「チェシャ猫のようなうすら笑い」はキャロルの時代には慣用句だった. 起源は不詳. 有力な説をふたつ. 1. チェシャ (ちなみにチェシャはキャロルの生まれた州) には, 地域一帯の旅館の看板にうすら笑いを浮かべた獅子を描いてまわる看板描きがいた (Cf. Notes and Queries, no 130, April 24, 1852, p. 402). 2. 昔はチェシャ産チーズはうすら笑いを浮かべた猫の形の鋳型に入れて作られていた (Cf. Notes and Queries, no 55, Nov. 16, 1850, p. 412). フィリス・グリーネイカー博士はキャロルの精神分析的研究のなかで書いている. 「これにはキャロル独特の魅力がある. チーズの猫は鼠を食べるだろうけれど, 鼠のほうもチーズを食べるかもしれない, といった幻想を惹起するから.」 チェシャ猫は原手稿『地下のアリスの冒険』にはいない02.
デイヴィッド・グリーンが私に送ってきた手紙によると, チャールズ・ラムの1808年の手紙にこんな一節がある. 「このあいだ私は駄洒落をひとつこしらえた. それでホルクロフトをひっかけると, チェシャ猫のようにうすら笑いを浮かべた. ところでチェシャの猫はどうしてうすら笑いを浮かべるのか? それは以前あそこが王権伯領だったからで, そのことを考えると猫どもは笑わずにはいられないということだ. しかし, 私にはどうしておかしいことなのかわからない.」
ハンス・ヘイヴァーマンは私宛ての手紙で, キャロルの消える猫は月が欠けていくことからできたものかもしれない, と提案している. —月は長らく狂気と結びつけられてきたし—ゆっくりと欠けていって, 消えてなくなる前に爪の先のような三日月になるけれど, これはうすら笑いに似ているではないか, ということだ.
「窓辺の朝」を次の対句で締めくくったとき, T・S・エリオットはチェシャ猫のことを考えていたのか?
あてのない笑みが空を漂い
屋根に沿ってかき消える03
じつのところ, この領野は非常に研究されており, その地層はあらゆる意味において曝露されており, そこに何かを「付け加える」のは厚かましくもあり不可能とも思える. だから我々は先行する読解について「あたかも」何も知らない「かのように」読解をしてみようと思う05.
[...] たしかに『不思議の国』の冒頭では (前半はまるまるそうだが), 出来事の秘密とか出来事に含まれる限界のない生成の秘密とかいったものは, 井戸や兎穴といった大地の深みに探し求められている. その深みは自ら穿ち沈潜していく穴であり, つまりは貫通しあい共存する身体の混成物である. しかし物語が進むにつれて, 沈潜と没入の運動は, 左から右へ右から左へという水平な滑走運動に場を譲る. 深みのある動物たちは二次的なものへと生成し, トランプ・カードに場を譲る. つまり厚みのない者たちだ. いわば, かつての深みが平らに拡がって広大さへと生成した, というわけだ. 限界のない生成は今やその一切が, ひっくり返ってきたこの平たい広大さへとおさまる. 深い, ということはもはや賛辞ではなくなった. 深いのは動物たちだけだ. 彼らは最も高貴な者たちではない. 最も高貴なのは平板な動物たちである. 出来事とは結晶のようなものであり, 境界によってのみ, 境界上でのみ生成し成長する. 吃りで左利きの男 [キャロル] の第一の秘密はこれだ. もはや沈潜せず, 延々と滑走すること. それによって, かつての深みはなんでもないものになり, 表面に対する反対方向 [反対の意味] といったものへと還元される. 平らに滑走すれば向こう側に移行することになる, というのは, 向こう側とは反対方向 [反対の意味] に他ならないからだ06.
『不思議の国』は3つの部分からなり, これは場の変化によって標示されている. 第1部 (第1–3章) は果てしのないアリスの転落から後, 深みという分裂病質の境位にまるまる浸っている. [...] しかし第2部 (第4–7章) は方向転換をはっきり示していると思える. [...] 大きいものへの生成や小さいものへの生成は, 深みをもった第3項と対比して起こるのではもはやなく, 生成それ自体のために自由にのびのびとおこなわれる. 一方への生成は他方への生成と対比する形で起こる. [...] 大きくすることと小さくすることは茸というひとつの対象に統合しなおされる [...]. この印象はもちろん, この二義的な茸が良い対象に場を譲るのでなければ確証されないが [...] チェシャ猫がまさにその役を演ずる. 猫は良い対象, 良いペニス, 高みの偶像であり高みの声である. 猫はこの新たな措定のずれを体現する. [...] 猫は現前している, あるいは不在だ. というのもうすら笑いだけを残して消えてしまうからであり, この良い対象のうすら笑いから発して自己形成する. [...] 『不思議の国』の第3部 (第8–12章) で境位がまたもや変化する. 彼女は最初の場をさっさと見つけ, 厚みのないカードという平板な形象で一杯のその庭園を通過する. まるでアリスが充分に猫に同一化したかのようだ. 彼女は猫が自分の友だと表明する. これによってアリスはかつての深みが平らに拡がるのを見る [...]07.
『不思議の国のアリス』でも『鏡の国のアリス』でも, あるじつに特別な範疇に属することが問題になっている. それは出来事, 純粋な出来事である. 「アリスが大きくなる」と私が言うとき, それは彼女がかつてあったよりも大きく生成する, ということだ. しかしそれはまた, 彼女は今あるよりも小さく生成する, ということでもある. もちろんそれは, 今彼女は大きくもありまた同時に小さくもある, ということなどではない. そうではなく, 彼女は同時に大小両方に生成する, ということだ. 今, 彼女はかつてより大きい. かつて, 彼女は今より小さかった. しかし, かつてあったよりも大きく生成するのと, 今生成しているのより小さくなるのとは, 同時に, 一挙になされる. 生成の同時性とはそういうことだ. これに固有なことは, 現在をかわすということである. 現在をかわす以上, 生成は以前と以後とを, また過去と未来とを分離したり区別したりすることに堪えない. 2方向 [ふたつの意味] に同時に向かい発射することは生成の本質に属する. つまり, アリスは小さくならずに大きくなることはないし, その逆もない08.
[...] この直線上に直線人と呼ばれる原始的な人種が棲息していると想像してほしい. 男性の直線人は長いダッシュであり, 一端に目がひとつついている (これは黒点で表される). 女性の直線人はそれより短いダッシュであり, やはり一端に目がついている. 直線人は大人になるまで目が発達しない. 子供はただの短いダッシュで, 目がない14.
もちろん我々は, 彼 [大人の直線人] をひっくり返して彼の鏡像とぴったり合致させることができる. しかしそうするには, 彼を直線から取り出して, より高次の次元を, すなわち2次元の世界を通過させなければならない. 大人の直線人は, 高次の空間に入らなければ自分の鏡像と重ねられることはできないので, 我々は, 彼の形象を非対称だと言う16.
[...] 突然変異がなくとも, 一方の旋光性を持った分子が自分の鏡像よりも繁殖するというのは可能である. ペニーを100回投げる場合, 表がちょうど50回出て裏がちょうど50回出るというのは, ごくありそうもないことだ. これと同様に, 非対称性をもった化合物が大量に形成された時に, 右旋体の量が左旋体の量とちょうど同じになったというのは, やはりありそうもないことだ19.
今度はそれ [猫] は相当にゆっくり消えた. 消滅は尻尾の終わりからはじまってうすら笑いで終わったが, これは残りが行ってしまってからもしばらく残っていた.
「まあ! うすら笑いのない猫ならよく見たことがあるけれど」とアリスは考えた. 「でも, 猫のないうすら笑いなんて! こんなにおかしなものを見たのは生まれてはじめてだわ21!」
「猫のないうすら笑い」という句は純粋数学をかなりうまく言い表している. 数学の定理は大抵の場合, 外界の構造に有用に適用されうるものだが, 定理自体は抽象であり, これは「人間のパトスから離れた」別の王国に属している, とバートランド・ラッセルは, 記憶に残るある一節でこの句を引用している [...]22.
猫は良い対象, 良いペニス, 高みの偶像であり高みの声である. 猫はこの新たな措定のずれを体現する. [...] 猫は現前している, あるいは不在だ. というのもうすら笑いだけを残して消えてしまうからであり, この良い対象のうすら笑いから発して自己形成する23.
私は, 幸福な余暇や知性の成功を漂わせているような表面的な詩や言語活動が好きではない [...]. 人は, 自分の言語を発明して, 文法外の意味をもった純粋言語に語らせることができるのだが, その意味は即自的に価値があるのでなければならない, つまり, その意味は苦悶から発しているのでなければならない [...]24.
[...] 私は1934年に [...] ある書物を書いたが, それはフランス語ではない言語で書かれていて, にもかかわらず, どこの国の人であれすべての人がこれを読むことができた25.
«Ma foi!» pensa Alice, «il m'était souvent arrivé de voir un chat sans souris (ou sourire); mais ce souris de chat sans chat! c'est bien la chose la plus curieuse que j'aie contemplée, de ma vie26!»
「まあ!」とアリスは考えた. 「鼠 (うすら笑い) のない猫ならよく見たことがあるけれど, でも, 猫のない猫のうすら笑いなんて! こんなにおかしなものを見たのは生まれてはじめてだわ!」(強調引用者)
«Voudriez-vous, je vous prie, me dire», demanda Alice [...] «pourquoi votre chat sourit comme il le fait?»
«C'est un chat du Cheshire, voilà pourquoi», répondit la Duchesse.[...]
«J'ignorais que les chats du Cheshire sourissent continuellement; je croyais les chats ennemis du ris et des souris; à vrai dire même je ne les savais pas capables de sourire27.»
「申し訳ありませんが, お教えいただきたいのです」とアリスは訊いた [...].「どうしてあなたの猫はそんなふうに笑うのですか?」
「チェシャ猫だからだ」と公爵夫人は応えた.
「チェシャ猫がいつも笑っているとは知りませんでした. 猫は笑いと鼠の敵だと私は思っていました. じつのところ私は猫が笑うことができるということさえ知りませんでした.」(「できる」を除いて強調引用者)
ここでは, 多義性のない統辞に達さなければならないという配慮が, 英語テクストにはない言葉遊びを我々に課した28.
「[...] 私のダイナ! おまえが一緒に落っこちてきていればいいのに! 空中に鼠はいないだろうけど, 蝙蝠はつかまえられるでしょ, それに蝙蝠は鼠によく似ているものね. でも, 猫は蝙蝠を食べるかな?」 ここでアリスはひどく眠くなってきて, 自分を相手に夢見心地で言いはじめた. 「猫は蝙蝠を食べる? 猫は蝙蝠を食べる?」 時には「蝙蝠は猫を食べる?」と言ったけれど, おわかりのとおり彼女はどちらの問いにも応えられなかったので, ちゃんと言おうがあべこべに言おうが一向に構わなかった29.
Il n'y a pas de souris dans les airs, je le crains, mais tu pourrais toujours attraper une chauve-souris, et cela ressemble fort, vois-tu, à une souris30.
アリスは考えた. 「この鼠に話しかけて何か役にたつかな? この下では何もが度外れだから, こいつがしゃべれるというのもありそうなことね. いずれにせよ, やってみてまずいということはないわ.」 そこで彼女は始めた31.
そこで彼女は始めた. 「おお鼠よ, この水たまりからどうすれば出られるかお前は知っているか? 私は泳ぎまわるのにとても疲れてしまった, おお鼠よ!」(これが鼠に話しかける正しいやりかたにちがいないとアリスは思った. こんなことは今まで1度もやったことはなかったが, 兄さんのラテン語の文法書に「鼠は—鼠の—鼠に—鼠を—おお鼠よ!」とあるのを見たことがあるのを憶い出したのだ32.)
「たぶんこいつは英語がわからないんだわ」とアリスは考えた. 「きっとこいつはフランス鼠で, ウィリアム征服王と一緒にやってきたのね.」 [...] そこで彼女はもう1度始めた. 「Où est ma chatte?」 これは彼女のフランス語の教科書の最初に出てくる1文だった. 鼠は突然水から跳びあがり, 恐怖で体じゅうをがたがたと震わせるように思えた. 「あっ, すみません!」とアリスは急いで言った. この哀れな動物の感情を傷つけたのではないかと思ったのだ. 「あなたが猫を好きではないってことをすっかり忘れていました.」
「好きではない, だと!」と鼠は叫んだ [...]33.