No More Annotated Alice
「アリスに注釈はもういらない! 「ルイス・キャロル」のための, そして/あるいは, に抗する, 脱構築的試み」
(No More Annotated Alice : Une tentative déconstructrice pour et/ou contre «Lewis Carroll»)


アップ : 2000年11月26日
1996年に, ある大学院生紀要に発表したもの. ここに載せるにあたって若干, 加筆・修正をほどこしています.



Our family always hated cats! Nasty, low, vulgar things!
Don't talk to me about them any more!01





「論理学者ルイス・キャロルの論理」と一般に見なされているものの支配する解釈共同体を, キャロリング朝と呼んでみることにしよう. この権力の君臨に対してアナーキーを導入するにはどうすればよいか? それがここでの課題だ.

 キャロリング朝の宮廷で薔薇の色を塗り替えている平らな庭師マーティン・ガードナーは—この譬喩については後述—, 一見まともな庭の手入れをしている. まず1960年にペンギン・ブックスからベストセラー『注釈したアリス』を出版. 1990年には, 前作に漏れた新たな注釈を紹介した『もっと注釈したアリス』をランダム・ハウスから出した. 2冊とも, 真んなかにルイス・キャロルの『アリス』2部作のテクストを配し, 左右の欄外に注釈を載せるという, タルムードを思わせる体裁だ.

 たとえば「チェシャ猫のうすら笑い」について. 『注釈』のほうはこんなふうだ—

「チェシャ猫のようなうすら笑い」はキャロルの時代には慣用句だった. 起源は不詳. 有力な説をふたつ. 1. チェシャ (ちなみにチェシャはキャロルの生まれた州) には, 地域一帯の旅館の看板にうすら笑いを浮かべた獅子を描いてまわる看板描きがいた (Cf. Notes and Queries, no 130, April 24, 1852, p. 402). 2. 昔はチェシャ産チーズはうすら笑いを浮かべた猫の形の鋳型に入れて作られていた (Cf. Notes and Queries, no 55, Nov. 16, 1850, p. 412). フィリス・グリーネイカー博士はキャロルの精神分析的研究のなかで書いている. 「これにはキャロル独特の魅力がある. チーズの猫は鼠を食べるだろうけれど, 鼠のほうもチーズを食べるかもしれない, といった幻想を惹起するから.」 チェシャ猫は原手稿『地下のアリスの冒険』にはいない02.

 次は『もっと注釈』のほうだ (重複箇所は除いた).

 デイヴィッド・グリーンが私に送ってきた手紙によると, チャールズ・ラムの1808年の手紙にこんな一節がある. 「このあいだ私は駄洒落をひとつこしらえた. それでホルクロフトをひっかけると, チェシャ猫のようにうすら笑いを浮かべた. ところでチェシャの猫はどうしてうすら笑いを浮かべるのか? それは以前あそこが王権伯領だったからで, そのことを考えると猫どもは笑わずにはいられないということだ. しかし, 私にはどうしておかしいことなのかわからない.」

 ハンス・ヘイヴァーマンは私宛ての手紙で, キャロルの消える猫は月が欠けていくことからできたものかもしれない, と提案している. —月は長らく狂気と結びつけられてきたし—ゆっくりと欠けていって, 消えてなくなる前に爪の先のような三日月になるけれど, これはうすら笑いに似ているではないか, ということだ.

「窓辺の朝」を次の対句で締めくくったとき, T・S・エリオットはチェシャ猫のことを考えていたのか?

 あてのない笑みが空を漂い
 屋根に沿ってかき消える03

 ここにはさらに, 「うすら笑いについてもっと知りたい場合」に参照すべき文献まで指示されている04. こうした注釈を読めば, チェシャ猫のうすら笑いについてもっと知りたくもなるだろうし, 定説がないとなれば, 新説を思いつきたくなってもおかしくない. 思いついたら, ガードナー存命のうちに彼に宛てて手紙を書きたくもなる. それは『もっともっと注釈したアリス』に掲載されるかもしれない. それが間に合わなくても『もっともっともっと注釈したアリス』があるにちがいない!

 一見平和に思えるこうした解釈共同体の運動は, しかしじつのところキャロリング朝の知的圧制のもとに成立しているのではないか? 国王は論理学者ルイス・キャロル. 到達すべき知を (あるいは到達の完了 (物語) ということそのものを) 彼が象徴するその王国の住人である読解者は常に, 自分の読解がじつはすでにどこかで披露されたことを知らずに反復するものなのではないか, という恐怖に取り憑かれる. とっておきの冗談を口にする者がいつも感じる胸騒ぎだ. しかしこの内心の恐怖を解消するには, 庭師に扮したガードナー宰相にお伺いをたて, つまりは特許登録の申請をして, 未聞か否かの裁定の権利を彼に委ねてしまうだけでいい....

 この内的な恐怖政治に対する抵抗は, たとえば, エレーヌ・シクスーによって1971年にすでにそれとなく表明されている.

 じつのところ, この領野は非常に研究されており, その地層はあらゆる意味において曝露されており, そこに何かを「付け加える」のは厚かましくもあり不可能とも思える. だから我々は先行する読解について「あたかも」何も知らない「かのように」読解をしてみようと思う05.

 シクスーは「ルイス・キャロルの作品の庭をめぐり, その伝記的・批評的・現象学的・構造的といった様々に異なる様相について知りたい向きは, J・ガッテニョやG・ドゥルーズの本を参照しなければならない」と書き, 前者については1970年にジョゼ・コルティから出た『ルイス・キャロル』を, 後者については1969年にミニュイから出た『意味の論理』を挙げている. このことはシクスーが逆説的に, そうしたことについて知りたくない者を読者として選び, また, 自分もその無知を共有しようとしているということを示している. もちろん彼女が彼らの作品を読まないわけではないし, 彼らの読者が彼女のテクストを読んでいけないわけでもない. 私にしても, これらをわざわざ読まずにおくというのも不自然だ. もっと微妙なことが問題なのだ. アリスの「ごっこ」遊びに擬して (つまり「「ごっこ」ごっこ」として) 提出されるこの無知の身ぶりの作用は, これからおこなわれる解釈が, どこかで運動しているかもしれない解釈共同体によって裁定されることを拒否することに存する. 既知の部分については賛否を留保するにせよしないにせよ, ある種の解釈の複合体がルイス・キャロル王の象徴化に向けて漸進的な自己組織化をおこなう以上, この運動に対して否をつきつけるために, 現今の知の圧制から自分の読解を分離することが必要になる, ということだ.

 この論文ではシクスーを真似て, 「「「ごっこ」ごっこ」ごっこ」をする. しかし, なぜこんなもってまわった留保をしなければならないのか? どのような主題がこうした留保を要請するのか?




 我々は鼠について論ずる.

 この論文は一見, 鼠の主題研究に見えるかもしれない. あるいはまた, チェシャ猫のうすら笑いを「もっともっと注釈」しようとしているように見えるかもしれない. 表面上はそうだ. しかし即座に言っておかなければならないが, この論文は, これらの主題を分析することを通じて, 「表面」という解釈それ自体への留保を表明しようとする.

 ドゥルーズは『意味の論理』に書いている—

[...] たしかに『不思議の国』の冒頭では (前半はまるまるそうだが), 出来事の秘密とか出来事に含まれる限界のない生成の秘密とかいったものは, 井戸や兎穴といった大地の深みに探し求められている. その深みは自ら穿ち沈潜していく穴であり, つまりは貫通しあい共存する身体の混成物である. しかし物語が進むにつれて, 沈潜と没入の運動は, 左から右へ右から左へという水平な滑走運動に場を譲る. 深みのある動物たちは二次的なものへと生成し, トランプ・カードに場を譲る. つまり厚みのない者たちだ. いわば, かつての深みが平らに拡がって広大さへと生成した, というわけだ. 限界のない生成は今やその一切が, ひっくり返ってきたこの平たい広大さへとおさまる. 深い, ということはもはや賛辞ではなくなった. 深いのは動物たちだけだ. 彼らは最も高貴な者たちではない. 最も高貴なのは平板な動物たちである. 出来事とは結晶のようなものであり, 境界によってのみ, 境界上でのみ生成し成長する. 吃りで左利きの男 [キャロル] の第一の秘密はこれだ. もはや沈潜せず, 延々と滑走すること. それによって, かつての深みはなんでもないものになり, 表面に対する反対方向 [反対の意味] といったものへと還元される. 平らに滑走すれば向こう側に移行することになる, というのは, 向こう側とは反対方向 [反対の意味] に他ならないからだ06.

 これはつまり, 深みに対する表面の勝利をキャロルの言語遊戯に本質的に (つまりこの場合は「表面」的に) 存するものとしてとらえる見解である. 表面的なものに移行してしまえば, かつて深みだったものは表面的なものの反転した効果以外ではないということになり, 遡行して措定されるものになる.

 たしかに, ドゥルーズが以下のように『不思議の国のアリス』の論理の質の変容を詳細に分類するとき, その試み自体は, 学としては完全に肯定できる—

『不思議の国』は3つの部分からなり, これは場の変化によって標示されている. 第1部 (第1–3章) は果てしのないアリスの転落から後, 深みという分裂病質の境位にまるまる浸っている. [...] しかし第2部 (第4–7章) は方向転換をはっきり示していると思える. [...] 大きいものへの生成や小さいものへの生成は, 深みをもった第3項と対比して起こるのではもはやなく, 生成それ自体のために自由にのびのびとおこなわれる. 一方への生成は他方への生成と対比する形で起こる. [...] 大きくすることと小さくすることは茸というひとつの対象に統合しなおされる [...]. この印象はもちろん, この二義的な茸が良い対象に場を譲るのでなければ確証されないが [...] チェシャ猫がまさにその役を演ずる. 猫は良い対象, 良いペニス, 高みの偶像であり高みの声である. 猫はこの新たな措定のずれを体現する. [...] 猫は現前している, あるいは不在だ. というのもうすら笑いだけを残して消えてしまうからであり, この良い対象のうすら笑いから発して自己形成する. [...] 『不思議の国』の第3部 (第8–12章) で境位がまたもや変化する. 彼女は最初の場をさっさと見つけ, 厚みのないカードという平板な形象で一杯のその庭園を通過する. まるでアリスが充分に猫に同一化したかのようだ. 彼女は猫が自分の友だと表明する. これによってアリスはかつての深みが平らに拡がるのを見る [...]07.

 これは明らかに, 多形倒錯に発して自己同一性を獲得するまでの子どもの心理の発育が「良い対象」の取り込みとして描かれるメラニー・クラインの理論を参照してなされている解釈であり, ドゥルーズはこうしてアリスの精神分析的解釈を採用している. 精神分析自体はひとつの可能性であるからここでは否定も肯定もするつもりはない (それに, ドゥルーズが作家の精神分析を可能な限り排し作品のそれに拘泥していることは評価すべきだろう). だが, さしあたってひとつ, 問題を指摘することはできる. せっかく作品内に3位相を確認しておきながら, 彼がこの成果を目的論的な「意味」を構築するために用いてしまうという点だ. 「かつての深みはなんでもないものになり, 表面に対する反対方向 [反対の意味] といったものへと還元される」というのはそういうことだろう. 彼による「意味の論理」とは, このような同一化を経た後に鏡のなかに確認できる論理であり, 彼は『不思議の国』『鏡の国』『シルヴィとブルーノ』のすべてを原則的にこの論理に還元してしまう. 端的に言えば, 『不思議の国』を『鏡の国』に還元してしまうということだ. つまり, キャロル自身による作品の組織化の帰結に, ドゥルーズは異を唱えない. (私がキャロリング朝と呼んでいるのはこの組織化のことだ. 要するに, それはある種の圧制を敷く現今の解釈共同体であると同時に, 作品を構成する「論理学者キャロル」自身による「表面」的構造への移行の制度でもある. この二者が寄り添っていることが, これを逸脱する読解を困難にする.) 『不思議の国』があって, それから『鏡の国』がある (たしかにキャロルはそうやって書いた), アリスは7歳から7歳半になっている, だから『不思議の国』は常に『鏡の国』から見た鏡像だったことになるだろう. 云々 (そして類似の構造が『不思議の国』のなかでも縮小した形で反復される). だから, 「不思議の国」のどこに深みがあるとしてもそれは深みの鏡像以外ではなく, 結局は表面だったということになる. 時間は可逆的であり, 双方向に対して等価だということになる. ドゥルーズははじめから書いていた.

『不思議の国のアリス』でも『鏡の国のアリス』でも, あるじつに特別な範疇に属することが問題になっている. それは出来事, 純粋な出来事である. 「アリスが大きくなる」と私が言うとき, それは彼女がかつてあったよりも大きく生成する, ということだ. しかしそれはまた, 彼女は今あるよりも小さく生成する, ということでもある. もちろんそれは, 今彼女は大きくもありまた同時に小さくもある, ということなどではない. そうではなく, 彼女は同時に大小両方に生成する, ということだ. 今, 彼女はかつてより大きい. かつて, 彼女は今より小さかった. しかし, かつてあったよりも大きく生成するのと, 今生成しているのより小さくなるのとは, 同時に, 一挙になされる. 生成の同時性とはそういうことだ. これに固有なことは, 現在をかわすということである. 現在をかわす以上, 生成は以前と以後とを, また過去と未来とを分離したり区別したりすることに堪えない. 2方向 [ふたつの意味] に同時に向かい発射することは生成の本質に属する. つまり, アリスは小さくならずに大きくなることはないし, その逆もない08.

 要するに, 今大きくなるということは, かつてに向かって小さくなるということでもあり, そのふたつの生成の間に序列はない, ということだ.... しかしこんなふうに言えるのは, この冒険につぐ冒険の数々をすべて夢だったと言うことのできる者ではないか? そうでなければ, すべての夢の帰結をあらかじめ計画し計算できる者ではないか? その者ならたしかに永遠の時間にあり, 永遠にチェスをしていてもおかしくはない.... 鏡の国は基本的にそのような時間のうちにある. 鏡の国は, 夢なのに計画がある (キャスル, チェック). 抑圧の形式としての言語に住みついている我々にとって, 夢の時間割は常に裏切られるためにしかないはずなのだが, 鏡の国では常に理性の眠り (理性という眠り, 赤の王様の眠り) が冒険に随行し, チェスの計画的進行が保証されている. しかし, 「不思議の国」で, 兎穴に飛び込んでしまい, 後のことをまったく考えなかったアリスはどうなるのか? 彼女にマーマレイドを棚に戻させた, 「だれか下にいる人を殺してしまうといけないという恐れ09」は二次的なものでしかないことになってしまうのか? 論理の措定の前にあって, にもかかわらず書かれてしまった「第1部」を放棄できるだろうか?

 しかしドゥルーズはこうした論理を「意味の論理」から除外し, その倒錯を「分裂病者」アントナン・アルトーに担わせて差別化する. 有名な第13連「分裂病者と少女について」だ. ドゥルーズはアルトーとキャロルのどちらをより擁護するというのではないが, アルトーは表面の破壊, 深みそのものであり, キャロルは表面の主人であり測量士であって, 二者の間に共約可能性はまったくない, とはっきり書いている10. そうだとしよう11. ドゥルーズのいう「意味の論理」とアルトーの作品との間に共約可能性がないという意味でならこのことは正しい, としよう. じつはアルトーは「鏡の国」をキャロルの論理と解しこれを攻撃したのであり, 「不思議の国」の対決的解明には実際は向かわなかったというすれ違いについてドゥルーズが全く触れずに, にもかかわらず「不思議の国」の冒頭部分とアルトーの間に「深み」という共通項を見て取っていることも, 留保することにしよう (なぜならドゥルーズはそれを共通ゆえに「意味の論理」から最終的には排除するのだから. この点については後述). それに, 論理の起源を求めシニフィエに帰着する論理を壊乱するためにシニフィエとシニフィアンの2方向に拡散していくものとして「意味の論理」を提出するドゥルーズの作業は, 決して否定できるものではないことにも留意しておこう. しかし, こうした留保を付しても, 疑問は依然として残ってしまう—この「意味の論理」がキャロリング朝に奉仕する論理でないと言えるだろうか? 「だれか下にいる人」は生き延びているか? アルトー以外に12

 まず, 庭師の意見を聞いておく. それから猫の扱いかたを再検討し, その後で鼠の言葉に耳を傾けよう.




「不思議の国」の庭師たちが平らだったことは, マーティン・ガードナーに至って, 無意味なこととは言えなくなった. 平らとは何か? それは, 3次元において左右の対称性を説明するために導入される装置である. 2次元なら直線である.

 偶然ではない. ガードナーは対称性をめぐる様々な科学的議論を紹介した書物『両手利きの宇宙』を1964年に出した. 数度の改訂を経て, 最新版は『新たな両手利きの宇宙』として1990年に出されている13.

 さてこの書物において彼は, 左右とはどういうことか, 対称とは何なのかを説明するにあたって, まず「直線国」の「直線人」を登場させる. 直線国というのは1本のいわゆるユークリッド幾何学の直線である—

[...] この直線上に直線人と呼ばれる原始的な人種が棲息していると想像してほしい. 男性の直線人は長いダッシュであり, 一端に目がひとつついている (これは黒点で表される). 女性の直線人はそれより短いダッシュであり, やはり一端に目がついている. 直線人は大人になるまで目が発達しない. 子供はただの短いダッシュで, 目がない14.

 この直線国に垂直に鏡を立てる. そうすると鏡像が映るわけだが, 直線人の子供はそのまま向こう側におこなっても同一である. これが対称ということである15. これがガードナーの説明だ. 直線国から出ることなしに反転されうることが直線人にとって対称のもつ意味である. もちろんその通りだ. 問題はそこにはない. 問題は対称の規定ではなく, 非対称の規定である. 非対称性は, 対称性への還元可能性によって規定される—

もちろん我々は, 彼 [大人の直線人] をひっくり返して彼の鏡像とぴったり合致させることができる. しかしそうするには, 彼を直線から取り出して, より高次の次元を, すなわち2次元の世界を通過させなければならない. 大人の直線人は, 高次の空間に入らなければ自分の鏡像と重ねられることはできないので, 我々は, 彼の形象を非対称だと言う16.

 この一節が言っているのは単純なことだ. 1次元において非対称なものとは, 2次元以上の場においてはじめて対称となるもののことである, ということである. これはさらに, 「n次元において非対称なものとは, n + x 次元においてはじめて対称となるもののことである (x ≧ 1)」へと容易に拡張されるだろう. 事実, 次いで「平面国」の「平面人」が扱われるが, 2次元において非対称な彼らは, 3次元においてのみ対称となるものだ, と説明される. もちろんそうすると, 我々の3次元において非対称なものは, 4次元においてのみ対称となるものだ, という推論が成立する. もちろん正しくは, 相対的な高次元においては非対称は対称になるというよりは非対称性そのものが無化される, と言ったほうがよいのだろう. というのは, 新たに付加される座標にはいかなる値も与えられていない以上, それを対称とか非対称とか言うわけにはいかないからだ. いずれにせよここで問題なのは, 非対称性そのものが, 非対称性を自ら提示する次元のみにおいてではなく, より高次の次元の論理を援用することによって提示されている, ということである. 整理すればこうなる. 対称性とは, ある次元において自らの鏡像を生産する能力のことであり, 非対称性とは, より高次元において自らの鏡像を生産する能力のことである.

 このようにして, すべての事物は鏡像を生産する能力を付与されることになる17. 鏡像を自らの可能性として保持することが, (意味の) 論理の課す厳命である. 論理の世界は, 化学の世界同様, ラセミ体に満ちている18. 左向きの命題があれば必ず右向きの命題もあり, 一方に偏向している場合には, より高次の論理によって対称性を遡行的に回復しなければならない. たとえばガードナーは, 生物界では多くの場合光学異性体が一方しか存在しない (つまりラセミではない) ことを強調した上で—この事実の強調とそれを研究したパストゥールの業績の強調は正当に思えるのだが—, このような偏向が生じた原因を説明する仮説をやはり紹介してしまう (ちなみに今のところ原因ははっきりわかっていないようだ). つまり, 「なぜ非対称なのか?」(「なぜ対称ではないのか?」) という問いが絶対的なものとして課されてしまうわけだ. たとえば彼は, 確率論における理論と効果の不一致に依拠することによって, 生物を構成するタンパクその他の化合物が当初から左右の光学異性体を等量ずつもったのではない, という推論を立てることに好意的である. この推論の場合, 量的に優勢なタンパクを構成要素とする原始的生物が生存と進化の過程で量的に劣勢なほうを駆逐した, と述べられることになるのだが, その議論の基盤は次のようなものだ—

[...] 突然変異がなくとも, 一方の旋光性を持った分子が自分の鏡像よりも繁殖するというのは可能である. ペニーを100回投げる場合, 表がちょうど50回出て裏がちょうど50回出るというのは, ごくありそうもないことだ. これと同様に, 非対称性をもった化合物が大量に形成された時に, 右旋体の量が左旋体の量とちょうど同じになったというのは, やはりありそうもないことだ19.

 ここでもやはり, 非対称性を対称性に還元する運動が確認できる. この場合は, 起源への理論的遡行の運動が基盤となっている. たしかにガードナーは, 「弱い力」が根源的非対称性の一種の受容器として作用するという興味深い仮説を執拗に維持してはいるが20, いずれにせよ問題なのは, 後から措定された起源へと遡行することが, 特に条件のない場合 (たとえばパリティの保存する場合) には理論上必然的に対称性を前提してしまうということである. すなわち非対称性はここでもまた, 一度は対称性の場を経由しなければ思考することはできないものとされているわけだ.

『不思議の国』の3人の庭師は数字のカードである. 王と女王とその取り巻きの到着とともに, 彼らは仕事 (起源における偏向を修正する—白薔薇を赤く塗り替える—仕事) をやめて這いつくばり, 女王に「ひっくり返せ」と命じられたジャックによって表にされる. このことは彼らの対称性を明らかにしている. 彼らは対称なのでひっくり返してもそのままである (トランプでは数字カードはすべて対称性をもっている). 彼らは女王に処刑されかかるが, アリスの機転により生き延びることができた—そしておそらく, 彼らは論理となって『鏡の国』にたどりつき, さらにはキャロリング朝で庭師兼宰相として実権を握る男として具現化されることになるのだろう. 庭師は非対称なもの—原初的錯誤—を「表面」的には擁護するが, 自ら招いた起源 (「深み」) への道行きを通じて, 深みを深みとして遡行的に措定し, これを排除しようとする.

 その排除の過程がどのようなものなのかを, 猫のないうすら笑いを例にしてたどってみることにしよう.

 だが, じつはこれは単なる例ではない.




「猫うすら笑い」については, 冒頭ですでにキャロリング朝の複数の公式見解を引用しておいた. これは必ずしも対称性に依拠した解釈ではなかった. ところで, 「猫のないうすら笑い」となると, 問題は明瞭に立ち現れてくる. そもそも, ルイス・キャロル自身もこう書いている—

 今度はそれ [猫] は相当にゆっくり消えた. 消滅は尻尾の終わりからはじまってうすら笑いで終わったが, これは残りが行ってしまってからもしばらく残っていた.

「まあ! うすら笑いのない猫ならよく見たことがあるけれど」とアリスは考えた. 「でも, 猫のないうすら笑いなんて! こんなにおかしなものを見たのは生まれてはじめてだわ21!」

 キャロルの「表面」的記述にしたがえば, ここで現れている「こんなにおかしなもの」は, 統辞的規則を保存しつつ主体と賓辞を置換する論理的操作によって生産されている. 「うすら笑い‐のない‐猫」←→「猫‐のない‐うすら笑い」, というわけだ. ガードナーも, この操作に見られる論理的感覚に注意を喚起することを忘れない.

「猫のないうすら笑い」という句は純粋数学をかなりうまく言い表している. 数学の定理は大抵の場合, 外界の構造に有用に適用されうるものだが, 定理自体は抽象であり, これは「人間のパトスから離れた」別の王国に属している, とバートランド・ラッセルは, 記憶に残るある一節でこの句を引用している [...]22.

 論理学の感覚とは, この論理に従えば, 感覚の論理でもある. ドゥルーズは, すでに引用した一節においてガードナーの意見を一般化していた. 彼はチェシャ猫をこうした論理の創設と統御の象徴として措定していた. 猫は象徴的なものを象徴する.

 猫は良い対象, 良いペニス, 高みの偶像であり高みの声である. 猫はこの新たな措定のずれを体現する. [...] 猫は現前している, あるいは不在だ. というのもうすら笑いだけを残して消えてしまうからであり, この良い対象のうすら笑いから発して自己形成する23.

 この意味の論理は, 対称性への執着によってこの逆説的光景が導かれていることを疑わない. キャロル自身がそのような提示をおこなっているのだからなおさらだ (繰り返すが, これがキャロリング朝だ). しかし, 2, 3の徴候を痕跡として指示することによって, キャロルのテクストそのものから発してこの対称性の論理に揺さぶりをかけることができるかもしれない.

 猫の消えかた. 尻尾の終わりから消えはじめて最後にうすら笑いが残るが, キャロルのテクストにおいては「尻尾の終わり end of the tail」は常に「話の終わり end of the tale」である. このことを, 結末が消滅することによってうすら笑いが残余として現れる, と考えると, 双方向に等価な時間 (高次元) を設定する「意味の論理」とは相容れない様相がここに確認されることになる. つまり, 「うすら笑い‐のない‐猫」を時間的に逆転することで生産されたはずの「猫‐のない‐うすら笑い」は, じつのところ物語の帰結という時間軸の一端を欠く場に (つまり時間の純粋な逆転を拒否する場に) 到来しているわけだ. 幾分の形象を用いて整理してみよう. 『不思議の国のアリス』は, チェシャ猫ないしうすら笑いの出現によってはじめて意味の論理を措定する. しかし同時に, このうすら笑いめがけて, 意味の論理の王国は物語の尻尾から消滅しはじめ, 消滅はちょうどこのうすら笑いの光景にまで達し, 二者—措定と消滅—がここでせめぎあう.

 猫は原抑圧の舞台である.

 この徴候分析は言葉遊びだろうか? たぶんそうだろう. しかし, それほど無根拠でもない. というのは, 「猫のないうすら笑い」の翻訳可能性を問うことで, この光景が別の仕方で舞台にあげられたのかもしれないことを痕跡づけることができるからだ.

 もし「猫のないうすら笑い」が本当に「純粋数学をわりにうまく言い表している」ような「数学の定理」によって構成されているのなら, つまりそれが「対象 = x」なら, 翻訳可能性は定義上保証されている. 数学ないし論理学の定理は普遍言語を志向し, 固有語の孕む問題をはじめから除外するものだからである. しかし, これは翻訳されるがままになるのだろうか? むしろこの翻訳可能な「定理」は「うすら笑い」を意味の論理に還元するために発明され, 読解の場のイデオロギーを構成するものなのではないか?

 アンリ・パリゾはキャロルのフランス語への翻訳を数多く手がけた人物である. アルトーが『ロデーズからの手紙』でキャロル批判を表明したのも彼に対してである. アルトーはキャロルの言語活動について, とりわけ「ジャバーウォッキー」についてパリゾにこう言っている—

 私は, 幸福な余暇や知性の成功を漂わせているような表面的な詩や言語活動が好きではない [...]. 人は, 自分の言語を発明して, 文法外の意味をもった純粋言語に語らせることができるのだが, その意味は即自的に価値があるのでなければならない, つまり, その意味は苦悶から発しているのでなければならない [...]24.

 これが「ジャバーウォッキー」に対してなされた批判であることに注意しなければならない. 彼はこの批判がキャロルに対する一般的批判を構成するものと考える. 『鏡の国のアリス』の第6章の翻案の試みが「ルイス・キャロルに抗する反文法的試み」と副題を付されるのはそのためである. ドゥルーズがキャロルを評価する時におこなった操作は, この一般化 (「ジャバーウォッキー」はキャロルを代表しうる) を保存しながらなされるものであり, それはアルトーの見解の部分的修正という形を取る. それは端的に言えば, 「表面」の論理, 意味の論理というものは, そもそも「純粋言語に語らせる」にしても, 言表を生産する者が自ら純粋言語として語るのではありえない, ということだ. アルトーの場合はそうだ. 彼の場合は純粋言語がそれ自体, 「深み」である自分に他ならない. キャロルの場合は, 言説の構成をおこなう者は精神分析の対象ではなく, 彼は言説を構成しながら, 分析の場を測量する者となる. 場そのものにはならない. —これがドゥルーズの留保であり, これによって「対象 = x」という定式が説明されうることになるのだが, じつは問題は, すべての前提になっている「ジャバーウォッキー」の一般性の是非が問われるという形で議論が構成されることがないということなのだ.

 たとえばアルトーは, 誰もが読みうるテクストを書いた, と主張する—

[...] 私は1934年に [...] ある書物を書いたが, それはフランス語ではない言語で書かれていて, にもかかわらず, どこの国の人であれすべての人がこれを読むことができた25.

 これは「言語の内部的消費」を実践するものと考えられていた. これは普遍言語の志向ではない. なぜなら, この消費においては, 操作可能な概念としての「対象 = x」が措定されることはないからだ. すべての人はそれを「読むことができた」のであって, 「理解することができた」わけではない. 「一挙に噴出する」この言表を, 固有語であるにもかかわらず一切の固有性を奪われたものとしてとらえることは, 理解力の拡張によってではなく, ある意味ではその減退によって可能になる. そして, これがキャロルに欠如したものだ, という点ではアルトーとドゥルーズの間には相違はない. つまり, こうした, 理解力 (意味の論理) の減退にもとづく言語活動がキャロルにあるかどうかという問いは, はじめから議論のなかで抹消されている. なぜなら, 「ジャバーウォッキー」を一般化するところに出現するキャロリング朝では, 一切の逆説は対称性によって説明されることができるからだ.

 これはアルトーがパリゾにキャロルの拒絶のために提示した批判だ. これに対してパリゾはどうしたか?

 彼はキャロルを翻訳することでこれに応えた. たとえば, 「猫のないうすら笑い」のくだりだ—

«Ma foi!» pensa Alice, «il m'était souvent arrivé de voir un chat sans souris (ou sourire); mais ce souris de chat sans chat! c'est bien la chose la plus curieuse que j'aie contemplée, de ma vie26

 仮にこれを訳せば—

「まあ!」とアリスは考えた. 「鼠 (うすら笑い) のない猫ならよく見たことがあるけれど, でも, 猫のない猫のうすら笑いなんて! こんなにおかしなものを見たのは生まれてはじめてだわ!」(強調引用者)


 原文では, 「うすら笑いのない猫ならよく見たことがある I've often seen a cat without a grin」とあるだけだ. なぜ鼠なのか?

 同じ歪曲はもう1箇所に確認できる.

«Voudriez-vous, je vous prie, me dire», demanda Alice [...] «pourquoi votre chat sourit comme il le fait?»

«C'est un chat du Cheshire, voilà pourquoi», répondit la Duchesse.[...]

«J'ignorais que les chats du Cheshire sourissent continuellement; je croyais les chats ennemis du ris et des souris; à vrai dire même je ne les savais pas capables de sourire27

 これも仮に訳せば—

「申し訳ありませんが, お教えいただきたいのです」とアリスは訊いた [...].「どうしてあなたの猫はそんなふうに笑うのですか?」

「チェシャ猫だからだ」と公爵夫人は応えた.

「チェシャ猫がいつも笑っているとは知りませんでした. 猫は笑いと鼠の敵だと私は思っていました. じつのところ私は猫が笑うことができるということさえ知りませんでした.」(「できる」を除いて強調引用者)

 原文には「猫は笑いと鼠の敵だと私は思っていました」という文はない! こんな恣意が翻訳者に許されてよいのか? ところで, じつはこのくだりについては, パリゾ自身の釈明が残されている.

 ここでは, 多義性のない統辞に達さなければならないという配慮が, 英語テクストにはない言葉遊びを我々に課した28.

 これは, 「うすら笑いのない猫ならよく見たことがある il m'était souvent arrivé de voir un chat sans sourire」というだけだと, 「うすら笑い sourire」が「うすら笑いする sourire」とも解釈でき, その場合には「うすら笑いせずに猫を見たことならよくある」という意味になってしまうからこれを回避しなければならない, ということだ. しかし, これを文法的に回避する方法がないはずはない. 何よりもまず, この釈明だけでは後者の事例の正当化にはならない. これは絶対に鼠でなければならなかったのではないか?

 私の仮説は, パリゾのこの言語遊戯が, アルトーによるキャロル批判に対する暗黙の回答だったのではないか, というものだ. この鼠は, アルトーの拒否する「表面」の言語活動を食い荒らし, 対称性に依拠した「意味の論理」的解釈をうすら笑いを浮かべながら壊乱し, 「良い対象」を取り込んだ主体が鏡像的遡行をおこなうことを禁止し, キャロリング朝に内乱を持ち込む. もちろん, この仮説はある意味では憶測にすぎない. この言語遊戯がアルトーに宛てられているかどうかなどという逸話的問題は, じつのところ問題ではない. にもかかわらず私がここで鼠の出現を注視するのは, 鼠はここで「うすら笑い」に抹消される形で, 他言語を経由して, 象徴化 (言語活動) の場を標示しなおしているからである. 「猫」ないし「うすら笑い」は象徴的なものの象徴とされているが, 鼠はこの核心で再標示化を絶えずおこない, それによって, 象徴的なもの一般の上に非対称な抹消線を記す.

 パリゾの言語遊戯はこのような形で, 見えないはずのものをよみがえらせている. 対称なもののなかに抹消されずらされた非対称なもの—猫のない鼠. だが, これだけなら鼠はパリゾの創意になるものかもしれず, 鼠がキャロルのエクリチュールの可能的条件である (したがって言説の壊乱の条件でもある) とはっきり結論することはできないだろう. しかしじつは, 鼠を痕跡づけることで, パリゾの翻訳はまったくの恣意ではなく, 意識的であろうとなかろうとキャロルのエクリチュールの分析の必然的帰結だったことになる, とも主張する可能性に到達できるかもしれない....




 鼠とは, 対立的・相対的・否定的な実体である. 一言で言えば, それは「猫に食べられる者」である. 『不思議の国のアリス』の冒頭 (ドゥルーズのいう「第1部」) は, キャロリング朝という書物に付される, 長く不可能なインキピート (書物外の書物) としてとらえることができる. この舞台に, 舞台を統御することなく現れるのが鼠である.

 まずは, 兎穴での転落のただなかでアリスが飼い猫ダイナの餌の心配をする思弁的光景に鼠が現れる—

「[...] 私のダイナ! おまえが一緒に落っこちてきていればいいのに! 空中に鼠はいないだろうけど, 蝙蝠はつかまえられるでしょ, それに蝙蝠は鼠によく似ているものね. でも, 猫は蝙蝠を食べるかな?」 ここでアリスはひどく眠くなってきて, 自分を相手に夢見心地で言いはじめた. 「猫は蝙蝠を食べる? 猫は蝙蝠を食べる?」 時には「蝙蝠は猫を食べる?」と言ったけれど, おわかりのとおり彼女はどちらの問いにも応えられなかったので, ちゃんと言おうがあべこべに言おうが一向に構わなかった29.

 このくだりに対する「意味の論理」の側からの解釈は, 「猫 cat」と「蝙蝠 bat」との類似にまずは注意を喚起し (このくだりはそもそも構造言語学においてほとんど範例的な例としてしばしば引かれる), それにしたがって, 命題の鏡像的な形成を確認する. 「猫‐食べる‐蝙蝠」←→「蝙蝠‐食べる‐猫」, というわけだ. ここにおいて, ガードナーのいう「純粋数学の定理」がまたも顔を出す. しかし, これが単に音素の類似にしたがって形成された言語遊戯であるのなら, たとえば「鼠 mouse」ではなく「大鼠 rat」を導入することでこれを補強することもできたはずだ. 何が問題なのかというと, このような「意味の論理」にしたがった解釈では, 「蝙蝠は鼠によく似ている」というアリスの言明に根拠が与えられない, ということである.

 これにはおそらくふたつの根拠が憶測として提示できるだろう. いずれもが, 痕跡としての鼠の形象を擁護してみせる立場に貢献するものだ. ひとつめは, 形象としての「蝙蝠」(鳥でもなく獣でもない) が, 猫に否定される存在としての「鼠」の否定的様態を表象している, という解釈だ. これは説得力に欠けるかもしれない. ふたつめは, 固有語からの逸脱を要請する解釈だ. ちなみに該当箇所をパリゾはこう訳している—

Il n'y a pas de souris dans les airs, je le crains, mais tu pourrais toujours attraper une chauve-souris, et cela ressemble fort, vois-tu, à une souris30.

 したがって, 文字どおり「蝙蝠 chauve-souris」は「鼠 souris」に似ている, というわけだ. しかし, この解釈にも恣意的な要素があることは, これだけでは否定できない. 「うすら笑い」を「鼠」と読んだパリゾに恣意が確認できるように, ここでは言語の選択に恣意が確認できるだろう. そもそもなぜフランス語なのかという問題は依然として残るだろう. たとえば同じような例として, 白兎の家で林檎を掘っているパットの逸話に関して, 「林檎 pomme」と「馬鈴薯 pomme de terre」の類似が関与しているのではないか, という憶測などもある. しかし, こうした憶測は決定的な主張にはなりえないし, にもかかわらず言説の起源へと遡行する身振りをとる以上, 警戒しなければならない (ちょうど, 光学異性体の分離の起源に関するガードナーの憶測が, 確率論の曲解という疑似科学的根拠に基づいているように). しかし, じつは「鼠」とフランス語は無縁ではまったくない.

 鼠はアリスが「不思議の国」ではじめて出会う者である (白兎には地上ですでに会っている). 白兎は, アリスと会話を交わす以前に, 英語 (固有語) を話すことを独り言によって明らかにしている. 彼はしたがって, 動物でありながら, むしろ論理への導きの糸のようなものだ. それに対して鼠は, アリスが他者との交流の可能性をはじめて賭ける対象だと言える.

 アリスは考えた. 「この鼠に話しかけて何か役にたつかな? この下では何もが度外れだから, こいつがしゃべれるというのもありそうなことね. いずれにせよ, やってみてまずいということはないわ.」 そこで彼女は始めた31.

 鼠がしゃべれるのはありそうなことだ, とアリスが考える時, ある意味では彼女は鼠を固有化しようとしているように見える. 彼女の了解する言語活動のなかで他者との交流の皮切りをしようとしている以上, こうした見解もあながち否定できない. しかし, 彼女の呼びかけは, 呼びかけであるということを意識しながらでなければなされない, ということに即座に注意しなければならない.

 そこで彼女は始めた. 「おお鼠よ, この水たまりからどうすれば出られるかお前は知っているか? 私は泳ぎまわるのにとても疲れてしまった, おお鼠よ!」(これが鼠に話しかける正しいやりかたにちがいないとアリスは思った. こんなことは今まで1度もやったことはなかったが, 兄さんのラテン語の文法書に「鼠は—鼠の—鼠に—鼠を—おお鼠よ!」とあるのを見たことがあるのを憶い出したのだ32.)

 言語行為は, 固有語から身を一瞬でも引き離すことが皮切りとなって思考されはじめる. ここでも, 他者に話しかけるすべをもたない者が, 言語行為において言語行為「ごっこ」をすることで, 交流の糸口をつかもうとする. しかし, この呼びかけを鼠は理解したようでもあり理解しなかったようでもある. 「鼠は詮索するように彼女を見て, 小さい目で目配せをしたように思えたが, 何も言わなかった.」 理解に対する真の疑念とは, 他者に理解されていないかどうかさえわからないということである. アリスの交流の賭けからは「自分が相手に確実に理解されていない」というたぐいの保証が奪われている. 相手はもしかしたら固有語の内部で了解をおこなう者かもしれない.

「たぶんこいつは英語がわからないんだわ」とアリスは考えた. 「きっとこいつはフランス鼠で, ウィリアム征服王と一緒にやってきたのね.」 [...] そこで彼女はもう1度始めた. 「Où est ma chatte?」 これは彼女のフランス語の教科書の最初に出てくる1文だった. 鼠は突然水から跳びあがり, 恐怖で体じゅうをがたがたと震わせるように思えた. 「あっ, すみません!」とアリスは急いで言った. この哀れな動物の感情を傷つけたのではないかと思ったのだ. 「あなたが猫を好きではないってことをすっかり忘れていました.」

「好きではない, だと!」と鼠は叫んだ [...]33.

 ここでようやく交流が成立するのだが, 結局のところ鼠との交流は最後までねじれたままに終わる. そもそも, この鼠がイギリス鼠なのかフランス鼠なのかも明らかではない. (おそらくは, アリスの考えるように, ウィリアム征服王と一緒にフランスから渡ってきた移民なのだろう. ずぶぬれの動物たちを乾かすために鼠が話しはじめる「ドライな」話は, 征服王をめぐる叙事詩的・歴史的記述だ.) 帰属のはっきりしない彼は, 翻訳されるがままにならない. にもかかわらず, 翻訳によって生き延びる. 普遍言語 (普遍的な固有語への閉塞) の構想から逸脱し, それによって常に, 普遍的なもの (象徴的なもの) の象徴である猫に脅かされ, 食い殺され, にもかかわらず, 執拗に鏡像的論理・対称性の論理を壊乱すべく, 至るところに外国語の痕跡としてよみがえる.

「だれか下にいる人」とは, そう, 鼠だったのだ. たぶん.



注 :

01. Lewis Carroll, Alice's Adventures under Ground (facsimile), 書籍情報社, 1987, p 21.

02. Martin Gardner (ed.), The Annotated Alice, Penguin Books, 1960 (1970), p. 83. 引用中に言及のあるグリーネイカーの研究というのは以下. Phyllis Greenacre, Swift and Carroll : a Psychoanalytic Study of Two Lives, International UP, 1955.

03. M. Gardner (ed.), More Annotated Alice, Random House, 1990, p. 72.

04. Cf. Ken Oultram, «The Cheshire-Cat and Its Origins», in Jabberwocky, Winter 1973.

05. Hélène Cixous, «Introduction», in Lewis Carroll, De l'autre côté du miroir suivi de La Chasse au Snark, Aubier-Flammarion, 1971, p. 13.

06. Gilles Deleuze, Logique du sens, Minuit, 1969 (UGE, coll. «10/18», 1973), pp. 17–18.

07. Ibid., pp. 325–327.

08. Ibid., p. 8.

09. M. Gardner (ed.), The Annotated Alice (op. cit.), p. 27.

10. G. Deleuze, Logique du sens (op. cit.), p. 124.

11. ただし, これに対する, アルトー解釈の側からの批判もある. それは, アルトーは比較的キャロルに忠実であり, また分裂病者でもない, という主張だ. Cf. Paule Thévenin, «Entendre/voir/lire», in Antonin Artaud, ce Désespéré qui vous parle, Seuil, 1993, pp. 197–210.

12. なお, 『不思議の国のアリス』における「深み」を擁護するのがこの論の目的ではない. それは深みとは呼べないものかもしれない. いずれにせよそれは「意味の論理」によって見えなくされているものであり, 「書きはじめ」という不在の場をテクスト内に散種する作用ではある. ただし, それは起源ではない. なぜなら, 以下に述べるように, ある単一の固有語からの逸脱が常に標示されるからだ. 「深み」のような「起源」は, むしろ, 表面的なものの構成の後に, その効果として遡行的に発明される.

13. M. Gardner, The Ambidextrous Universe, Basic Books, 1964; The New Ambidextrous Universe, Freeman, 1990.

14. M. Gardner, The New Ambidextrous Universe (op. cit.), pp. 7–8.

15. この論文ではガードナー同様, 「対称」と言う場合は線対称だけを指し, 点対称などは除外する.

16. M. Gardner, The New Ambidextrous Universe (op. cit.), p. 8.

17. 本論では扱わないが, 『(新たな) 両手利きの宇宙』の後半ではパリティ保存の崩壊が語られる. これは非対称性それ自体の称揚と見えるし, ガードナーもそのようなものとしてこのスキャンダルを報告する. 彼によると, パリティが保存しないとは, 我々の世界は右と左とを (つまり非対称性の効果を) その次元内で名指す能力を持っている, ということである. 同様に, たとえば単極子の存在の可能性や「弱い力」(物理の場の統一理論で言われる「相互作用」のひとつ) の可能性も, 非対称性自体の効果の可能性として提示される. しかし, その場合でさえ, おそらくは高次の次元の介入によって鏡像が生産されるだろう (彼は時間の流れの反転した世界を構想する). ここでの非対称性は, 科学の漸進的組織化に貢献する限りでの否定性に転落する危険を常に担わされている.

18. ラセミ体とは, 旋光性のある「左向きの分子と右向きの分子が等量ずつ入った混合物である.」(M. Gardner, The New Ambidextrous Universe (op. cit.), p. 117.) ラセミ体は左右の旋光体が旋光性を打ち消しあうので, 旋光性をもたない.

19. M. Gardner, The New Ambidextrous Universe (op. cit.), p. 150.

20. Cf. ibid., p. 139. 「第22章で我々は, 粘土から結晶質の遺伝子が発達するのに, 非対称な弱い力が荷担していたかもしれない, という推論に出会うことになるだろう.」 この仮説—つまり場の統一理論のいう「弱い力」が作用して生物が生まれたというもの—は興味深いが, 第22章ではこの仮説をめぐる明確な議論は展開されていない.

21. M. Gardner (ed.), More Annotated Alice (op. cit.), p. 81.

22. M. Gardner (ed.), The Annotated Alice (op. cit.), p. 91.

23. G. Deleuze, Logique du sens (op. cit.), p. 326. なお以下も参照. 「ルイス・キャロルは以下の諸逆説について驚異的な考慮をおこなっている. まず, 中性化作用をもつ二分化の逆説のほうは, 猫のないうすら笑いという形象をとる. 同様に, 増殖作用をもつ二重化の逆説のほうは, 歌の名に新たな名を与え続ける騎士という形象をとる—アリスの様々な冒険を形成する二次的逆説の一切はこの二極端の間にある.」(G. Deleuze, Différence et répétition, PUF, 1972, p. 203) また, 『差異と反復』の末尾には謎めいた書誌があり, キャロルの項には「問題, 意味, 差異 (対象 = x)」と注記があるが, これは, 良い「対象」が論理的定理「x」によって象徴されて取り込まれる, という意味である. その「x」の象徴が猫だ (彼は猫とうすら笑いを区別していない).

24. Antonin Artaud, Œuvres complètes, t. IX, Gallimard, 1971 (1979), pp. 169–170.

25. Ibid., p. 171.

26. Henri Parisot, Tout Alice, GF-Flammarion, 1979, p. 146.

27. Ibid., pp. 139–140.

28. Ibid., p. 421.

29. M. Gardner (ed.), The Annotated Alice (op. cit.), p. 28.

30. H. Parisot, Tout Alice (op. cit.), p. 45.

31. M. Gardner (ed.), The Annotated Alice (op. cit.), p. 41.

32. Ibid.

33. Ibid., pp. 41–42.