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書窓の隙間
創作 Novelle

 

わが詩の源流



 角帽型のキャップを被って三輪車に乗っている。幼い私を撮したその写真は、農家の末娘に生まれて女学校に進めなかった母の願望を映している。父もまた農家の六男で、東京で勤めながら夜学に通ったから、母の教育熱を許した。小二で進学校を受験して編入。小五の頃、初めて詩らしきものを書く。教室で互いの成績を探り合う自他の姿を「ばかな奴ら」と評した。意外にも、校内文集に載ってしまう。詩への関心が目覚め、文庫本のケストナー『抒情薬局』を真似て断章を書き散らすことになる。高校時代はかつて現代詩が流行った一度限りの時期。毎月の小遣いを筑摩版『日本の詩歌』に費やしたが、むしろ絵を描くことに夢中だった。    

 ヘッセの『ナルチスとゴルトムント』を読んだのはその頃。感動して真か美、いずれかを追究する歩みを将来に期した。専ら純粋の追究を思い描いた少年時代。社会に出るのは先のことと思っていた。家計に余裕はなかったが、高度成長期だったためか、両親は子の甘えを許し、その志望にあまり口出しをしない。美大だけはダメと言われたが、美術部の部室で先輩の芸大三浪を見ていたので、固執はしなかった。大学入学の頃、新聞の投稿欄で年間賞を与えられた。選者の秋谷豊氏に御礼を述べた折りに「これもキャリアだから」と言われる。詩誌「地球」の衛星誌「山河」に加わって詩作に打ち込む… はずであった。    

 文学科に進む途もあったが、詩の言葉の未熟を補おうとあえて思想を専攻。だが哲学の術語には馴染めない。講読ゼミで、ヘーゲルをやまと言葉で訳して呆れられた。構造主義が流行っていたが、ニーチェやキルケゴールの文学的表現に惹かれた。学問自体より自己への執着が強いことを自覚する。『ナルチスとゴルトムント』以降、真と信、また美と愛との結びつきを漠然と想っていた。    

 そんな可能性のみの空虚を、現実は正面から不意打ちする。七〇年安保以降、運動は下火に向かったが、学内にはバリケードも残り、中には同学年の者たちもいた。彼らとの交わりの中で一人の女子学生と出会う。誰かを想いながらキルケゴールを読むことは、人には奨められない。案の定、思念と振舞いの間の不器用さから現実は破綻する。そんな日々に、キルケゴールは決定的に私を捉えた。「詩人的な存在は罪である」。不埒な響きのゆえに、挑発的な言葉の真意を追究せざるをえない。教授不在の研究室で『死に至る病』をドイツ語で読む。そんな日々を過ごして、結局これが卒論となった。「キルケゴールにおける『自己』について」。    

 晴れて社会に出て行く… ことは考えなかった(就活とは縁の薄い学科)。猶予を許し支援してくれる親あってのこと(だが、子の感謝は常に足りない)。院の入試に全敗して、ドイツに逃れた事情は他に記したので割愛(拙HP掲載の「マールブルク」参照)。遡って大学三年の時、赴任してきた独文講師が開いたキルケゴールのゼミ。それが縁で、彼のアパートに毎晩のように入り浸っていた。ヘルダーリン研究者としての話にも惹かれた。彼が主催した学内集会にも加わるようになり、これが聖書に近づく契機となった。渡独のリュックに入れた二冊が、『日本詩歌集』とドイツ語聖書だったのはその感化。詩と信とが、「真」への問をなす二つの核心として形をなしつつあった。    

 切りつめた暮らしは楽ではなかったが、出会いを重ねるという点では、滞在は恵まれた経験であった。母語のようには言葉を操れない。心の内奥をいきなり打ちあける無茶ができないことがむしろ幸いして、友人に恵まれた。現地の若者たちの他にも、様々な国からの留学生に接した。ピノチェト政権下のチリから逃れてきた若者たちの苦悩にも耳を傾けた。もちろん不快な経験もある。子供に「チネーゼ、チネーゼ」と指さされるのは、東洋人への蔑視・差別の萌芽。一方、社会から疎外された底辺層の人々は、むしろ外国人に親しく言葉をかける。家にまで招かれ素朴な持てなしを受けた。    

 日々の充足には、しかし別な局面もあった。独り顧みると、空虚な自分を自覚せざるを得ない。「限りなく自己自身の内に屈曲してゆく心」。言い換えれば、恒に己の臍のみを見つめていた。この執着を自ら断つことができない。将来を打開しようと遠方の教授に受入希望の手紙を書く(ドイツの学位は師弟制度による)。そんな足掻きもついに行き詰まってしまった。心が砕かれた。    

 猶予の時も終わりに近い頃、「自己自身の内に屈曲していく心」(ルター)こそ罪の換言と知る(わが身において)。理解は、屈曲する心と「詩人的存在」の関連にも及んだ。思想の学びも一応続けていたのである。しかしそれは放棄してもよいものに変わっていた。どんな自己も、どんな将来も受け入れよう。帰国を決意すると、心も空も晴れる日が続いた。その折りにハーマンの言葉に触れる。「詩は人類の母語」。その言葉とともに詩が再び帰ってきた。    

 離陸までの三ヶ月、下宿近くから拡がる森を歩きながら、「自己への執着」を離れた透明な言葉を想った。それが向こう側から臨む出会いの出来事となることは察せられた。    



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