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バッハにおける死生と音楽
詩誌「ERA」第三次 第2号


●バッハ「イエスよ、わが喜び」
            モテット BWV227

                              川中子義勝

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (一六八五〜一七五〇)の声楽曲のうち、シュミーダーによる分類で「モテットMotetten」に数えられる曲は六つある。その中でも、「イエスよ、わが喜びJesu, meine Freude BWV227」は、「主に向かいて新しき歌を歌えSinget dem Herrn ein neues Lied BWV225」と並んでよく知られ、ともにしばしば演奏される曲である。後者が、その簡潔な歌詞と「急―緩―急」という明快な様式により、その音楽的な特徴を際立たせるのに対して、「イエスよ、わが喜び」は、その言葉の充溢ゆえに、特徴はむしろ文学的と形容する方が相応しい。この曲のそのような印象は、バッハが作曲をする際の所与として、ヨハン・フランクの作詩した同名コラール(一六五三)の全節をテクストとしたことに因る。しかも、六節ある詩節は、間に新約聖書ロマ書八章からのテクストがそのつど挟まれるという仕方で、重層的に構成されている。

 1 イエスよ、わが喜び、
  わが心の憩う牧よ、
  わが身の飾りなるイエスよ
  ああ、いく久しく、まこと久しく、
  こころ打ち震えて、
  きみをば慕い焦がれしか。
  神の子羊、わが花婿よ、
  きみを措いてこの地上にひとつだに
  わが心を惹くものぞなき。 (コラール第一節)

 2 いまやキリスト・イエスにある者、罪に定めらるることなし。
  彼ら肉によらで霊によりて歩めばなり。 (ロマ八の一)

 3 きみがみ翼の陰にありて
  われは嵐のごと迫りくる
  いかなる敵をも恐れじ。
  サタンをして隙を窺わせよ
  敵の猛り狂うにまかせよ、
  イエスわがかたえに立ちたもう。
  よし雲の鳴り轟きていかづちを閃かせ
  罪と冥府と連れだちて脅(おびや)かすとも
  イエスわれを覆いたもう。 (コラール第二節)

 4 そは、キリスト・イエスにある生かす霊の法則、
  われを罪と死の法則より解き放ちたればなり。 (ロマ八の二)

 5 さあれ、年を経し龍よ、
  さあれ、死の虎口よ、
  さあれ、内なる恐怖よ、襲い来たれ。
  逆巻きて、世よ、荒れ狂え、
  われなおここに堅く立ちて歌わん、
  ゆるがぬ平安の巌これにあれば。
  神の力われを見守り給えば、
  地も冥府の淵も必ずや黙さであらじ、
  よしなお声を荒げ吼え猛らんとも。 (コラール第三節)

 6 されど、汝らは肉にある者にあらで、霊にある者なり。
  そは、神の霊汝らの内に宿りたまうがゆえなり。
  されどキリストの霊を持たぬ者は彼の者にあらず。 (ロマ八の九)

 7 去れ、くさぐさの宝よ。
  きみこそわが心の慰めなれ、
  イエスよ、わが愉楽よ。
  去れ、空しき誉れよ、
  われ汝らに耳を貸さじ、
  われ汝らを知らず。
  惨事、困窮、十字架、恥辱、かさねて死、
  よしことごとく艱難となりて襲いくるとも
  われをイエスより分かつことあたわず。 (コラール第四節)

 8 されど、キリスト汝らの内にいませば、体は罪のゆえに死にたれども、
  霊は義のゆえに命にあるなり。 (ロマ八の一〇)

 9 いざさらば、世の選び取りし
  むなしき生きざまよ。
  汝らをわれは好まず。
  いざさらば、諸々の罪なる歩みよ
  とおき彼方に消え去れ、
  たえてふたたび日の目を見ざれ。
  いざさらば、奢りよたかぶりよ
  悪にまみれし生よ、晴れてわれ汝らに告げん、
  いざさらば、永(と)久(わ)の眠りにつけと。 (コラール第五節)

 10 されば、イエスを死者の内より蘇らせたまいし御方の霊、汝らのうちに宿りたまわば、
  キリストを死者の内より蘇らせたまいし御方は、汝らの死すべき体をも活かしたまわん。
  そは彼の御霊汝らの内に宿りたもうがゆえなり。 (ロマ八の一一)

 11 退け、悲しみの霊ども、
  げに、わが喜びのきみにいます
  イエス 入り来たりたまえば。
  神を愛するものらには、
  悲しみもまた益と働きて
  旨き甘露とならざるべからず。
  よしこの世にて誹り嘲りを忍ぶとも
  苦しみにありてもなおきみこそ
  イエスよ、わが喜びなれ。 (コラール第六節)

 この曲の成立に関する過去の有力な仮説は、「バッハ年鑑」(一九一二)に載ったベルンハルト・フリードリヒ・リヒターの見解である。すなわち、ライプツィヒの郵便局長婦人ヨハンナ・マリア・ケースの遺志に従って、一七二三年七月一八日の哀悼礼拝において演奏されたいう。この日、ライプチヒ・ニコライ教会においてロマ書八章一一節から説教が語られたと記す堂守の日誌が根拠である。今日の研究では様式分析によってむしろ一七二三年よりも後に位置づけられるが、哀悼曲という理解は揺るがない。BWV225が、テクストの内容とその音楽的解釈からして死生を主題とすることが明白なのにも拘わらず(拙論「新しい歌――ヨハン・ゼバステイアン・バッハにおける」(第三次「同時代」第三三号、二〇一二)参照)、華やかにも聞こえる響きに囚われて、哀悼曲に数えられないこともあるのとは対照的である。いずれにせよこの二曲は、バッハの死生観を問う際には、要となる重要な曲であるといえよう。BWV225が「新しい歌」、すなわち、死を克服した「新しい人」の歌というバッハの音楽観を示すとすれば、BWV227は、死の切迫する様相、またその克服のプロセスを、脅かされた魂に寄り添い細やかに描き出す。
 リヒターに依れば、ロマ書八章一・二節と九〜一一節のテクスト選択はバッハ自身に帰されるが、フランクのコラール全節の採用は故人の希望に則るものとされる。しかし、カンタータ第四番「キリストは死の縄目に捕われたり」におけるルターのコラール全節の採用を鑑みれば、バッハが自ら全六節のコラール変奏をむしろ積極的に志向したことを、あえて留保する根拠はないように思われる。コラールと聖書テクストを交互に配置する、バッハ自身においても他に類を見ないその構想にこそ、曲作りの意図を見るべきではないか。
 この曲が全体としてシンメトリー構造を持つことは、フリードリヒ・スメントの指摘(「バッハ年鑑」一九二八)以降、共通の理解となっている。「イエスよ、わが喜び、/わが心の憩う牧よ」と始まるコラールは、「よしこの世にて誹り嘲りを忍ぶとも/苦しみにありてもなおきみこそ/イエスよ、わが喜びなれ」と結ばれる。始めと終わりのテクストの一致は、バッハが作曲にあたってシンメトリー構成を志向する誘因となったであろう。だがこれだけの長い曲、単純な点対称ではない。第一曲第二曲と第一〇曲第一一曲は点対称、すなわち交差配列的(Chiasmus)に構成されている。これに対して、第三〜五曲と第七〜九曲は(鏡面像では左右が入れ替わらぬように)線対称を構成している。第六曲が、対称の焦点、ないし軸に相当する。小節数に関するヴィルヘルム・リュトゲによる最新の指摘を加えて示すと図のようになる。小節数と声部構成の呼応に注目してほしい。

 第1曲 ┌  19小節  ┐       ┌4声
 第2曲 │┌ 84小節 │       │┌5声
 第3曲 ││┌19小節 │209小節  ││┌5声
 第4曲 │││24小節 │       │││3声
 第5曲 ││└63小節 ┘       ││└5声
 第6曲 ││ 48小節 ------------ ││  5声
 第7曲 ││┌19小節 ┐       ││┌4声
 第8曲 │││23小節 │       │││3声
 第9曲 ││└106小節│208小節  ││└4声
 第10曲│└ 41小節 │       │└5声
 第11曲└  19小節  ┘       └ 4声

 これまで挙げてきたような、曲解釈の諸成果はホフマンに依るものであるが(Klaus Hofmann: Johann Sebastian Bach, Die Motetten, Kassel 2003)、ホフマンは、説教に用いられたロマ書のテクストにコラールを交互に組み合わせた、このような詩節の配置について、これによってロマ書の文脈が見渡せなくなり、内容的要素よりも芸術的造形に重点が置かれる結果となった、と述べている。内容は牧師の説教に託されたというのである。たしかに、第四曲の冒頭の「そは(なぜならば)」は、直前のコラール第二節を受けるものではなく、本来は第二曲のロマ書八章一節に接続する。また第八曲冒頭の「されど(しかし)」も、第六曲のロマ書八章九節を受ける言葉である。バッハはこうした内容上の「齟齬」には目を瞑り、むしろコラール主旋律の反復によって音楽的統一性を確保したとホフマンは述べる。ロマ書テクストの方は、個々の情緒に相応しい個性的なモテットへと曲付けられ、芸術的多様性の達成に仕えているとされる。この評価を一応は肯うとしても、ロマ書テクストの文脈・秩序を無視したとするホフマンの評価は再考を要する。コラールとロマ書テクストはより本質的な関係にあるのではないか。そもそも、このコラールの選択自体がロマ書テクストから導き出されたと言いうるのではないか。以下、この点を検証してみたい。
 前述のように、第一曲と終曲(第一一曲)は呼応する。予め曲の行き着く到達点として、喜びの根拠なる「イエスへの愛」が名指される。続く第二曲は「霊の内なる歩み」を提示することにより、第三曲〜第五曲の主題を定める。その途上、魂を脅かす敵が次々と襲来し(敵、サタン、天雷、陰府、以上第三曲、龍、死、以上第五曲)、魂を攻撃する。外敵の断罪よりもさらに辛く、最も痛手を与えるのは、断罪の言葉が良心の内奥を刺すことにより、己は万死に価するという呵責に魂が捕らえられることである(内なる恐怖、第五曲)。こうした罪と死の威嚇に対し、第四曲は、揺るがされた魂を「生かす霊の法則」にある事実に立たせる。霊の現実のゆえに、いかに振るわれても魂は支えを失わないと言われるのである。これに応える第五曲冒頭は、獰猛な敵(龍)であれ、死の虎口であれ、何が迫ろうとも、これに「抗してtrotz」(「さあれ」と訳した)立つと幾度も繰り返す。己が立処を足でしっかり「踏みしめるtreten」響きが聞こえてくる。
 内なる呵責の声に耳を傾けないならば、第六曲の「キリストの霊を持たざる者はキリストのものにあらず」という一節は、(自分だけは大丈夫と自惚れて)他者を責める脳天気な告発になってしまう(世間の宗教者の発する非難には、しばしばそのような無知と高ぶりが潜む)。人の間の区別が問題では無いのだ。第六曲はむしろ、人間の存在を基礎づけるより大いなる根拠(「神の霊」)を示し、作品全体の転換点を形作るが、これは逆に、霊の内にあっても、なお人が地上の姿すなわち身体を持つ者であるかぎりは、肉(聖書では「罪」と同義語)の攻撃に晒されている現実を突きつけるのである。
 これを受けて第七曲〜第九曲は、罪に晒された現実(肉)を己が身に実感する、そんな悲哀を知る者の歩みを、より大いなる根拠のもとに委ねていく。第七曲では、「去れ、くさぐさの宝よ」と、なおも肉の身を捉えて罪に引き込む地上の諸価値に対して、拒否と絶縁が告げられる。冒頭、「去れweg」と、四声部に亘って、決別の言葉が力強く唱えられる。続く第八曲は、罪と袂を分かつ力の由来する根拠が、我々の内にではなく、イエスの共在(臨在)にあると述べるが、この共在がまさに体の死において達成されることを示げる。「体は罪のゆえに死んでも、霊は義のゆえに命にある」と。体と霊は二元論的に対置されているのではない(霊の反対語は肉)。霊の命とは、体の死を乗り越えた、克服された危機の向こう側の現実なのである。体を殺す罪に対して、死ぬことにより、かえって自由となる。その現実は死後において漸くではなく、地上の生にある「いま」既に達成されうるのだ。第九曲もまた、「いざさらば、むなしき生き様よ」と、地上の諸価値に対する決別を告げる。「いざさらば(=お休みGute Nacht!)」という歌詞の示すとおり、曲想は「世のいきざま」を眠りへと導く「子守歌」の趣。音楽のなし得ることを最大限駆使した壮大な葬送曲である。世の罪が「死の眠りにつく」時とは、究極的には、人の側もまさしく末期の眠りに就いていく、体の死を迎える刻であることが示唆されている。
 これをうけて第一〇曲は、死に往く者の現実を聖書の言葉へと委ね、イエスとの死生の共同を魂の奥深くへと届かせる。キリストにおける死の克服とは、罪やその価としての死を攻撃し、これに打ち勝つことによって達成されたものではない。むしろ十字架と復活、すなわち受難の途を歩む果てに神に備えられた死生の逆転こそ、勝利の真の姿であった。であるからには、キリストを仰ぎ見る者の死もまた、別の形を取ることはないであろう。十字架は人の眼には敗北と映る。人の死もまた敗北そのものであろう。死は勝ち誇る。しかしキリストとの死生の共同において、「新しい人」の誕生があり、再生がある。死の際にある人に、そこでなおも力を振り絞るなどという到底不可能な途によってではなく、キリストにおける神の霊の訪れと「宿り」がそれを成し遂げると言われる。第一一曲は、そのような死生の逆転に喜びの根拠を見いだし、これを肯定する共同体の讃美である。生の歩みを死生の境を越えた命の真の秩序として受けとめ直し、なおも歩みを進める共同体の讃美をもって全曲は終わる。
 以上見てきたように、コラールとロマ書テクストはしっくりと組み合わされている。ホフマンは、八章の三節〜八節が省略をされていることを捉えて、ロマ書の文脈は牧師の説教に委ねられたと述べ、歌詞の内容よりも芸術的伎倆を見るべきとするが、この曲はむしろ、ロマ書の言葉と文脈を正しく受け取めているといえるのではないか。因みにここでは、ロマ書七章結尾の有名なパウロの嘆きが思い起こされる。恵みにより義しいとされた信徒はその生活も神によって浄い者とされる、と語ってきたパウロが、突然「ああわれ悩める者なるかな、此の死の体より我を救わん者は誰ぞ」(二四節)と呻きの声を上げる。この箇所については、昔から解釈が分かれてきた。信仰の模範とも言うべきパウロが、そんな初心者のような嘆きを語るはずが無い。これは、イエスに出会うまえの過去の自分を語ったものと解すべき。公教的な立場の教理や神学者たち、また近代の敬虔主義はそう教える。一方、アウグスティヌスや、宗教改革者ルターは、あくまでもこれは使徒パウロの魂の現実の姿であると理解した。筆者もまたそう考える。そもそも、ロマ書八章の論述は、七章結尾の嘆きを受けとめる形で述べたものである。嘆きを語った直後にパウロは、「我らの主イエス・キリストによりて神に感謝す」と、これもまた唐突な讃美を述べる(同じく七章二四節)。嘆きと感謝という、魂の内なる対極的情緒の逆説的共在を受けて、ロマ書八章はその真相を解き明かしていく。バッハのモテットも、これを音楽的に深く受けとめたものと言いうるのではないか。バッハは、ロマ書七章結尾の感謝を、コラール「イエスよ、わが喜び」の採用によって置き換えたと取るなら、むしろ、ロマ書テクストの思想に相応しい解釈を詩と音楽とによって与えたと言いうるであろう。
 これに関連して、バッハがこの曲全体のクライマックスの位置を誤ったというホフマンの言及にも、逆の評価を対置すべきであろう。小節を数えるならば確かに、この曲の福音の中心となる第一〇曲(四一小節、対応する第二曲の半分)にではなく、直前の第九曲(一〇六小節)に音楽的展開の頂点が措かれている。しかし、それはむしろ、言葉と音楽がそれぞれに果たす力の違いをバッハが良く心得ていたことを示していよう。第九曲において、罪や肉の現実(聖書では「古き人」とも言われる)に対する葬別を果たす霊の力は、まさしく音楽によって備えられる。音楽によって奮い立たせられて後、第一〇曲で聖書の言葉が静かに入ってきて魂を潤す。これは、福音が魂に浸透していくより素直な秩序であると言えまいか。それはまた、第一一曲(終曲)のコラールを導き出すよい契機ともなっている。フランクのコラールは、全体として「われ」の歌だが、その響きは魂の主情的で一方的な表出ではない。このことは、ロマ書テクストとの組み合わせでよりはっきりと示される。第一一曲において、「神を愛する者ら」と、初めて複数形が現れるが、これは第一〇曲のロマ書テクストを聞いた者たちと受けとめることができる。そこで、「われ」の歌うコラールは、「われわれ」の告白へと現れ出で、共同体の歌としてのコラールの本領を発揮することになる。哀悼曲は死者のためだけにあるのでは無い。哀悼曲のいのちは、哀悼の場に集い、死者を送る者たちを、その日常の生へと立ち返らせ、その歩みを新たにさせるのである。

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