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ルターと「詩」
「ドイツ文学」107 に掲載



●「ひとつの死,別なる死を喰らいて」
            ルター賛美歌の生成について




 賛美歌は,信仰や礼拝の歌としてもっぱら神学や音楽の立場から論じられることが多い。だが,これもまた言葉の作品である限り,詩歌として文学の視点から見なおすことは可能であろう。これまでにルター賛美歌の成立を論じたものの典型にシュピッタの例がある。*1  修道院時代から語ってきた魂の内なる言葉を,ルターは1523年以降教会形成用の歌に焼き直したという。この説によれば,ルター賛美歌の独創的なものほど初期の成立に帰せられる。シュピッタの事実認識の誤りはルッケにより反駁され,*2  またそのロマン主義的前提による詩人と教会建設者の対置は,ハーンにより福音の働きにおいて止揚された。*3  すでにことは片が付いているように見えるが,個人の詩作と共同体の関わりについてはなお問い返されねばならない。創作の営みが切り結ぶ現実や詩歌が生まれる現場の実相をたどりつつ,そもそもコラール(衆賛歌)という文学類型(ジャンル)が成立するその意義を尋ね,そのうえでルターの賛美歌の詩としての射程を検討してみたい。


1.ルターの構想

 ルターの賛美歌は,いわゆる機会詩のように個々の歌が折にふれ偶然に形をなす仕方で生まれたものではない。むしろそのひとつひとつが,有機的・系統的にひとつの世界の中にそれぞれの位置を占める形で,ほとんど一気呵成に形作られたと見るべきであろう。実際その大部分は,驚くほど短期間に成立している。ニュルンベルクの出版者グートクネヒトJobst Gutknechtの著した『八編歌集』(1523末/24初頭)に収められた4編を皮切りに,『エアフルト便覧』にさらに14編が加わり,そして『ヴィッテンベルク賛美歌集』初版(=『ヴァルター賛美歌集』1524年9月)では全部で24編を数えるに至る。生涯の作品総数のほぼ3分の2にあたる賛美歌が,1523年から24年の1年間に生まれたことになる。後に作られるものにも「神はわが城塞」(1529)などの重要な作品があるとはいえ,創作営為は生涯のこの一時期に極端に限定される。しかもその動機たるや,外的契機に負うところが多い。それは,後のロマン主義的な詩人観や創造理論に大いに抵触する。
 外的契機としては,いわゆる「熱狂者たち」の頭目ミュンツァーThomas Münzerの賛美歌集『ドイツ語宗務』(1523)の刊行が第1にあげられる。それを座視できなかったルターが,当面の対抗措置として自らも賛美歌創作に勤しんだということであろうか。*4  だが,ミュンツァーのドイツ語賛美歌出版は,同じく彼によるアルシュテットのドイツ語ミサ導入と深く関わっていた。その意味では,問題はさらに遡る。発端は1521年から22年にかけて,ルターがヴァルトブルクに匿われていた時期,ヴィッテンベルクにおいて同僚カールシュタット*5  がドイツ語ミサを敢行したことであった。これを伝えられて立ち戻ったルターは,直ちにこれを止めさせ,1523年には『ラテン語ミサ』まで刊行する。その一見守旧の姿勢は,「熱狂者たち」どころか聖書のドイツ語訳に励む自己の志向にすら逆行しているかのごとく映る。だがルターにとって,礼拝の要は「神の言葉」自体であって,器としての言語の選択が問題ではなかった。礼拝の性急なドイツ語化は拙速と見なしたのである。式文や歌を形だけドイツ語化しても意味がない。歌は礼拝の中心で語られる神の言葉に基づいて初めて意味あるものとなるからである。ミュンツァーが「説教は礼拝の中で歌われたうたを解説する」と述べるのとは対照的である。*6  ルターは,神の言葉(聖書)が正しく語られず,ただ歌のみで成り立つような礼拝の有害性すら指摘して憚らない。*7 
 しかしこのような紆余曲折を経ても,ルターにおいてドイツ語の賛美歌はいずれ時熟したならば自らも手をつけねばならぬ問題であった。1523年末のシュパラティンGeorg Spalatin宛の書簡は,そのような営みが開始されたことを伺わせる重要な証言である。「私が欲しているのは,預言者や教会の古(いにしえ)の父祖たちの例に倣って,ドイツ語の詩篇,すなわち賛美歌を作り出すことです。それは,歌を通しても神のみ言葉が人々の内にのぞむようにと願うからです。それゆえわれわれは至るところにおいて詩人を探しもとめております。[・・・・]私は貴兄にお願いしたいのです。貴兄がこれに手を貸してくださり,私がここに自らの例として添えるような仕方で,どれかの詩篇を歌に移していただけないかと。昨今の,宮廷で使われているような単語は用いないでください。民衆の理解力に応じた仕方で,できるかぎり単純で一般に流布している言葉が歌われねばなりません。しかしそれは美しく,また整った言葉となるように,加えて明快で,詩篇の意味にできるかぎり近づいた姿とならねばなりません。[・・・・]よろしければ,第一の悔改詩篇「主よ,わが祈りを聴き」を[翻訳するよう]お薦めします。というのは,[・・・・]私はすでに「深き淵より・・・・」を訳し終えているからです。[・・・・]」*8 
 この書簡には,賛美歌の構想に関していくつか重要な立場が表明されている。(1)まず「われわれ」と述べられ,ことがすでに個人的志向の枠を越えていること。(2)さらに重要な点は,「歌を通しても神のみ言葉が人々のうちに臨むように」と,聖書の言葉を伝えるという賛美歌の目的がはっきりと打ち出されていることであろう。(3)しかも「単純で一般に流布している言葉」すなわち民衆の言葉を用いてと,翻訳の際に用いるべき言語の水準も明示されている。そこには「市井の言葉に耳を傾ける」という聖書翻訳と同じ方針が示されている。(4)具体的には詩篇をパラフレーズすることが求められているが,すでにルター自身その営みに着手し,参考にと「深き淵より」[130篇]を添えていることが注意を引く。これは今日の「深き苦悩の淵より」であると思われ,この作品の成立時期を最初期に規定する根拠となっている。
 この書簡からは,直接礼拝用の歌が求められているという印象は薄い。しかし,目指すものが信仰共同体の形成に関わるという点は明快である。「われわれ」のうちには,ルターが音楽上の助言者としたスペラトゥスPaul Speratus (1484-1551)のような人物が含まれよう。後にはヴァルターJohann Walter他の音楽家たちが加わってくるはずである。ことはすでに個人的志向の枠を越えていた。一方,名宛人シュパラティンは1522年以降選帝候の宮廷説教師として教会と大学の運営に力をふるった人物である(当時は帝国議会のためニュルンベルクに滞在)。むしろ政治畑の人間であった。この書簡が実際に功を奏したという形跡はない。しかし,反応や成果がどうであれ,広く教養層に賛同・協力を求めるという呼びかけ自体は,宗教改革が運動として展開される基盤を示すとともに,当時,詩や音楽もまたそのような教養の上に広く培われていたことを伺わせる。


2.音楽と教育

 ルターは,青年時代から最新の音楽理論の研究に勤しみ,実践においても教会の歌唱やチターの演奏技術に至るまで,かなりの修練を積んだといわれる。音楽への没頭と到達度において彼は人並みの域を越えていた。後に共労者ラウの曲集の序文として記された「音楽礼賛Encomion musices」(1538)に,彼の思い入れを如実に窺うことができる。そこでルターは音楽の効用について多くの言葉を費やすが,その筆致は最後に,若者を薫陶しその徳性を助長させるという働きに言い及ぶ。音楽は邪な感情を追い払い,悪しき交際や諸々の悪徳を避けさせると。このように,ルターは音楽の教育的役割を高く評価する。しかし,そのような音楽によって培われる社会的エートスの思想は,むしろ伝統の音楽観に属するものである。音楽musicaという言葉が詩の女神の活動mousikeに由来するように,ヨーロッパの音楽は言葉との密接に結びついて展開してきた。古典古代において修辞学の学びは青年が社会の成員となるために必須であったが,その課程には音楽も含まれていた。この伝統はキリスト教世界にも受け継がれる。音楽は,「自由七学科」の一つとして中世的教養の基盤を形成した。そのような広く文芸と関わる音楽,またそのエートス的理解は,連綿とフマニスムスまで伝えられた。ルターもまたそのような伝統の上に立っている。
 音楽の教育的側面を民衆にまで拡大したことは宗教改革の功績であった。先に見た詩篇翻訳の構想でルターは,美しさと分かりやすさを兼ね備えた言葉を要請している。そこで音楽は言葉を民衆にさらに受けとめやすくする働きをする。音楽は,旋律と繰り返しによる強調によって言葉を記憶にとどめる教育的な役割を果たす。ルターの『ドイツ語ミサ』(1526)を詳細に検討する余裕はないが,そこでは例えば,Initium,Coma,Periodusなどの定型化された旋律が句読点のかわりに文の構造と切れ目を示す役割を果たす。*9  音楽はまさしく修辞学に代わって,会衆の理解に仕える任を負うのである。このフマニスム的伝統による音楽の役割は,文自体に託されたリズムとして,本来ルターの聖書翻訳にもみとめることができる。彼の翻訳は,枠構造によって節が長くなる傾向を示す今日の構文とは異なり,比較的短い言葉の単位を連ねていく。視覚による黙読のためではなく,朗読による耳からの理解に堪えうるためには,聴覚のリズムにのった音楽的な言葉でなくてはならないからである。それゆえに,ルターにとって聖書翻訳から賛美歌製作への歩みは,民謡調の有節形式の採用などを除けば伎倆の面では特に新たな試みではなかったといえよう。
 音楽の教育的側面を民衆に適用する。この点においてルターの立場は,カールシュタットやミュンツァーのそれと別なものではない。彼らもまた,「福音を民衆に近づけるために」*10 礼拝や賛美歌のドイツ語化を唱えているからである。むしろ「熱狂者たち」の方が先んじているとすら言いえよう。16世紀の規範をなした伝統の音楽論は,感情を喚起し沈静する音楽の情念的働きについて語っていた。*11 こうした音楽観,ことに人の心の丈を低くする教育的感化に着目する点において,ルターは,グレゴリオ聖歌の旋律を重んじたミュンツァーとかなりの部分で重なる。違いを言うならば,ルターの方がより繊細であったということになろうか。「今日私はドイツ語のミサを持とうとし,それに携わっている。しかし私が欲するのはそれが正しいドイツ語となるようにということ。詞と楽譜の両者,拍と節また抑揚は母ゆずりの正しい言葉と声から来るものでなくてはならない。さもなくば,全ては猿真似のようなものだ。」*12 これは賛美歌にもあてはまる。言葉の響きへの繊細な感覚を持ち,ルネサンスにおける言葉と音楽との一致への志向,「マドリガリズム」にも通じていたはずのルターにとって,ミュンツァー流のグレゴリオ聖歌の旋律にそのまま乗せただけのドイツ語訳は耐え難いことであった。*13 


3.詩篇歌の精神

 だが言葉と音楽との不幸な接合だけが問題であったならば,ルターとミュンツァーの賛美歌構想にはさほどの隔たりはなかったであろう。彼らの間には詩と音楽の理解において,さらには福音の把握において決定的な開きがあった。
 「音楽礼賛」の頂点を形作るのは次の一節である。「神の聖なる言葉に次いでは,まさしく音楽にまして高く賞賛すべきものは何ものもない。というのは,彼女[音楽]は人間の心のあらゆる動きを治める支配者としてこれに力を及ぼすことができるからである。音楽にまして,悲しむ者らを喜ばせ,喜ぶ者たちを悲しくさせ,気落ちした者たちを大胆にし,高慢な者たちを恭順へと誘い,熱く燃え上がった愛を冷ましまた静め,妬みや憎しみを和らげるものは,地の上に何ものも無い。」*14 ここには,人間の様々な情念の生起に伴い,人間の心情を統べる音楽の働きが語られている。それ自体は,伝統の音楽論の語る音楽の治癒的働きに通じる。だがここで著しいのは,音楽の働きが,高ぶる者を低くし遜る者を高める方として神を頌めたたえる「マニフィカト」の歌詞さながらに語られていることである。神の言葉の働きを象るその効用ゆえに,音楽には「神学に次ぐ」特別な位置づけが与えられる。*15 ここには伝統的な音楽の理念,調和(ハルモニア)が神の経綸(エコノミア)を映すものとして捉えられている。しかしルターの音楽は,単なる調和の域にとどまるものではない。それは,彼の神と等しく人間性に開いた亀裂に関わってくる。
 神の言葉と音楽とを結ぶ,それはまさしく賛美歌の役割である。ルターがシュパルティン宛の手紙に望ましき賛美歌の模範として添えたのは詩篇130篇の翻案,有名な「深き苦悩の淵よりAus tieffer not schrey ich zu dir」と考えられる。もとの詩篇は,初代教会の「七つの悔い改め詩篇」の第6。罪ゆえの深い苦悩を海の深淵になぞらえて印象深い。詩篇の翻案であるかぎり,この歌の詩人は即ルターではないが,歌中の「わたし」はルターの経験と交錯し,微妙に重なってくる。
 今日の旋律では5度の下降で写される「深淵」。苦悩の底からの神への呼び求めは「わたし」の実存的破綻をあらわに告白する。罪の深淵が詩人を神から引き裂く。その告白のうちに,詩人は自己が神の審きに堪え得ないことを自覚している。神が罪にのみ目をとめるのであれば,「誰がみ前に止まることをえんや」(1節)。しかし,「汝には他ならぬ恵みと憐れみとありて,/もろもろの罪をゆるしたもう」(2節)。この赦しこそが神に対する真の畏れを生む。悔い改めは,神の赦しあって初めて生じうるものなのである。そこにはルターの共感が響いている。神の義しさは(審きにではなく)その赦しにこそあるという「神の義の再発見」。この出来事は,かつて修道士ルターを宗教改革的転回に導いた。ルターはこの詩篇にそのような「福音」の先取りを認め,さらにこの詩篇後半の主題「希望」の根拠を新約的信仰の立場から描き直す。「されば我ただ神にのみ望みを抱き,/わが功績(いさおし)にそを基づくることをせじ。/神にのみわが心はおのれを委ね,/ただそのかぎりなき恵みにのみ依り頼む。/そをわれに約束せしは彼の貴きみ言葉にして,/わが慰め,わが揺るがぬ避けどころなる/み言葉をこそわれつねに待ち望むなれ」(3節)。ここには,宗教改革の標語,「信仰(=恵み)のみ」「聖書(=神の言葉)のみ」が明確に語り出されている。
 不安と困苦の深淵にあって人は神の恵みに出会う。聖書の神は人間の「破れ」を覆うべく淵の底ふかくまで降ってくる。このように先立ち同伴する神の現実に出会った者の口にあふれる腹の底からの歓喜。人間性の深い淵から湧きあがる賛美こそが,詩篇から「マニフィカトMagnificat(マリアの賛歌)」に通じる聖書の歌の精神であった。そこにはルター賛美歌の原点もある。そのような賛美の声のあふれくる動態を,ルターは後に『ヴィッテンブルク賛美歌集』初版(1524)の序文に,彼に続くべき賛美歌の課題として言い表した。「神の恵みゆえに今や再び立ちのぼった神の聖なる福音を,駆り立て,広めること。かくしてわれわれもまた,出エジプト記15章で,モーセが彼の歌で告げたように誇らかに歌うことができる。キリストこそはわれらが賛美の歌なりと。」ルターが示唆するのは,葦の海の奇蹟の箇所。エジプトの軍勢が海に呑み込まれるさまを目の当たりにしてモーセの口には神への賛美が溢れる。旧約でも最も古い歌のひとつである。こうしてヘブライ詩成立の根源にたちかえり,ルターは,新たなる賛美の湧出をドイツ語という改革の新たな風土に植えようとする。


4.賛歌と共同体

 詩篇は本来祭儀の場で朗唱された。そこで詩人は,自らが得た赦しや救いの確信を,全会衆に対する救いの保証として歌った。詩篇130篇もそのような会衆への訴えをもって終わる。ルターの賛美歌はこれに則りつつ,もとの詩篇にはない「われわれ」という語を明示し,歌唱の主体をはっきりと指し示す。「われらが罪いかに大いなるとも,/み神のめぐみぞいやまさりて大いなる」(5節)。ここで「われら」は,音楽の教養的基盤や民衆への教育的視点を遙かに越え,新約聖書的な信仰共同体の賛歌の主体として姿を現す。この共同体の特徴とはいかなるものか。
 1523年末,時節にあわせルターは降誕節の賛美歌を記した。それをミュンツァー派のものと比べてみると,信仰観の隔たりとともに,共同体についてのイメージの違いがくっきりと浮かび上がる。例えばフートHans Hutの「われらこぞりて心より歌わんLast vus von hertzen singen all」(1523)はキリスト誕生の意義をこう歌う。

  われらが心の奥底に光を灯せ,
  かくしてわれらに救い主の告げ知らされんことを,
  かくしてわれら汝とともに新たに生まれんことを
  汝がみ業の失われずとどまらんことを。*16

その神秘主義的特徴は明らかである。ルターが「騒乱の霊」また「天来の預言者たち」と揶揄したこの人々は,霊的人間と普通の人間を区別して,神の意志は前者,すなわち預言者の霊感を通じて啓示されるとした。また,普通の人間が霊的人間となるためには,脱却(Entgrobung)を経て,離脱,沈思,恍惚という道筋を歩まねばならない。聖書の言葉よりもそのような洞察と神秘的な聖霊体験が重視される。彼らにとって信仰の共同体とはこの経験が分与される場なのである。そこでは霊と神との直截の結びつきゆえに,キリストの重要性が失われる。「降誕」の歌でありながら,神の贈与としてのキリストの「受肉」の意味が曖昧になる。
 熱狂者たちは人間の問題性を克服すべく自己の内を見つめよと促す。それに対して,自身深い内面体験を持つルターは,むしろ徹底して人間性の外を指し示す。人間性の「破れ」の克服は,人間の内側にではなくキリストの出来事にあるのだからと。

  とこしえの父のひとり子,
  いまや馬槽のなかに見いだされぬ。
  われらのあわれなる血肉を
  とこしえの富ぞ身に負いたもう。
  キュリエライス。
    (「頌めたたえられよ,汝イエス・キリストGelobet seist du, Jesu Christ」1節)

キリストの受肉の出来事を素朴で民衆的な筆致で描くこの降誕節の歌では,光は外から射してくる。

  ついにとこしえの光射しこみて,
  世に新たなる輝きを与えたもう。
  そは夜のただ中にかがやきて,
  われらを光の子らとなしたもう。
  キュリエライス。(4節)

ルターは「キュリエ・エレイソン(主よ,憐れみたまえ)」というギリシャ語起源の常套句をそのまま残した。この言葉は,民衆の素朴な実感として久しく定着していた。それは,神の恵みを受け止める側の「深き淵」の現実を率直に告白する。そのどん底から神を仰ぐ姿勢に,ルターは「降誕」の恵みを受けとめる人間の本来的な姿を認めた。新たな共同体の基づくべき「共感」の出発点として,むしろこの古い表現が担い続ける真実に執着するのである。
 ルター賛美歌を刻印するものは,人間性の内面深く打ち込まれた楔の存在の告白である。だが,まさしくその「破れ」の奥底から神の救いに対する底抜けの賛美が立ちのぼる。そしてその「破れ」の共感のゆえにこの賛美は共同体のものとなってゆく。

  われらの業はむなしくして,
  そのさまはいかに優れたる生(いのち)なるとも異ならず。
                 (「深き苦悩の淵より」2節)

自らの経験に基づいて彼は,人間の業と行いは人間を救い得ないこと,むしろ自己自身の内への堂々巡りに導くことを告白する。むしろ神の恵みこそが,悔い改めとともに罪の深い認識をもたらす。(「自己自身の内に屈曲してゆく心cor incurvatum in se ipsum」)。ルター自身が若くして,どこまでも俯いてゆく徹底した自己追求に悩み苦しんだ。それ故にこそ,彼の眼差しを自己の内なる迷路から引きだし,神を仰がしめたキリストの十字架と復活の出来事は,彼の命の新たな誕生となった。その喜びの源から,生まれくる復活節の賛美はまさしく共同体を基礎づける歌となった。
 「キリストは死の枷にとらわれたりChrist lag ynn todes bande」は,1524年3月,復活節の頃に成ったとされる。初出の『エアフルト便覧』には,「キリストはよみがえりぬChrist ist erstanden・改作」との表題がある。この先行のドイツ語賛美歌は,一部今日の第1節に重なる。*17 

  キリストは死の枷に捉えられたり。
  われらが罪のゆえに渡されたれば。
  彼ふたたび甦りたまいぬ。
  しかしてわれらに命をもたらしたまいぬ。
  そをわれらは心より喜ばん。
  神を頌え,感謝を帰しまつり,
  歓呼してハレルヤと歌いまつらん。

これは,先に見た『ヴィッテンベルク賛美歌集』序論の言葉通り,湧きあがるキリストへの賛歌である。この賛美歌と通い合う主題,イメージ持つものに「いざ喜べキリストの者らよ,こぞりてNun freut euch, lieben Christen, gmein」がある。これもルターの最初期の賛美歌のひとつ。主題的にも「深き苦悩の淵より」とこの復活説の賛美歌とを結ぶ役割を果たす。これは,キリストの到来と闘いを描くバラード風物語詩。連帯して「わたし」を「罪の底」に捕らえている敵側の勢力として,死・罪・律法,さらに悪魔が列挙される(2節)。罪の内にあって無力な「わたし」に代わるべく,キリストは地に降り「わたし」のもとを訪れる。悪魔は匿行のキリストを格好の獲物として我がものとするが,捕らえたつもりで実は自分が捕らえられていた。神の策略にかかって地団駄を踏む悪魔の姿が演劇的叙述によって暗示される。ここで「私」の経験として描かれたキリストの「身代わりの闘い」(7節)は,復活祭の賛美歌では「われわれ」の告白としてより客観的に歌われる。死の勢力との戦闘の場面は,復活祭の歌では高らかなキリスト賛歌の中に収められる。
 詩の前半は,感傷的な叙述を排し,もっぱらまず十字架の出来事そのものを歌う。その表現は素朴で力強い。ここで描き出される贖罪は,法観念に規定されたラテン教父の代贖思想よりも,ギリシャ教父の叙述に顕著な,死の勢力を克服する「勝利者キリスト」*1 のイメージが強く押し出されている。表現の頂点は4節に来る。

  げに不思議なる戦いありき。
  死といのちと相争いぬ。
  勝ちをおさめたるは命にて,
  そはついに死を呑みこみぬ。
  御書はそを述べ伝えて曰く,
  ひとつの死,別なる死を喰らいて,
  死は恥辱にまみれぬと。

ルターはここでグレゴリオ聖歌の続唱「過越の犠牲を賛美せよVictimae pschali laudes」を下敷きに用いている。ヴィポの手になるその詞もまた「死と命が相争う」「不思議な戦い」の場面を物語る。*19 だが,「生命の勝利」を「一つの死が別なる死を食いつくした」と表現するのはルター独自のもの。キリストの十字架の死はむしろ死そのものを滅ぼしたとの謂である。この詩の力強さは,逆説的な出来事とこれに接した人間の感動をそのまま映しだすこうした表現に負っている。それは,人間存在の危機とその「破れ」を覆う神の十字架,この天地の開きを「死」の一語に歌い込める。こうして詩全体は,世界の動態を宇宙的な生死の闘争劇として描き出す,丈高い表現を獲得する。そこでは,感動の凝集と意味の充填ゆえに,危うく賛美歌の共感の枠をも踏み越えそうになる。しかしその負荷は,かえって共感の枠そのものを拡大し,質的に深める。ついには,コラールという文学類型全体を人類史における賛歌の展開に位置づける役すら果たすのである。
 キリストは十字架において,「われわれ」の罪や不信仰の一切を担った。だがそこでは同時に,キリストの信と義,その全ての富が逆に「われわれ」のものとされる。この文字通り「命のやりとり」の出来事を,ルターは『キリスト者の自由』(1520)において「喜ばしき交換」と呼んだ。この賛美歌の後半は,そこに溢れる喜びの賛美を,旧約の出来事と新約のそれとを結ぶ予型論的呼応において基礎づける。葦の海の奇蹟によってモーセの共同体が生まれたように,いまやキリストの復活のうえに新たな共同体が成立する。この共同体を律するのはもはや古き律法ではない。「われわれ」は,「出エジプト」のイスラエルのように,死の縄目を解かれ,罪と律法の奴隷の様から贖い出される。救い出されて,「過越の子羊」に贖われたイスラエルのように,キリストという「命のパン」(ヨハネ福音書6章35節)を食する。その喜びの祝いを,ルターは「種入れぬパン」の祭と言い表す(出エジプト記12章参照)。さらに新たな共同体の踏みゆくべき道もまた示される。人間が自ら救いを確保しようとして,精進や「律法」の業を積み上げる,そのような「古きパン種」(コリント人への第1の手紙5章8節)を神の恩恵の出来事に混ぜ入らせるなと。先立つ神の救いは,歴史における信仰共同体の結びつきを保証するものとなっていく。
 こうして,過去から未来へ,旧約から新約へと共同体のあり方を展望しつつ,ルターの賛美歌は,ひとつの「平和の祝いFriedensfeier」を提示するのである。ここに,ロマン主義的な観点から,詩人の個性と共同体形成者の二極分離を見ることは誤りである。「深淵を覆う神の恵み」というヘブライ・キリスト教詩の成立する場に立ち戻りつつ,また,詩人がその言祝ぎによって祭りを司るという「賛歌Hymnus」の根源に立ち返る形で,今や「コラール」という類型が生まれる。生起した新たな詩の形は,「深淵からの賛美」として自らの枠を壊すほどの起源の起爆力を含みつつ,その展開の途を歩み始める。


*1 Spitta, Friedrich: Der Streit uber die Entstehungszeit des Lutherliedes. MGKK 10. 1905,142-144.
*2 WA(= Luthers Werke in der Weimarer Ausgabe)35, hrsg. von W. Lucke. Z.B.: Eyn feste burg ist unser Gott, S.185ff.
*3 Hahn, Gerhard: Evangelium als literarische Anweisung. Zu Luthers Stellung in der Geschichte des deutschen kirchlichen Liedes. Munchen 1981.
*4 Burga, Klaus: Die Christologie in Luthers Liedern. Gutersloh 1956, S.9.
*5 後にミュンツァーの立場に近いことが判明する(「天来の預言者たちを駁す」1525)。
*6 Muntzer, Thomas: Ordenung und rechenschafft des Tewtschen ampts zu Alstet durch die diener Gottis newlich auffgericht, 1523. In: Schriften und Briefe. Gutersloh 1994, S.210.
*7 Luther, Martin: Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine, 1523. In: WA 12, 35.
*8 WA Briefw. 3, 220.
*9 Vgl. Stolt, Birgit: Martin Luthers Rhetorik des Herzens. Tubingen 2000, S.136ff.
*10 Muntzer: Deutsch-evangelische Messe. In: A.a.O., S.161f.
*11 クウィンティアヌスの『修辞学概説Institutio oratoria』第1巻の音楽論。Vgl. Stolt: A.a.O., S.130.
*12 WA 18, 123.
*13 Vgl. Gebhardt, Friedrich: Die musikalischen Grundlagen zu Luthers Deutscher Messe, in: Luther Jahrbuch X. Hamburg 1928, S.127.
*14 WA 50, 370.
*15 その位置づけは『卓上語録』にも繰り返される。WA TR Nr. 7034.
*16 Wackernagel, Philipp: Das deutsche Kirchenlied, Bd.III (Nr. 509). Leipzig, 1877, S.445.
*17 Meding, Weichmann von: Luthers Gesangbuch. Die gesungene Theologie eines christlichen Psalters. Hamburg 1998, S. 98.
*18 Gustaf Aulen: Den Kristna forsonningstanken. Stockholm 1930.
*19 Wackernagel: A.a.O., Bd.I (Nr. 199) S.130.


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