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書窓の隙間
創作 Novelle

 

失われた世界



 八歳の時、私の世界は滅びました。――突然の言葉はわたしを驚かせた。表情は穏やかでいつもと違う昂ぶりを全く感じさせなかったが、彼女の目の中に仄かに閃く真摯をみとめて、わたしのなかで何かがすっと扉を開いた。



 ツィプスという名の世界はもう存在しません。一九四四年の九月二六日。パルチザンが私たちの家に押し入ってきたその日、たまたま私たちはツァコパネ行きのバスに乗せられてケスマルクの町を離れたのです。兄のクルトは、愛読のブロックハウス全四巻を担いでいました。私の学校鞄(ランツェン)は、母が煙草と配給の蒸留酒(ボロヴィツカ)を詰め込んで、はち切れそうでした。逃走ではなく、ドイツ国防軍の命令にによる疎開だったのです。再帰を期待しての人的資源の確保だったのでしょう。一九四四年にはまだ、ヒットラーの特殊兵器と最終決戦が期待されていましたから。疎開させられたのは国民学校、女学校、そしてギムナジウム。私の母は、赤十字の制服のおかげで、私たちに同行できました。父がツィプスを離れたのは、一九四五年の一月になってようやく。撤退する最終部隊に医師として伴い、ワッハウの宿泊所で私たちを見つけました。

 その後すぐ、四月にロシアがウィーンに入ったとの知らせで、私たちは更に移動することになりました。曳舟に乗せられてドナウを遡りました。子供が二百人と大人が三十人。一週間の間、私たちは服を着替えることも、身体を洗うこともなく。食事は、碾割の燕麦と、生のままか焦げたエンドウ豆ばかり。敵機が低空で攻撃してきたときには、大急ぎで岸に寄せねばなりませんでした。幸い子供たちの一人も喪われなかった。バイエルンまで辿り着いて、ようやく上陸しました。――



 彼女の名はエリカ。初めて出会ってからまだ日も浅いのに、しかも留学生のわたしに、なぜそんな話を始めたのか。――東西ドイツの統一に民衆が湧いた時から数年を経て、報道は社会の不穏な動きを伝え始めていた。東海(オストゼー)近くの町シュヴェリンに始まった外国人排斥の暴動は、波打つように数カ所に伝播した。数年前は夜の散歩だって安心してできたのに、もう駄目だわ、とテレビ画面で女子学生が語っていた。わたしが暮らした街、レーゲンスブルクではいつもどうりに日々が過ぎて行ったが、国全体の空気の変化はこころなしか人々の顔を暗くしているように思われた。怯えはことに底辺層の人々に著しかった。外国に暮らし、寄留の立場に身を置いていると、社会の外れに居る人々の思いが不思議に伝わってくる。滞在も半年を経て、長い休暇の無聊を街の散歩で慰めている時など、声をかけてくるのはそんな人々。エリカもその一人。だが、彼女との出会いは思いもよらぬものだった。

 学部の締め括りに、わたしはドイツ社会の宗教事情を扱った卒論を書いた。大学院に進んで得た参与観察(フィールドワーク)の機会には、信仰に結ばれた人々の観察や聞き取りも計画していた。だが時折、礼拝を訪れたのには、知的な関心だけではなく、心に届く言葉に耳を傾けたいという希いもどこか働いていた。町外れのオスヴァルト教会は、ドナウ河に臨む立地と眺めが気に入ったし、観光客のお喋りに邪魔される大聖堂(ドーム)や主牧教会と違い、庶民的で素朴な雰囲気が良かった。古びてあちこち修繕が必要と見えたけれども。

 その日曜も思い立って久しぶりに礼拝に出かけ、会堂の端に隠れるように坐った。終?の鐘とともに帰途につこうとすると、呼びとめる声がする。しばらく姿を見ないので気に懸けていたと。今日は昼に人を招いているので、あなたも一緒に来なさい。それが、エリカとの出会いだった。断るきっかけを見いだせないまま後ろをついて行く。ドナウの川沿いに彼女の住居があった。一部屋だけの間取りは学生アパートと大差なく、家具も乏しく質素なもの。やがて調理を終えた魚を私の前に据えて、お魚は骨を取るのが難しいからよく見ておいでと。なんと日本人に魚の食べ方の指南かと思ったが、母親のように振舞うのが楽しくて仕方がないという彼女の仕草が、私の心を和ませた。

 実年齢よりも上に見えたが、彼女はわたしの母とほぼ同じ歳とあとで知った。介護のような仕事をしながら、自らも教会の世話を受けていた。姓名はエリカ・マルギータ・カウロヴァ。人との交際は乏しかったのだろう。乞われるままに数回の訪問を経て、エリカ、ノブオと互いに呼び交わす仲にはもうなっていた。その日は、彼女の休業日の訪問だったと思う。――



 疎開下の子どもたちの名は、ジェシカ、ガリナ、シュトラク、ミロシュ、クボウィク、ベドナリク、コスチュルツェヴァ、サシャ、ボツェク、……。――エリカの話は途切れなく続いた。――みんな、私と違って両親のもとから離れ、藁に眠る日々。見守りを欠いて誰もがすぐ不良になりました。宿営から次々と居なくなったのは、再び故郷に帰っていったのか。でもそこからもう一度逐いやられて、ロシアに行く者、あるいは両親とアメリカに移住した者も。彼らは、全員がドイツ人の子どもだったのではありません。でもみなツィプスの子どもでした。私にとって、ケスマルクの通りを歩いていた人々はすべてみなツィプス人。誰がスロバキア人で、誰がハンガリー人、またドイツ人だったかは分からない。皆が多かれ少なかれ三ヶ国語を話しました。村の人々のなかには、新高ドイツ語の方言、ポトクシュ語を話す人も居て、しかも発音は村ごとに違っていた。ケスマルクの通りではイディッシュ語も耳にしました。その人々が、私にとっては近い親戚だということを後で知りました。かつて彼らの先祖は十二世紀に、イディッシュ語が成立したというヴォルムスやマインツのあるライン地方からやって来たのかも知れません。

 私が生まれたのは一九三六年の五月二一日。チェコスロバキア共和国のケスマルク、ラヅス通り三〇番、とまだ覚えています。父三七歳、母二八歳でした。町の新教教会で洗礼を受けた。兄弟は二人、七歳のクルトと、三歳年下のアルフォンス。スロバキア人の乳母が私の面倒をみてくれていた。当時はチェコスロバキア国籍を持っていました(今は憲法でドイツ国民として保証されているそうです)。父は、ブタペストで医学を学び、ルーマニア領ルゴスの将校学校に通い、オーストリア・ハンガリー騎兵団の待機医師となった。母を分娩させた縁で母と結婚しました。母はブタペストのプロテスタント主義女学校で、料理や簿記など当時家事に必要なすべてを身に付けて一九歳で前の夫と結婚しました。クルトを産んですぐ二一歳で未亡人となり、生後数ヶ月でクルトが遺産として屋敷を嗣ぎました。

 故郷の町ケスマルクは、十三世紀に、スロバキアの漁師とハンガリーの辺境警護隊、そしてドイツ人居住者によって建てられました。一二六九年にドイツ人居住者に自治権が与えられ、一四世紀末にハンガリー王もとで王立自由都市となりました。十九世紀末には、五千人弱の市民のうち七割近くがドイツ人だったそうですが、戦争前には人口の増加とともにその割合は半数を下っていました。私は幾世代にも遡る祖先たちの記録や、三代前までの祖父母の写真を受け継いでいますが、その記憶は十七世紀の三十年戦争で途絶えて、それ以上は遡りません。 

 私自身の記憶は一九三九年に始まります。家の窓から通りを眺めることが好きな子でした。馬車の鞭の音が舗装に響くので鞭鳴街道と呼ばれていたその通りは、クラカウへと続き、東海(バルト海)とヴェニスを結ぶ幹線道路の一部をなしていました。あるときポーランドの戦隊が通っていくのを見ました。幾日も秩序だった仕方で兵士たちが通り過ぎて行き、帰るときは(そもそも帰れた者たちは)まばらでした。またいつだったか、ユダヤ人がこの通りに列を作って、徒歩で駅に向かって往きました。クルトの叔母の一人もその中に居て、その前後、家に葉書をよこしたそうです。彼女は、労働収容所に行くと思い込んでいて、どこであれ眠れるベットはあるはずと書いていました。私が見たのは確かにユダヤ人だったと思うのですが。いずれにせよ私は、女友達ズージの家の裏庭に、ある午後、布団やミシンが並べられ、運び出されるのを見ました。私は久しく、自分の両親が「アーリア化」と称して何も奪わなかったのを誇りに思っていました。でも、その理由は後になって初めて分かりました。彼ら自身も、危うく彼らの家(それはクルトが受け継いでいました)も、クルト自身をも失うところだったのです。

 私の父方には二組の祖父母がいます。クルトの父は代々医師を嗣ぐユダヤの家系に属し、ツィプス医師協会の最後の会長を務めました。その早世(敗血症だったそうです)の後、二年後に家業を継いだのが私の父でした。疎開前の二年間、両親の困難は大きかったと思います。次兄のアルフォンスは一二歳で、アドルフ・ヒットラー学校に行きたがりましたが、幸い立ち消えになりました。クルトはニュルンベルク法で半ユダヤ人と規定されていました。両親は彼のためにユダヤ人税を払ったうえ、ドイツ精神のもとに教育すると宣誓し、彼が拘留されぬように苦労していたのです。戦争の混乱で、長男の出自は曖昧になると期待していましたが、数年後その通りになりました。クルトの叔父の一人が、一九三四年の収容所収監を間一髪で逃れカナダに暮らしていて、一九四六年に居留地を探し出して食料を送ってくれなかったら、私たちは餓死していたかもしれません。

 母方の家系は、地の産品としてツィプスを象徴した亜麻産業に携わっていました。祖父は、ロプスで先祖代々、亜麻を植え付けてきた家に生まれ、親戚には亜麻を青く染める業者もいました。曾祖母の代には、農家の娘たちが冬の農閑期に亜麻布を織ったそうです。ケスマルク唯一の亜麻布製造工場も近縁者の所有でしたが、祖父は六頭立ての馬車で製品をマルマロッシュに運び、そこでトカイエの酒と煙草を仕入れて帰りました。曾祖父もまたそのような運送業者で、宿屋や蒸留酒製造へも手を広げ、毎日七〇〇リットルを製造していたとか。そのために二〇ヘクタールの畑に馬鈴薯を作付け、酒の絞りかすで牛も育てていました。それらはみなウィーンに運ばれました。そのようにして彼らはツィプスの繁栄に貢献しましたが、鉄道が導入されて運送業者は没落しました。チェコが私営産業を廃止させたとき、蒸留所も営業停止となりました。

 ケスマルクの学校に、私は二年間通っただけです。三年生になれば、スロバキア語を習うはずでしたが、三学年に上がることはありませんでした。鍵盤楽器(クラビーア)の演奏も習うことができなかった。従姉のエファが来ると、私の部屋に置いてあったフリューゲルを弾きました。私にはそれがずっと妬ましかったのですが。学校へは毎日新しい前掛けをして行きました。男の子たちはみな刈り上げ頭で、裸足でした。小さな女の子たちの髪も刈り上げでしたが、それは髪の生育を促すためと蚤を防ぐためでした。母はそれがいやでたまらなかったといいます。それで私の髪には特別にウェーブをかけてくれました。教室にはヒットラーの肖像画が掛けられていた。地球儀も置いてあって、「帝国」は桃色に塗られていました。先生は、アフリカにも三つの植民地があると言ったけれど、ロシアやアメリカの方がずっと大きいと感じました。時々空襲のサイレンが鳴り、皆が地下室に急いだのですが、私は通りを越えて家に走ればよかった。私のお気に入りの窓から、通りを挟んだ向こう側に学校の建物が見えていましたから。

 私たちは両親とはいつもハンガリー語で話しました。父は「アパ」、母は「アニュカ」。兄たちは、年を取っても母の前でお辞儀をして「御手にキスを、アニュカ」と挨拶をしました。ハンガリー語では、家庭内でも上の世代に対しては敬称(「貴方」)を用います。私はほぼ毎日、母と外出しましたが、母は外で出会う人とハンガリー語で話していました。私は美辞麗句でいっぱいの会話をほとんどすべて理解しましたが、行儀良く黙っていなくてはなりませんでした。古い慣習が生きていて、何かを勧められても、六回は辞さなくてはなりませんでした。そのかわり、例えば誰かの洗礼父になると、その一家全員の保護を引き受け、困難を助けました。人々を結ぶ絆は強いものでした。母はよく、そうした縁の人々を訪ねましたから、私もついていって、彼らの庭で従姉妹や遠縁の子どもたちと遊ぶのを愉しみにしていました。庭から臨むことができる新しい景色を喜んで眺めました。

 そうした景色すべての後ろには、必ずテトラ山が聳えていました。雪を抱いた山稜は、私の心に残る第一のもの、忘れがたい眺めです。私自身は、その地に行くことはあまりありませんでしたが、兄たちはしばしば日曜に、カルパチア協会主催の遠足やスキーに出かけました。私は未だ小さくて着いていけませんでした。ようやく橇旅行の機会が巡ってきたとき、頭から転んで、従姉妹の家に寝かされることになりました。従姉のマリアムは私と同学年ですが、付き添って慰めてくれました。一九五八年に彼女は雪崩で亡くなったのです。私の子供部屋の窓からは、通りの向こうに聖十字架教会の塔も見えましたが、そこの墓地に埋葬されたそうです。テトラ山で死ぬという彼女の運命を想うとき、また故郷で亡くなった親戚たちのことを想う時、それもまた救いと感じることがあります。私たちがケスマルクに留まっていたら、父はシベリアに送られていたかもしれません。そこから帰って来なかった人々のように。

 私が六歳の時、母は私を屋根裏部屋に連れて行ってくれました。ツィプスの民話では、屋根裏には怖ろしい精霊ボボクがいるとされていましたので、恐かったのですが。母は金色に塗ったテーブルと長椅子を示して、大人になって自分の居間が持てるようになったら、持っていくようにと言いました。脚が鳥の足の形をした、今では博物館に陳列されているような家具でした。成人してケスマルクの新居に座し、窓の外を眺めている自分の姿を、私は思い浮かべました。母や祖母がよく身に付けていた黒い衣裳とともに、それらの姿や形は今でも心の中で私を故郷に結びつけています。――



 バイエルンの或る修道院に私たちの居留施設はありました。やがてそこにアメリカ人がやって来ました。私は修道院の汚く臭う床に寝かされ吸入を受けていました。或る時、アメリカ人の看護兵が私に訊ねました。私の祖父母たちの事績を誇りに思うかと。何と応えたのでしょう。私は、蚤だらけで自分の寝床もなく、一日一食、洗面器で煮て焦げついたスープを、鉤十字のついた帝国労働者用の椀に注がれていました。夏の間は、他の子どもたちとドナウの畔で身体を洗いました。三年の間、学校の授業を受けていなかったので、修道院の壁の古いドイツ文字を指でなぞっても、読むことは出来なかった。すでに私はアメリカ人によって解放されて、自分で署名した整理番号を身に付けていました。しばらくの間は、アメリカで暮らそうかと考えていました。アメリカ人が非ナチ化に努めていた、そんな時ケスマルクから、私の父に対する告発が伝えられました。SS親衛隊の青年の上腕に刺青された血液型を、ギムナジウムの生徒たちが見ている前で削り取ったというのです。他にも密告をされた人々は多く、皆アメリカの軍事刑務所に収監されました。そこから生きて出られなかった人もいましたが、私の父もその一人です。

 私が八歳だったとき、私の世界は没落しました。戦争と戦後の時代がそれを破壊しました。私は、そこに住むことの許されなかった風景に深く織り込まれ、生きることのできない生活のもとへと生きてきました。永遠の難民として。しばしば私は、遙か昔より届いたと思われる欲求を覚えます。屋根裏の精霊ボボクや地下室の精霊モモクを、屋根裏も地下室もないこの家にいて身近に感じます。子供のベッド脇に立つというジュンジュバーバは今も私の友です。嵐になると元気になるのは農民の女たちと同じで、雪が降るときには、二日前からそれを嗅ぎとることができます。当時の女たちのように亜麻布が好きで、蚤の市では意味もなく亜麻のハンカチを買い求めたりします。……



 エリカの話は夕刻まで続いた。その後も幾度か繰り返された話を私は書きとめておいた。数年後、わたしの学業への途は断たれたので参与観察のノートは放置されたが、今はその記述を繋いで記憶を呼び起こそうとしている。音信が途絶え、十余年を経て彼女を再び訪ねたとき、その家はもう久しく閉ざされていたようだった。帰国のとき彼女が贈ってくれた亜麻布のみが、私の手には残されてある。





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