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詩人のあり方についての二編
        詩誌「地球」に掲載


●1.視覚像の時代における詩人の存在



 新しい時代はどういう時代か。言葉という観点から考えてみたい。第一にそれは、情報化と新たなメディアの時代と述べることができよう。情報化の進展により、書物や活字の時代は終焉に向かいつつある。人が、ことに子供が本を読まなくなったといわれて久しい。テレビやコンピュータの画面がそれに代わった。溢れるイメージにしばし感激はしても、主題に自己を同化したり深く感情移入することは希である。そのような時代には、他者の存在や痛みを想いやる想像力がますます失われてゆくだろう。
 第二にそれは、歴史や物語が世界的規模では語れなくなった時代。世界を一義的に律する主張や大きな物語が困難になった。そこではなるほど、普遍史の中に忘れられていた民族、さらには歴史の暗部における個のありかたに光があてられる。二〇世紀後半は民族の時代と呼ばれたが、民族への自己同一化は発展途上の世界ではなおしばらく唱え続けられるであろう。だが、諸文化の底層においては個人的領域へと価値の限定化がいっそう進むと思われる。メディアはこれをさらに加速する。
 その一方で、人間の言葉は無尽蔵ではない。スクリーンに描かれる個人史から、ゲームの物語秩序に至るまで、メディアの中には逆に普遍的物語への憧憬が溢れている。そこでは、創世から終末に至る諸民族の伝統体系や神話的世界からイメージが気ままに借用され、使い尽くされつつある。そこに広がるのは、第三として、均質に平板化されたイメージ群と没価値の横行する世界であるといえよう。
 「ひと」「もの」ともに、溢れるイメージの中にコピーされ、クローンされつつある時代。それが、言葉の観点から見た新しい時代の状況である。そのような時代に、詩人の為しうることは何か。詩人像のイメージも浮遊する昨今だが、そのように新メディアにより曖昧となり、漂流する言葉を用い、なお言葉に固執する根拠と意義を見出し、示すことは、時代は改まってもなお詩人に遺された重要な使命であろう。
 例えば詩には、「形象性」という言葉の根源のあり方にもとづいて、その本質を「比喩」において極めようとする一側面がある。しかし、狭義の形象、すなわち視覚像だけを詩が第一に追い求める時代は終わったのではないか。たしかに詩がもっぱら視覚的形象・イメージを追い求め、他の感覚がそれについていく、そのような時代が久しく続いたと思う。だが今日、言葉は後出のメディアが繰り出す多彩な視覚像に追い越されつつあり、いまいちど追いつこうとしても、その模倣におわるだけであろう。
 これは単に詩の表現だけの問題ではない。視覚の発展とそこに取り残された聴覚という序列は、近代という時代の「知」の位置づけに呼応する。そこで「見る」ことは、優れた意味で「認識行為」を意味した。「言葉」は積極的な「行為」であったということであり、詩人もまたそのような言葉の営み手として、行為者の一員であった。
 だが言葉は、単に視覚像だけで成り立つものではない。近代の言葉の営為においては、ともすれば「聞く」ことの意味が忘れられた。聞くためには待たねばならぬ。「ひと」また「もの」の語りだしを。出会うための「無為」を聞くことは含む。視ることを止めよと言うのではない。今日、蔓延するメディアが、視覚に阿りつつ行為者の忘却と浮遊を加速するとき、聴覚のみならず、視覚の意味も失われている。言葉の重みを回復する途は、「視覚」に象徴されるうわべだけの行為の積極性よりも、聞くことや「無為」の沈黙にあると考える。言葉に携わる者は一旦はその地点まで撤退しなければならない。
 人間の存在とは言葉である。それ以上でも以下でもない。言葉は、視覚像や聴覚像その他を「共通感覚sensus communis」において結びつつ、身体とその命に基づく実感を形づくる。言葉が「ひと」や「もの」と出会うとき、そこにはまだ寡黙だが「他」を認め、志向する情念が生まれる。この実感は、ときに認識行為の偏重を免れた歌を素朴に成就するが、それはさらに「信」と「真」との切り結ぶ深淵すらをも導くことができるのだ。
 言葉はつねに形象を提示する。だが形象はまた、黙する身振りとして「隠す」一面をつねに含む。詩とは、自らが謎であることを自覚した謎である。だが、言葉の「隠蔽」性を自覚することは、向こう側の「他者」の謎に耳傾ける存在となることでもある。そのような、言葉の根源性を、かつて詩人はその営為において、いなむしろその無為の受動性において指し示した。古い世界では、詩人は生産的に何事かを「為す」者ではなく、「居る」ことを許され、期待された者であった。事物の世界、彼方の世界との境にある者として、その存在において物事の叡智を暗示し、啓示の声に共鳴した。そのかぎり詩人はやはり比喩と形象に生きたと言えよう。その存在そのものが大いなる言葉の比喩となる仕方で。
 新しい時代、そのような「事物の世界」「信の領域」は、本当に問うに値しないのだろうか。それが失われた「大きな物語」などと呼ばれると、安易に迎合し、あとは目の前に浮遊する視覚像を追い求めているだけではないのだろうか。普遍と共感の志向を、神話的世界からの形象・イメージの一時的借用で済ませようという時代の潮流にのって。
 新たな時代、詩人は世界を縦横に往き来し、文化の交流を仲介することだろう。だが、伝えうるのは、まさに伝承された歴史、あるいは「大いなる言葉」に対する人一人の位置以外ではない。この意味において自己と世界に対峙することは、地味だが、誰にもたどりうる途である。詩人にとってはそれは、何よりも自己自身の生が最大の作品となるということに他ならないのであるから。




●2.「詩と宗教」、その存立の両義性について



 正直言ってこの主題には臆するところがある。言葉をめぐる自分の営みが(創作、研究を含め)、詩と宗教に深く関わることは確かだが、それを簡明に言い表すのは容易ではない。大切な問題と受けはしたが、今回も道の周辺を掃き整えるだけで終わるだろう。
 まず私の道がどこを通っているかは示すことは、執筆のモラル的前提として不可欠と思われるので(それもまた気後れの一因なのだが)、直裁にキリストを真実とする者ととしての立場を告げ、そのうえで、私にとって信仰は宗教とは違うものと申し上げたい。「あなたは宗教を信じるか」とか「宗教者か」などという問いは、嫌いな言葉である。
 宗教のラテン語レリギオは、語源的に「まとめる」とか「結ぶ」という動詞に溯るとされ、その限りこれは秩序を志向することばである。なるほど宗教は人をまとめ、組織する。だが、レリギオは、「思う」「配慮する」などのその多様な語義の中に「畏れる」の謂をも含む。畏れるとは、「怖がる」ことではない。人間の力を超えた者の前で、まずは耳を傾け、好き勝手に自らの歩みを定めたり、世界を構築しないこと。真理を、僭越に侵してはならないものとして大切にすることである。なるほど、宗教の現実は、その理念からしばしば隔たってきた。だが、宗教史における秩序維持の現実、組織拡大の傾向に辟易する私も、「畏れる」の本義においてなら、レリギオに意味を認めるのにやぶさかではない。
 何を大切にするかで、その人間の神が分かる。これはルターの言葉。その人間がこれこそ重要とするもの、真理として譲らぬもの、それがその人の神である。たとえば、唯物論。デモクリトスなど古代のそれも、マルクス主義もフェティシズムも、「モノ」が神となったもの。神否定にも神の座は隠されている。だがルターは、パウロの文脈で、もっと身近な問題を指し示す。神を(密かに、またあからさまに)欲望成就の手段とする者に、パウロは、彼らの神は彼らの「腹」だと言った。実際、多くの者の宗教は、御利益追求の拝金主義である。お金の問題と性の問題、この二つは宗教の真偽性を測る試金石とヴェーバーも語る。多くの被害者を出し、裁判沙汰となった先の事件を待たずとも、擬似宗教のいかがわしさは明白だが、戦後の繁栄志向と一面的な非宗教化教育はその洞察を不可能とした。
 だがその問題は、擬似宗教だけではなく、仏教やキリスト教などの中にも潜む。ルターはそのような偶像崇拝をまさにキリスト教の中に見出した。宗教には、共同体の利益追求のために教団形成がどうしても伴う。居丈高にそれこそ宗教だと強調するか、そのような側面をやむなしとするかの違いはあれ、私が信仰を宗教と区別する理由はそこにある。
 宗教の自己拡大には大いに批判される余地があることを、私は、内村鑑三に由来する「無教会主義」から学んだ。これは、キリスト信仰がエクレシア(集会)における信徒の交わりを必ずや内に含むことを強調しつつも、教団として一旦その立場に自足したら腐敗が始まると指摘し続ける。信仰の立場はつねに自己批判を含んでいる。宗教ということばを積極的に用い、真の宗教と敢えて言い続けるときには、宗教改革を自己の内に含まざるをえないのだ。信仰とは、まさにそのような内面の消息を言い表す。信仰は他ならぬ自己の滅びを出発点とするからである。神に向かう時、人間は自己の罪と無の現実に直面させられる。だが、そのような自己認識のどん底に、なお自己を超えた聖(きよ)い世界が立ち上ってくる。一旦破綻した生はその中に生かされる。それが信仰の基づく世界である。
 総じて宗教批判は、神話から科学へという、学問としても既に古びた進化主義の立場か、その影響下にある近代人の素朴な自己拡大、換言すれば人間の高ぶりに由来する。しかしその批判は、宗教批判が宗教自体の内にあるときほどに先鋭化されたものではない。
 詩が宗教と同じだったらあえて詩を書く必要ないとの発言に先日接した。この評者にとって宗教の問題性は、さほど意味をなさないのであろう。私はこの両者が、同じとは言わないにしてもよく似ていると思う。真実への接近の真摯、その根源の言葉へと迫っていく情熱には、すくなくとも共通点がある。だが、いまではまた別な視点からも、詩と宗教には同じ問題があると思う。詩も宗教も、ともに人間の営みだということである。ここまで「宗教」と記してきた部分を、「詩」と置き換えていただきたい。その問題が見えてくるだろうか。人間の営みとして、素朴に自己を拡大していく際のその存立の両義性が。
 「あなたが私にくださったこの女が、私に食べるように言ったので私は食べたのです。」これは、罪を犯した後のアダムの弁解の言葉。アダムの罪が、その行為そのものよりも、この言葉にあることがお分かりだろうか。「私の罪は、私をそそのかした女のせいだし、そもそも女を私に作ってくれたあなたのせいだ。」見事な、責任転嫁と自己への自足。このように、信仰の記す言葉には、言葉の高ぶりへの鋭敏な感覚が潜む。だが、信仰を忌避する詩には、人間の言葉の限界とこれを超える自己拡大が見えにくいのではないだろうか。
 ことは、信仰の問題と正面から向き合っているかに見える賛美歌・宗教詩であっても同じである。キルケゴールはこれを宗教詩人の問題性と述べた。創造と作詩は同じ言葉(ポエムの語源)である。創造された被造物がみずから創造者の地位につく。言葉にはその力があるのだ。しかし自らの限界を知らない(知ろうとしない)言葉にはその問題が見えない。言語操作の充実感が自己を勝手に拡大していくとき、そこでは「詩=我」が神となる。これはすでに真理への「反抗」である。日本ではあまり意識されない問題だ。
 言葉を追求する詩人が、これは誰に憚るところもない俺の言葉だと誇り、そのような問題性が見えないとしたら、それはいわゆる問題含みの宗教と同じである。それは、手垢の付いた宗教が曲がりなりにも持っている自己批判の真摯にもおよばない。詩作がそのような営為であるとすれば、それは疑似詩ならぬ疑似宗教かもしれない。




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