・バタイユの短い書評記事に対してジャン・ベルニエが次号で反論し, その次号でバタイユが応答し, さらに (同号でそれに続けて) ベルニエが回答を寄せている.

 数々の玄妙な釈義が飛び交うマルクス主義と精神分析がともに俎上に載った, しかも今から80年近くも前に展開された論争でもあるということで, 難解に思われるところがあるかもしれない. この論争がバタイユの思想において, また思想一般においてもつ射程についてなど議論の大枠を把握するにあたってはとくに, 本号に掲載されている丸山真幸氏の論考「倒錯は正しい」その他を参考にしていただけると幸いである. 以下は, ともかく文意を過不足なく取るうえで必要な情報の補足—いわば後まわしにされた長い訳註の寄せ集め—にすぎない.

 まずはバタイユの書評に登場する名「クラフト‐エビング」「モル」「エスナール」について.

 リヒャルト・フォン・クラフト‐エビング (1840–1902年) は, この書評ではじつのところ議論の口実にされているだけだが, この先駆的な性科学者の主著『性の精神病理』は日本語訳もすでに『変態性欲の心理』『異常性愛の心理』その他のタイトルで何度か刊行されている (今回はタイトルをラテン語による原題「Psychopathia sexualis」から訳している). これは, 第2次世界大戦後にアルフレッド・キンジーのいわゆる『キンジー報告』(1948, 1953年) やウィリアム・マスターズとヴァージニア・E・ジョンスンの『人間の性反応』(1966年) をはじめとする一連のいわゆる『マスターズ & ジョンスン報告』が発表されるまで, ハヴロック・エリスの全7巻の『性の心理研究』(1897–1928年) とともに性科学の古典として権威的地位を占めていた. この本は初版 (1886年) が110ページの本として発表されて以来, おおむね版を重ねるごとにページ数が増していき, 第7版 (1892年) 以降は400ページ前後で推移していた. 作者の死後は別人が編集に関与するようになったが—作者のみの手になるものは第12版 (1903年) が最後である—, まず関与した弟子のアルフレート・フックス—第13版 (1907年) から第15版 (1918年) まで—が極端にページ数を増やすことはなかった. だがバタイユが記しているとおり, その直後の第16/17版 (1924年) に関与した人物が, これを2倍近い832ページに膨れあがらせた.

 アルベルト・モル (1862–1939年) がその張本人だが, 彼も性科学者の第1世代に属する. ジークムント・フロイト同様に神経学・精神医学的関心から研究をスタートさせてジャン‐マルタン・シャルコやイポリット・ベルネームに師事し—初期の代表作に『催眠術』(1889年) がある—, 次いで性倒錯に関心を向けた. その研究の結実である大著『性的リビドー研究』(1897年) は『性の精神病理』や『性の心理研究』と同じく, フロイトの『性欲論3篇』(1905年) —ちなみに本論争で言及されることになる倒錯/神経症の同形性に関する議論はこの本に由来する—の着想源となっている (モルによる幼児性欲の肯定がフロイトに与えた影響がしばしば指摘される). 問題の『性の精神病理』第16/17版について言えば, じつのところこれはモルがもとのクラフト‐エビングの集めた症例記録を流用しつつ, 自分やその他の研究者による症例記録をさらに追加して全面的に語りなおした奇妙な本であって, もはやクラフト‐エビングの作品とは見なせない (その文中で用いられている1人称「私」も, クラフト‐エビングではなくモルを指している). バタイユの書評冒頭の説明は単に修辞的なものと読めてしまう可能性もあり, モルの「編集」が実際にどの程度のものなのか判然としないかもしれないが,「モルが名著を文字どおり乗っ取った」というのが偽りのないところである. とはいえ, このモル版『性の精神病理』もそれなりに人気はあり, フランス語版の他, イタリア語版 (1953年) も刊行されている. なお, これ「以前にフランス語訳もあった」とバタイユが述べているのは第8版からの翻訳 (1895年) のことである.

 アンジェロ・エスナール (1886–1969年) はフランスに精神分析を導入した第1世代の1人である (1926年設立の「パリ精神分析協会」の創設メンバーに入っている). 時代の制約ゆえにであるが, 彼による精神分析の受容・紹介は伝統的なフランス精神医学の枠内にとどまったとされる. 彼は「エス (Es)」のフランス語における訳語として「le soi (おのず)」を提案したことでも知られるが (現在では「le ça (それ)」と訳すのが一般的である), この訳語は当時よく用いられたものである (本論争で登場している「エス」も「le soi」となっている. ちなみに,「欲動 (Trieb)」も現在のフランス語では「pulsion」と訳すのが普通だが, 本論争では当時の用語法にのっとって「instinct (本能)」となっている). なお, エスナールは1931年設立の「パリ性科学研究協会」の創設メンバーの1人でもあり,『性科学論』(1933年) も書いている.

 次いで, ベルニエのコメントに登場する名「フォイエルバハ」について.

 ルートヴィヒ・フォイエルバハ (1804–72年) はカール・マルクスの露払いのように扱われることの多い人物だが, ベルニエもやはりマルクスの「フォイエルバハに関するテーゼ」(1845年) における「人間的」云々という形容を念頭に置いているとおぼしい.「フォイエルバハはヘーゲル的な思考を排し, 哲学において人間的なものを回復したまではよかったが, その人間なるものが具体的な社会的規定を受けて成立するものだということにまでは思い至らなかった」というほどの論調が「テーゼ」に見られることはよく知られているが, ベルニエはこの見解をそのままなぞっているように思われる.

 次いで, バタイユの反論に登場する名「プレハーノフ」「ボグダーノフ」「ベルンシュタイン」について.

 ゲオルギイ・プレハーノフ (1856–1918年) は, ロシアにマルクス主義を理論的に導入する役を果たした哲学者である. バタイユが言及しているのは,『ノイエ・ツァイト』誌に発表された「ヘーゲル死後60年にあたって」(1891年) というテクストである. そこでプレハーノフはヘーゲルが過去の哲学者として軽視されていることを批判し, とくにその歴史哲学を再評価しようとしている. ちなみに, プレハーノフは自らの論文と趣旨を同じくするものとしてフリードリヒ・エンゲルスの『フォイエルバハ論』(1886年) —プレハーノフのテクストの5年前に, やはり『ノイエ・ツァイト』誌に発表された—を挙げている. バタイユは「プレハーノフの記事で, ヘーゲルは, 先行する諸哲学の学説を廃物と見なさなかったということで讃えられている」と書いているが (プレハーノフが書いているのは, ヘーゲルにとって過去の哲学は後に乗り越えられるにせよそれぞれの時代においては真理であって, また現在の哲学は先行するそのような諸哲学の成果である, というほどのことである), さらにプレハーノフはこの見解を自らのおこなうヘーゲルの再評価自体に引きつけている. これ自体は当然の判断と思える. だが, このような過去への傾注によって現在の知的進展が見えなくなってしまうようでは本末転倒だというのがバタイユの主張である. もちろん, それだけでプレハーノフ1人を非難する必要もないが, たとえば『フォイエルバハ論』第4章のエンゲルスが当時の知的動向 (細胞説, エネルギー論, チャールズ・ダーウィンの進化論) と何はともあれ向きあおうとしているのに対して, プレハーノフには一般的にそのような配慮が見られないということはたしかに指摘できる. バタイユはプレハーノフに代表させる形で「人類が新たな知的形式を生み出すより前に, 経済的次元での諸変化が起こるのが必然的である」という見解—要するに, 革命が起こるより前に文化的次元で何らかの変化が起こるとしてもそれは根本的なものではないから考慮に入れなくてよいという構想—を提示しているが, これこそ当のベルニエが当然視しているはずの前提である.

 アレクサンドル・ボグダーノフ (1873–1928年) は, それと正反対の立場にいる者として取りあげられている. 草創期のボルシェヴィキの中心にいた人物であるが, 当時脚光を浴びていたエルンスト・マッハ (1838–1916年) の教説に傾倒して全3巻の『経験一元論』(1904–06年) を書き, ボルシェヴィキ内に一群の「マッハ主義者」を生み出したが, それによってヴラディーミル・レーニンによって排除された (レーニンがその排除のために書いた批判が『唯物論と経験批判論』(1909年) である). ここで問題になっているマッハの教説というのは簡単に言えば, 私たちは客観的存在を実体としてあらかじめ前提すべきではなく, 逆に私たちの経験する感覚や記憶の総体のほうがなるべく簡潔な便宜的説明のために客観的存在を実体化するにすぎない, というほどのものである (これによって客観的な真理を保証する唯物論的な基礎が揺るがされてしまうということでレーニンは批判を展開した). バタイユはボグダーノフの見解が正しいかどうかを問題にしてはいない (それどころか, 彼の依拠したマッハの教説はブルジョワ思想のなかでも「否定的な」寄与だとさえ言っている). だが, ボグダーノフの判断自体の最終的な当否はともかく, そのような進取の精神自体がまず無条件に肯定されるべきだというのがここでのバタイユの立場である (ボグダーノフは間違っていたのかもしれないが, それでも新しい「ブルジョワ思想」を吸収し, マルクス主義との両立可能性を身をもって試練にかけたということだけは少なくともたしかだということである).

 エードゥアルト・ベルンシュタイン (1850–1932年) は「修正主義」(革命を必然とは見なさない社会民主主義) の代名詞のように語られることがしばしばある. ここでのバタイユの言及のしかたは暗示的でわかりにくい. 修正主義では, 社会状況が最終的に経済によって規定されるというマルクス主義の原則がある程度まで緩和されて解釈されるとしばしば言われる. ところがバタイユは, 物々交換を経済活動の起源として想定するマルクス主義の経済論の根本的構想自体を疑っている. バタイユは「野生民族の経済に関する最近の発見」云々と書いているが, これはマルセル・モース (1872–1950年) の『贈与論』(1923–24年) を念頭に置いた記述である. ちなみに, 経済活動の起源には物々交換ではなく贈与があるとするモースの発想を引き継いだバタイユの構想は, この論争が展開された翌年にやはり『クリティック・ソシアル』誌に発表された「濫費という観念」(1933年) で展開されることになる (そして後に『呪われた部分』第1巻 (1949年) として結実を見る). このバタイユの観点からすると, 物々交換をモデルとすれば事足りるたぐいの経済活動が支配的になるのは近代においてであり, したがってそのような経済活動によって社会状況が規定される (ように見える) のも近代に特有のことだということになる. ここでもやはりベルンシュタインの構想自体の正否が問われているわけではないが, 社会状況を最終的に規定するとされている経済活動—この規定の程度を修正主義は問題にした—がそれ自体, 近代に特有の形式を取ったものであって歴史的に普遍的なものではないということ (そしてそのことが「ブルジョワ思想」の「肯定的」な貢献によって示唆されたということ) を示すために, 修正主義が奇妙なしかたで引きあいに出されていると考えればよいだろう. いわば, バタイユはあさってのほうを向いた別の修正主義を提案しているとも言える. つまり, 私たちの社会はあらかじめ, マルクス主義が考えるのとはまったく違う経済活動によってさらに深く規定されている.

 そして, ベルニエの再反論に登場する名「トロツキー」について.

 レフ・トロツキー (1879–1940年) の名はまずは, 反主流的なもの—このばあいは精神分析—をマルクス主義の枠内で再評価・復権させるにあたって引きあいに出されている名として捉えられうる. 彼は, 10月革命で活躍しながらレーニンの死後, ヨーシフ・スターリンによって排除される反主流派の代名詞的存在である. だがそもそも, 後に『スターリン』(1935年) でソ連における全体主義をいち早く批判することになるスヴァーリンが主宰する『クリティック・ソシアル』誌であってみれば, トロツキーが引きあいに出されること自体にはそれだけでは何の驚きもない. ベルニエがどこまで正確な情報をもっていたかは不明だが, ここでは, トロツキー自身が実際に1920年代初頭にウィーンの精神分析サークルと交流をもったこと, またその交流をもとにソ連の心理学者たち—たとえば重鎮イヴァン・パヴロフ (1849–1936年) —にじかに働きかけたことといった具体的な歴史的事実が念頭に置かれている可能性がある. ところで, ソ連において精神分析は早くも1920年代なかばには批判を受けはじめ, 数年後には駆逐されてしまう (バタイユは精神分析のソ連からの追放は「10年ほど前」としており, 本論争の時点から計算すると1920年代初頭になるが, 実際に精神分析が排除されたのはこの論争のせいぜい数年前のことにすぎない. ソ連成立直後の数年にはむしろ精神分析を積極的に受容する可能性が検討されていた). ベルニエは, 実際に精神分析に関心を示したトロツキー, 精神分析と同じ時期にソ連から追放されることになったトロツキー (1929年に追放され, この時期はトルコに亡命中) を引きあいに出すことによって, 彼同様に行き場を失った精神分析を擁護することを正当化しようというのだろう. この身振りは理解できなくもないが—これはアンドレ・ブルトン (1896–1966年) が最晩年のトロツキー (メキシコに亡命中) とおこなうことになる共闘の身振りとも一致する—, つまるところ, 精神分析とマルクス主義を両立可能だとするベルニエの最後の強調に対してその身振りが明確な根拠を与えるわけではない. 精神分析とトロツキーの類比が仮に有効だとしても, バタイユであれば逆に,「トロツキーを追い払ったボルシェヴィキの指導者たちは彼らなりに正しかった」とさえ言明してしまうはずである.

 最後に, 論争当事者のベルニエ自身についても少しだけ書いておく (バタイユについては紹介は不要だろう).

 ジャン・ベルニエ (1894–1975年) は第1次世界大戦後からキャリアをスタートさせた文筆家で,『リュマニテ』『クラルテ』といったマルクス主義的な新聞・雑誌を中心に記事を多く書いた (前者はフランス共産党の機関紙. 後者も当初は機関誌に準ずるものとされていたが,『クラルテ』派は後に反主流派と見なされるようになる). 両大戦間期フランスの典型的な反体制派知識人である. マルクス主義者だが, 単に純粋な政治運動に殉ずるというより, 文化的・社会的なさまざまの動向との接点を模索する, 腰の軽い橋渡し役のトロツキー主義者という印象が強い. その意味で, なるべくして『クリティック・ソシアル』同人になった人物とも言える. ただし, その思想自体に独創的なところはなく, 諸思想・諸教義の理解も平板な印象を与える.

 (私たちの読解にとって彼の個人史のなかで意味がなくもないのは, 彼が1920年代なかばにコレット・ペーニョ (1903–38年) という女性と恋愛関係にあったということである. 彼女は後にスヴァーリンの恋人になり, さらに後にバタイユの愛人になる人物である. ベルニエがバタイユについて書いている「不道徳」という文言の由来はこれを含めたバタイユのしかじかの振る舞いに求められるのかもしれない. だが, 私的な生に関する憶測はここまでにしておく. ゴシップにうつつを抜かすのもよいが, そのばあいも, 少なくともこの文章群の内容を過不足なく把握しておくことは不可欠だろう.)

 ベルニエはソ連に対しては「経済的次元での社会変革に着手し, 今後の変革にとっての必要条件をクリアしている以上, できれば共感を寄せたいが, 諸理由ゆえに踏み迷って誤りを犯しており, したがって歯がゆいが全面的に肯定はできない」という立場に身を置いているとおぼしい. この煮えきらない立場は本論争でも確認されるが, 別の局面でも顔を出したことがある. ベルニエは本論争とは別の論争でも知られている.『クラルテ』派だったころのベルニエがシュルレアリスムに接近する過程で起こった論争である. フランスの大作家アナトール・フランスが死去したとき, 右派のみならず『リュマニテ』, またソ連に至るまでがその死を悼む好意的な弔辞を寄せたが, この賛美の大合唱に対してブルトンたちは,『ある死骸』(1924年) という批判文書を発表して反対の意を示した.『クラルテ』派は生前からこの大作家に対して批判的だったため, ベルニエも『クラルテ』でこのシュルレアリストたちの動きを肯定的に評価したが, そこでルイ・アラゴンが用いていた「耄碌ばばあのモスクワ」という表現には注文をつけずにいられなかった. ソ連は単に情報不足から判断を誤ったにすぎないのだから大目に見るべきであって, これをソ連の論理自体の根本的な誤りであるかのように捉えて, 鬼の首を取ったように侮辱的な言葉を投げつけるのは間違っている. そもそもソ連の実情をよく知りもしないで適当なことを書くな, というのである. これに対してアラゴンは, おまえは何様だ, そもそもちっぽけなロシア革命などより反抗精神自体のほうがはるかに重要だとする反論を『クラルテ』に送りつけて, しばらく2人のあいだで論争となる. これがいわゆる「アラゴン/ベルニエ論争」(1924–25年) である.

 だが,「〈原則としては擁護したいが現実には擁護できなくなっているもの〉を擁護するために論争をふっかけてみる」という彼のこの振る舞いは, ともかくも何かしらの成果を生む (それがすべて彼の力によるものだとは言えないにしてもである).「アラゴン/ベルニエ論争」からはシュルレアリストたちと『クラルテ』派の接近が結果として生じ (実現しなかったが,『内戦』という雑誌の刊行が共同で企画された), シュルレアリストたちは1920年代後半からマルクス主義に傾倒するに至る. 他ならぬアラゴンも共産党に入党し, 最終的にはシュルレアリスムのほうを離脱して, 共産主義を代表する存在になっていく.

 さて,「バタイユ/ベルニエ論争」からは何が生じたか? 詳しくは丸山氏の論考を参照していただきたいが, バタイユはおそらくこれを期に心理学と政治分析とを結びつける可能性を本格的に追求するようになる. その最初の結実は『クリティック・ソシアル』に発表された「ファシズムの心理構造」(1933–34年) であるが, この追求は一過性のものに終わらず一生にわたって続き,『呪われた部分』第3巻として書かれた『主権』(日本語タイトル『至高性』) の草稿が残された.

 別の成果として挙げられるのは—これももっぱらベルニエの手柄だと言いきることはやはりできないが—バタイユの政治化 (1930年代なかば) である. バタイユの政治関与を代表するのは反ファシズム運動「コントル‐アタック」(1935–36年) の組織である. これはブルトンとバタイユの一時的共闘として比較的よく知られているものだが, じつはこの運動にはベルニエも加わっており, 彼が多くのメンバーと共同署名した文書がいくつか残されている. そのなかに1本, なんとバタイユとベルニエの2名だけが署名した「家族生活」(1935年) という声明がある. 何の変哲もない短文に見えるが, 数年前の論争をすでに知る者は深読みをせずにはいられない. 以下に全文を挙げ, 解題の締めくくりとする.

資本主義体制における社会道徳の基盤は, 親たちが子供たちに課す道徳である. この強制の道徳に私たちが出発点として対置するのは, 子供たちにおいて探検や遊びの過程で打ち立てられる自発的な道徳である. この騒々しく幸福な道徳は仕事仲間たちの道徳とも一致するものだが, この道徳だけが, 今日の生産システムの生むさまざまな悲惨から解放された社会的諸関係に対して原則として役立ちうる.
(Jean Bernier & Bataille, “La vie de famille” (1935), in José Pierre, ed., Tracts surréalistes et déclarations collectives, 1 (Paris: Terrain vague, 1980), p. 287.〔「「コントル・アタック」手帖」,『物質の政治学』吉田裕編訳 (書肆山田, 2001年) 133頁〕 以下でも読める. Bataille, Œuvres complètes, 1, p. 388.)