『美学提要(びがくのくるみ)』

   カバラ的散文による

      狂想詩(ラプソディー)

(本文のみ)
 
  士師記五章三〇節
 
色とりどりに刺繍した着物を分捕り物に
首には色とりどりに編まれた織物を分捕り物として
 
 
 ―
 
  ヨブ記三二章一九‐二二節のエリフ
 
今わが腹は抜け口のない葡萄酒のようだ
新しい葡萄酒の革袋のように
今にも張り裂けんとしている。
私は語って気分を晴らしたい
唇を開いて答えたい。
私は誰をも贔屓しない
誰であれ諂わない
諂うことを知らないから。
さもなくば私の造り主は
今すぐ私を奪い去ろう
 
 
 ―
 
  ホラティウス
 
聖域を汚す俗世の徒を私は厭い、離れる。
君たちは口を慎め。先に聞かれたことのない歌を
私は歌う、詩神(ムーサ)の
祭司として、娘らや若者たちのために。
恐れられる王者の権は、自らの牧する民に及ぶが、
王者自らは、ユピテルの権に従う。
眉一つにて万事を動かす者の権に従う。
 
七弦琴(リラ)にはあらず。−絵筆にもあらず。−聖文書の打穀場を浄めるわが詩神(ムーサ)のための箕なり。― ― カナン語の聖遺物について講じる大天使(ミヒャエル)に救いあれ。−美しき雌驢馬に乗って*1 彼は馳せ場に勝ちを収める。−しかしギリシャの賢き門外漢(イディオート)はエウテュプロン*2 の誇り高き雄馬を借りて文献学[愛言学]の論争へと討って出る。

 詩は人類の母語である。造園が耕地に−、絵画が文字に−、歌が朗読に−、比喩が推論に−、*3 交換が取引に先立つように。深き眠りこそは我らの祖先の休止。また彼らの動きとは陶酔によろめく舞踏。七日の間、熟考のため黙し、あるいは驚きのため声もなく彼らは座していた。― ― そして、ついに口を開いて、−飛びかける言を語った。

 感覚と激情が語り、解するのは形象に他ならない。形象にこそ人間の認識と至福のすべての宝は存する。創造の初めの突発、またその出来事の記述者の最初の印象。― ― 自然の原初の出現とその最初の享受とは、「光あれ」の言葉において一つに結ぶ。これにより事物の現存の実感が始まる。*4

 ついに神はその栄光の感性的啓示の掉尾に、人間という傑作をもって冠したもうた。彼は人間を神的な形姿(かたち)に創造した。― ― 神の形象(かたち)に彼は人を造った。創造者のこの決定は、人間の本性(自然)とその規定とのこの上なく縺れた結び目を解き放つ。盲目の異邦人たちは人間が神と共にする目に見えぬ相を認識した。覆われた身体の形姿、頭部の顔、また両腕の端、これらは、我々の纏いゆく目に見える図式(シェーマ)である。だが、それは元来、我々の内なる隠れたる人の人差し指に他ならない。−
 「神ノ対応物ハ、如何ナルモノモ小模像ノ内ニアル。」*5
 

 最初の食物は植物界からのものであった。古人の乳、葡萄酒。この太古の詩文を、その博識のScholiast は(ヨタムとヨアの寓話にしたがって*6)植物学的なものと呼ぶ。*7 人間の最初の着衣もまた、一葉の無花果(いちじく)の狂想詩(ぬいあわせ)であった。― ―

 しかし神なる主は皮の衣を作り、それを着せてくださった。−善悪の知識によって羞恥を学んだ我々の祖先に。−母なる窮乏により便利さと諸技術とが産み出されるのであれば、東洋において、着飾る流行、しかも獣の皮を身につける流行がいかにして生じ得たのか。ゴーグ氏と共にその原因を再三訝しむ。私が意味深いとみなす推測をあえて述べてもよいか。― ― 私は、この衣服の由来を、(カナン語ではアバドン、ギリシャ語ではアポリュオンという)老詩人との交際を通じてアダムが知った獣の特性の普遍的持続におく。−それは、その最初に人間を、借用の衣に身をくるみつつも、過ぎ去ったこと、また来るべき出来事を見抜く認識を後世に伝えるように仕向けた。― ―

 「語りたまえ、我、汝をば見まつらんがため。」― ― この願いは創造によって充たされた。創造とは、被造物を通じての被造物への語りかけである。「げに、この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜に知らすがゆえに。」その合言葉の駆けるや全風土に遍く地の果てに及び、いかなる方言にありてもその声は聞かれる。― ― しかし、責が(我々の内ないし外の)いずれに存するにせよ、自然の内には乱れに乱れた(トゥルバート)詩句、また「切リ刻マレタ詩人ノ肢体」の他、何ものも我々の用のために残されていない。それらを拾い集めるのは学者に、それらを解釈するのは哲学者に、それらを模倣するのは*8 −あるいはより大胆に語って― ― それらを組み上げるのは詩人に、各々委ねられた職分である。

 語りとは、翻訳である。−天使の言葉から、人間の言葉へと。すなわち、思想は言葉に−、事物は名称に−、形象は記号へと訳出される。記号とは、詩的、つまり非可訳的(キュリオローギッシュ)なもの、*9 歴史記述的、つまり象徴的(ジュムボーリッシュ)ないし象形文字的(ヒエログリューフィッシュ)なもの、― ― また哲学的、つまり特徴叙述的(カラケテリスティッシュ)なもの*10 でありうる。この種の翻訳(語りと解せよ)は、他ならぬ壁織物の裏側に当てはまる。すなわち
 「素材ヲ示スガ、職人ノ業ヲ示サヌ。」
あるいは、水を満たした器の中に眺められる日蝕に当てはまる。*11

 モーセの松明は、自らの天地を有する知性の世界をも照らす。それゆえベーコンは、諸々の学問を我々の気圏の穹窿の上の水、また下の水と比較した。前者は、火の混じった水晶のようなガラスの海であり、後者は、海から昇りくる人の掌ほどの小さな雲である。

 だが、舞台の創造の人間の創造への関わりは、叙事文学の劇文学への関わりに相当する。前者は言葉によって起こり、後者は行為によって起こった。心よ、穏やかな海原のごとくあれ。― ― 聴け、その御旨を。「我らに型どり、我らの像(かたち)のごとくに人を造り、これに治めしめん。」― ― 見よ、その御業を。「また神なる主、土の塵をもて人を造りたまえり。」― ― 比較せよ、その御旨と御業を。崇めよ、力強き語り手*12 を詩篇詩人と共に。園守と誤られた者*13 を、弟子たちに福音を伝えた女と共に崇めよ。また自由な陶器(すえ)造り*14 を、ヘレニズムの賢人やタルムード読みの学者に対する使途となった者と共に崇めよ。

 象形文字なるアダムとは、巡りゆく象徴の車に全人類の歴史を記述したものである。エヴァの特徴とは、美しき自然とその秩序だった運行の原型である。そのような配列は、行いの聖さに従ってその額飾りの上に記されているのではなく、地の底辺(そこべ)にて作られ、臓物(はらわた)の内に、−事物そのものの腎臓の内に、−隠されてある。

 現在の世(エオーン)の名匠たちよ、汝らのもとに神なる主は深き眠りを下したもう。汝ら、素性疑わしき者たちよ、この眠りを役立てよ。かくしてこのエンデュミアンの肋骨(あばら)より人の魂の最新の版を組み上げよ。真夜中の歌の吟唱詩人がその明け方の夢に、−近くからではないにせよ、−見たその版を。*15 次に来る世(エオーン)は巨人のごとく酔いより醒め、汝らの詩神(ムーサ)を抱擁し、歓呼して彼女に証しせん。「これぞついに我が骨の骨、我が肉の肉」と。

 私には前もって分かっている。かの現代文学のレビ人が、通りすがりにこの狂想詩を検見するようなことがあれば、きっと彼は十字を切るだろうと。四隅を結ばれた大きな亜麻布を前にした聖ペテロが、*16 その中を一目見て、地の四つ足の生き物や野獣、這うものまた空の鳥を見出したごとくに。― ― ― 「南無三、悪鬼に憑かれた者、−サマリヤ人だ。」― ― (このように彼は愛言者(フィロローゲ)を罵るだろう。)−「正統な趣味をもつ読者には、卑しい表現も不純な鉢も相応しくない。」― ― 卑シキコトドモハソモソモ名指ス能ワザルナリ。−見よ、かくしてあいなるはかかる事態。生後八日目なれど、割礼された趣味の著作家が、白く覆われた犬のふぐりばかりを、−人間の生理的要求に栄えあれ、−襁褓(むつき)にくるみ込む。― ― 老フリュギア人の伝説的醜さは、若者イソップの感性美にまさって目につくことはない。アリストに寄せるホラティウスの代表的な頌歌(オード)は、*17 先頃成就した。甘き微笑みのララゲを歌う者の接吻は、彼女の笑みよりもさらに甘く、サビーニー、アープリアまたマウリー族の怪物から伊達者を作った。−無論、人間たらんとして、誰もが著述家となる必要はない。しかし友に対し、作家を考えるにあたってその人間を捨象するように求める者は、哲学的抽象どころか文学的抽象の度が過ぎる。狂躁(オルギア)において、*18 エレウシスの町の神秘劇において完璧を期することなく、諸々の美の業の形而上学に立ち入ることなかれ。だが、諸々の感覚とはセレス、激情とはバッカスだ。−[彼らは]麗しき自然の古き里親たちである。
 
 「ばっかすヨ、来タレ。汝ノ豊饒ノ角ヲ葡萄デ満タセ
 垂穂デ冠ヲ編ミ、頭(こうべ)ヲ飾レ、せれすヨ。」*19
 

 この狂想詩が、かのイスラエルの教師の判断に委ねられるという栄誉を勝ち得ることあれば(― ― 私めが仮に堅果(ヌース)として死者の内に数えられますならば)、生者の国同様、死者の国においても歓迎される聖なる擬人法*20 を用いて彼を迎えよう。
 
  「高邁きわまる碩学にいます尊師(ラビ)よ!
神聖ローマ帝国の郵便馬車の御者は、その紋章の標識に「われ報告をもたらす」という標語を記しておりますが、彼がいつ『聖詩解釈説教』下巻を届けてくれますのか、私は待ち望んでまいりました。待ち焦がれて、−今日の今日まで空しく待ちました。将軍ハツォルの母が、息子の戦車の影を望んで窓辺にうち眺め、格子越しに嘆いたように。― ― それゆえ、私をわるくとられるな。「真の言葉」*21 をもって自らを語るに相応しい時の到来までは、ハムレットの亡霊のように、身振り手振りで私が貴方と語りましても。著名な熱狂者にして教師また文献学者なるアモス・コメニウス*22 の『Orbis pictus』やムツェリの『Exercitis 』が、いまだ専ら手習いをお・さ・ら・い中の子供らにとって水準の高すぎる書物であることを、証明を待たぬ自明のことと尊師が考えるのであれば、― ― まことにまことに、我らは幼子とならねばならぬ。我らが真理の霊を、世の見ることなく(よし見るとも)知ることなきがゆえに世のつかむことがない、かの霊を受けんとするなら― ― 許されよ、我が綴り方の愚かを。我が筆致は、古さにおいて明らかに聖書にまさる入門書より範を取ったもので、それゆえに、尊師の最古の著作の数学上の原罪とも最近の著作の才知溢れる復活とも、韻をふんではおりません。ABCの要素が、任意の記号の限りない結合によって、我々に、天になくとも我々の胸中にある理念を想起させるとしたら、ABCの要素はその自然の意義を失うのだろうか。― ― だが、律法学者の功労(いさおし)に帰される義が文字の亡骸の上へと高められるとき、霊はそれに対して何と言うか。霊は、死者の近従の立場に甘んじるか。あるいはなおも、殺す文字の太刀持ちにとどまるべきか。断じて否。― ― 物体としての事物への広範な洞察にしたがい、私めが思い起こしてさしあげられる以上に尊師はよく御存知にいますが、風は気のままに吹く。−人がその響きを聞かぬにせよ、むら気な風見で人は見て取る、そのいずこより来るか、あるいはむしろいずこにそよぎゆくか。― ― 」
 
 「何タル不届キナ犯罪ダ!貴重ナ書物ヲ破棄スルトハ
 ムシロ敬ウベキ法ノ力ガ崩レル方ガマシデアル。
 ばっかすヨせれすヨ。トク来タリテ助ケタマエ。― ― 」*23
 

 哲学者の見解は自然の様々な読解の仕方であり、神学者の教義は聖書の様々な読解の仕方である。著者こそは自らの言葉の最良の解釈者である。諸々の被造物をとおして−、諸々の事件をとおして−、あるいは聖書の言葉の成り立っている血と火と立ち上る煙*24 を通じて彼が語りたもうとも。

 創造の書は、神が被造物に被造物をとおして顕さんと欲した一般的概念の模範を含む。契約の諸書は、神が人間をとおして人間に啓示せんと欲した秘密の事項の模範を含む。原作者の同一性は、その諸々の著作の方言においてまで映し出される。全ての著作の内に測り難き高さと低さとを併せ持つ一なる音調!栄光極まる尊厳と空しさ極まる自己放棄の一なる証言!神を無に等しき者となし、そのため人は神の存在を良心ゆえに否認するか、自ら愚かな獣*25 とならざるを得ぬ無限の平穏の、―しかし同時に万(よろず)の者を万(よろず)の内に満たすがゆえに、人はその内なる極みへの働きかけより免れること能わぬ無限の力の―奇蹟!− 

 哲学的精神と詩的真理の内なる瞑想趣味や、作詩法(フェルジフィカチオン)の政治手腕*26 が問われるとき、げに人はかの不死のヴォルテールにまさって信を置くにたる証人を引き出し得ようか。彼は宗教を叙事文芸の隅の首石(おやいし)とまで説き、彼の宗教*27 が神話に敵対することを何よりも悔やみ悲しむ。−

 ベーコンは神話を[風神]アイオロスの翼をもつ一人の少年として想い描く。太陽を背に負い、雲を足台とし、ギリシャの笛を吹き鳴らし、退屈を紛らわす少年として。*28

 しかし趣味の神殿に住まう大祭司ヴォルテールは、カヤパ*29 のごとく的確に決定を下し、その思いはヘロデ*30 よりも実り多い。曰(いわ)く、かりに我々の神学が神話ほどの価値を持たぬならば、我々にとって異教徒の詩に比肩することは叶わぬ業と。−況(いわん)や、それを凌ぐことをや。 それは我々の義務と虚栄に最も適う様と。だが我々の文芸が役立たずとすれば、我々の歴史記述はファラオの雌牛よりもやせ細って見えよう。かろうじて妖精物語と宮廷読み物が、我々の歴史記述者の不足を補っている。哲学においては思考の労苦が報われることがない。体系の暦はさらにひどく、−取り散らかした城中の蜘蛛の巣よりも乱れている。厨房ラテン語とスイスドイツ語を正確なニュアンスで理解し、その名が学問する動物の全数Mないしその数の半分で烙印された禄盗人ども。彼らが皆虚言を弄するので、長椅子もその上に腰を下ろした木偶の棒も「遣っつけろ」と叫ばざるをえない。長椅子が耳を持ち、木偶の棒が、腹立ち紛れの嘲りにいくら聴衆と呼ばれても、そもそも耳で聴く練修を積んでいればの話だが。― ― ―
 
  「オイテュプロンの鞭はどこだ。臆病な駄馬め。
  俺の荷車をはまりこんだままにはするな。― ― ― 」
 

 神話よ、去れ。神話よ、去れ。*31 詩は美しき自然の模倣である。−しかしニューウエンティやニュートン、ビュフォンらの啓示は悪趣味の寓話理論を代表できるものであろうか。― ― もちろん、彼らはそれを為すべきであるし、できるものなら、実際に行うであろう。−なぜそうはいかないのか。−できっこないからだ、と汝らの詩人たちは言う。

 自然は感覚と激情とをとおして働く。自然の道具を毀損する者が、どうして感じることがあろうか。不随となったセン血管も運動へと駆り立てられるだろうか。― ―

 策謀好きな君たちの哲学は自然を片付けてしまった。それなのになぜ、君たちは自然の模倣を我々に強いるのか。−自然に学ぶ弟子たちを打ち殺す楽しみをも、加えて享受するためである。−

 まことに、君たち繊細な批評家たちは、つねに真理とは何かと尋ねる。だが、この問いにはいかなる返答も期待できないので、君たちは扉に手を伸ばす。−君たちの手はいつも洗われてあるのだ。パンを食うためであれ、あるいは血の判決を下したときであれ。−君たちはまた尋ねないのか。どうやって君たちが自然を片付けてしまったかを。― ― ― 君たちは自然を抽象によって虐待すると、ベーコンは君たちを断罪している。ベーコンの証しが真(まこと)とあれば、結構、では石撃ちにするがよい。−石塊と雪礫とをもて彼の影を逐え。― ― ―

 唯一の真理が太陽のごとく支配する時。それが昼である。この唯一のものに代わって海辺の砂のごとく多くのものを見るとき、−さらに、かの太陽光の全軍列を輝きにおいて凌ぐ*33 小さな光*32 を見るとき、それが、詩人や盗人の惚れ込む夜である。― ― 世の創まりの詩人*34 とは、世の終末(おわり)の盗人*35 と同一なる者。― ―

 君たちがかの創造の初子(ういご)を窒息させるやいなや、美しい世界の色彩はことごとく色褪せる。腹が君たちの神なら、君たちの頭髪すらも腹の意のままになる。いずれの被造物も代わる代わる君たちの犠牲(いけにえ)となり、また偶像となる。−おのが願いによらず−されど望みは残され−[虚無(むなしき)に]服せしめられて、被造物は服従のもと、あるいは自らの虚栄[の姿]のゆえに呻く。被造物は最善を尽くして君たちの横暴を逃れんとし、また、かつて神が人のもとへ獣たちを連れ来たりて、人がいかに名指すかを見んとされた際に、獣らがアダムを敬ったあの[服従の]自由に憧れて、これを熱烈にかき抱かんとする。げに、人(アダム)が彼らを名指すごとく彼らは称すべきであったがゆえに。

 創造主に対する人間のこの類比(アナロギー)[の回復]は、全ての被造物にその内実と刻印を授け与えるものである。全自然界における至誠と信頼は、この一事にかかっている。この理想、すなわち見えざる神の似姿*36 が我らの心性の内に生き生きと脈づくほどに、我らには、神の慈しみを被造物の内に見、味わい、しかと眺め、手をもて触れることがいっそう可能となる。人間の内に記されている自然のいかなる印象も、「主は誰であり給うか」という根本真理を想起させるのみならず、この真理を保証するものである。被造物に対する人間の反応は、いずれも、神の本性への我々の関与*37 を告げ、かつ我々が彼の族(やから)*38 なることを告げる書状にして封印である。

 金を精錬する者の火のごとく、布晒(さらし)の灰汁(あく)のごとき詩神(ムーサ)よ。*39 ― ― 彼女は、抽象作用の不自然な使用*40 より感覚の自然な使用を浄める企てを敢行するであろう。この[抽象の]ゆえに、事物についての我々の概念は毀損され、創造主の御名は虐げられ汚されている。我が語る相手は、君たち、ギリシャ人(びと)。君たちが、グノーシスの鍵を手にした侍従にまさって自らを賢しと思いなすがゆえに。−試みに一度、予め抽象によりαとωの両母音をふるい分けた上でイーリアスを読んでみよ。そして詩人の言わんとするところと響きとについて、君たちの思いを私に述べて見よ。
 「女神、*きれうす  *、怒リ*ウ*エ」

 見よ、世間知の大小のマソラは、自然の本文を洪水のごとく覆い隠した。自然の諸々の美と富のことごとくは、抗(あらが)うすべなく水泡に帰していくではないか。−しかし君たちは、かつて神々が、柏の木、*42 塩の柱、また石化術や錬金術による変容の寓話によって、人類を納得させようとうち興じた様にまさって、*41 はるかに大いなる奇蹟を為す。−君たちは、自然を自らの導き手に欲して、自然を盲目となす。すなわち君たちは、むしろエピクロス主義によって自分の眼をえぐり出してしまったのだ。自然の五本の指より霊感と解釈とを吸い取る預言者と見なされんがために。−君たちは、自然を支配せんと欲して、ストア主義のゆえに自らの手足を縛る。かくして、金剛石造りの運命の枷について、君たちの様々な詩の内にいっそう胸を打つ声色で歌い込めるように計らうのだ。

 恥辱の肢(えだ)たるの故をもって、激情は、男の武器であることを止めるか。君たちは、天国のために自ら閹(えん)人となった、アレクサンドリア教会のかの寓意(アレゴリー)の徒なる宦官にまさって理性の文字を聡(さと)く理解するのか。自らを虐(さいな)むことに最も秀でたる者を、この世(アイオーン)の君はその寵児と為す。― ― 彼の宮廷道化たちは美しき自然の不倶戴天の敵である。けだし、自然は[キュベレ母神の]司祭(コリュバント)やガリア人の連中をその牧師稼業に仕えさせてはいても、その実、真の崇拝者として強き精神の持ち主をも擁しているのである。

 サウル*43 のごときある哲学者は修道士の律法を立てる。― ― 独り激情こそは、諸々の抽象や仮説に手足や翼を備え、−諸々の形象や記号に霊と命と舌とを与える。― ― いずこに、これに勝れる迅速な推論やあらん。いずこに、雄弁の鳴り轟く雷、その仲間(ともがら)なる−寸鉄の稲妻*44は産み出されん。― ―

 身分、栄誉また品格において無知なる読者よ、なぜ私は君たちのために一つの語を無数の語をもって書き換えねばならないのか。読者自らが、人間社会の至る所で情熱の諸現象を観察しうるというのに。すなわち、すべて遥か遠くにあるものが、特定の方向をもった情念において心を捕らえたり、個々の実感が全ての外的対象の範囲を越えて広まったり、*45 我々が、ごくありきたりの事柄を、自分に適用して我がものとなすことができたり、その土地固有の状況を天と地の公的演劇として孵したりすることを。−どんな個人的真理も、かの牛皮が一国家の領土となりゆくにまして、一つの構想の平原へとすばらしく生い育つ。また半球を凌ぐまでに広大な構想を一つの鋭い視点が獲得する。― ― 要するに、企画の完璧さと遂行の力強さ、−新たなる理想また新たなる表現の受胎と生誕、賢者の働きと休止、くわえて彼の慰撫と嘔吐、これらは激情の多産な懐に抱かれ、我々の感覚の前に埋もれている。

 文献学者(フィロローゲ)の聴衆、すなわち読者の世界は、プラトンただ独りが満たしたあの講堂に似ているように見える。*46 −アンティマクスは安んじて[彼の話の]先を続けたのだった。−こう記されているとおりである、
 「満チ足リルマデ、蛭ノゴトク」と。
 

 まさしく我々の学びが単なる想起であるかのごとく、人は絶えず我々に、精神を記憶によって形作る古人の記念碑を示唆する。しかし、なぜゆえに人はギリシャ人の穴のあいた水溜のもとにとどまって、古代の最も生き生きとした水源を捨て去るのか。ギリシャ人やローマ人において、我々が驚嘆のあまり偶像崇拝にまで至りそうになるものを、あるいは我々自ら正しく知らないのかもしれぬ。それゆえに我々の象徴教本には呪わしき矛盾*47 が生じる。今日に至るまでその本は、羊の皮の装丁で飾られているが、内は、−まさしく内側は、死者の骨に満ち、偽善者然とした悪徳に充ちている。*48

 おのが肉の顔を鏡の内に見、しかしこれを見た時より隔たった後、おのが姿がいかなりしかを忘れ果てる男のごとく、実際我々は古人と交わるのである。−画家は[これとは]全く違う仕方で自分の鏡像に向かう。−ナルシス(かの美的精神の鱗茎植物)は、自分の像を自分の生命以上に慕うのである。*49

 救いはユダヤ人から来る。−いまだ私はそれを見ていない。しかし、私が彼らの哲学的著作の内に健全な概念を期待したのは、−キリストの者たちよ、−君たちを恥じ入らすためである。−しかし君たちは、君たちがその名で呼ばれる*50 良き名に棘を覚えることもなく、また、人の子なる自己謙卑の名をもって神の与えんとする栄誉を感じ取ることもない。― ― ―

 こうして、自然と聖書とは、美を解し創作と模倣をこととする精神の素材である。― ― ベーコン*51 はこの材料をペネローペに等しいとする。−彼女の厚かましい求婚者たちは、哲学者であり、律法学者である。イタカの館に現れた乞食の物語を君たちは知っていよう。その物語をホメーロスはギリシャ詩句に、ポープは英詩句に翻訳しなかったろうか。― ―

 だが我々は、死滅した自然の言葉を何によって死者たちのもとより再び甦らすべきか。― ― 幸多きアラビアへの巡礼行によって、東方の国々への十字軍行によって。またその国々の魔術の再興によって。彼らの呪術は至上のものゆえに、我々はこれを昔ながらの女の手練(てくだ)によって我々の獲物とせねばならぬ。−怠惰な腹ども。眼を閉じて呪術についてのベーコンの詩作を読め。−舞踏靴の内に絹に装われた君たちの足はかくも難儀多き旅に絶ええぬであろうから、双曲線[誇張]により最短路を示されるがよい。−*52

 汝、汝こそは天を裂いて下り来たもう。−その到来を迎えて山々は崩れ、激しく燃えさかる炎に沸き立つ熱湯のごとく振るい動かん。かくして、汝の御名はまさしく彼の名をもて呼ばれたる者らの敵に告げ知らされ、油注がれたる異邦人らは汝の為したもう人の思いもよらぬ奇蹟に震え戦(おのの)くことを学ばん。−新たなる鬼火をして東の国に上らしめよ。−君たちの賢者の好奇心を新たなる星々によりて目覚めしめ、我らがために君たちの宝を自ら田舎へと担いゆかしめよ。−没薬、香煙かつ君たちの金、その価は我らにとりて君たちの魔術に勝る。−これによりて王侯どもを欺き、その哲学の詩神(ムーサ)をして、幼子とその教えを虐げるべく、空しく息を荒だたしめよ。されどラケルをして甲斐なく泣かしめてはならぬ。― ―

 預言者の徒(ともがら)のために羹(あつもの)を食(くら)いうるものとなさんがために、さらに我らはいかにして釜の内なる死を呑み込むべきか。何によりて我らは聖書の憂いたる霊を宥めるべきか。「我いかで牡牛の肉をくらい牡山羊の血を飲まんや。」パリサイ的正統主義の教義的精通も、サドカイ的自由精神の文学的放縦も、御霊の使命を新たにはしない。御霊こそは、神の聖者らを駆って(機ヲ得ルモ、機ヲ得ザルモ)語らしめ、記せしめた。― ― 父の懐にいます独り子の慈しまれたかの弟子は、我らに宣べ伝えた。預言の霊は唯一の名の証しに生き、この名によってのみ我らには、幸いを得ること、現在かつ未来の約束を嗣ぐことが叶うと。−その名とは、受けた者の他は誰も知らず、全ての名に勝る。かくして、イエスの名において、天地、また地の底なる全ての者は腰をかがめ、全ての証人は告白すべきである。主イエス・キリストに神の栄光あれと。−この創造の主が永遠に讃め称えられてあるようにと。アーメン。

 かくして、イエスの証しこそは預言の霊である。*53 彼の僕の姿に潜む尊厳を顕すべく、この霊の示す最初の徴こそは、聖なる契約の書をして、料理長(ふるまいがしら)の判断を欺き、批評家の弱き胃を強くする古き良き酒と変わらしめる。カルタゴの*54 教父は言う。預言書を読み、[その内に]キリストを理解しないなら、かくも無味乾燥にして愚かな何ものを、君は見出すだろうか。その内にキリストを理解するならば、君の読むものは美味なるにとどまらず、酔わせもすると。−「だがここで、厚かましく高慢な精神の持ち主には一言告げおこう。― ― これに堪え、強い葡萄酒を飲む前に、アダムは死なざるべからず。ゆえに君が乳飲み子の内は、葡萄酒を飲まぬよう心せよ。いずれの教えもその尺度、時、年齢を持つ。」*55

 神は自然と聖書をとおして、被造物と先見者をとおして、公理と図形をとおして詩人と預言者をとおして、心を尽くし、息を切らして(霊を余すところなく注いで)語り給うた後、日の夕暮れに、その御子によりて我らに語りたもうた。−昨日も今日も−もはや僕の形姿ならぬ、−彼の到来の約束の再び充たされるその時まで。−
 
 「汝、栄誉(はえ)ある王、主イエス・キリスト
 汝は父なる神の永遠(とわ)の御子にいませど
 処女(おとめ)の胎を厭わずして― ― 」*56
 

 我らの機知に溢れたソフィストどもは、ユダヤ人の律法者を驢馬の頭に等しく評価し、彼らの内の名歌手の箴言詩を鳩の糞のごとく評価するが、彼らを間抜けな悪魔として叱りつけるとき、人はこれを汚しごとと判定を下すであろう。されどその涜しごとは主の日となるべし― ― ― とある日曜、真夜中よりも暗く、その日、無敵艦隊は刈り株とならん。― ― 好色の西風、終末の嵐の先触れは、独り万軍の主のみ考え言い表しうるほど、−あまりにも詩的に、−力強く角笛を鳴り響かせる。― ― アブラハムの喜びは頂の極みに達し、−彼の杯は溢れる。−最後の涙は、エジプトの最後の女王の慢心の振る舞いに用いられる全ての真珠に勝りて測り難く貴い。−ソドムの最後の炎に対し、また最後の殉教者*57 の誘惑に対して流されるこの最後の涙を、信仰者の父アブラハムの眼より、神は手ずから拭い去るべし。― ―

 主の死を告げ知らすべくキリストの者らを勇気づけるかの主の日は、地獄の業火に定められた全ての天使の内でも愚かさ極まれる村悪魔どもを明らかにしよう。悪魔[すら]もこれを信じ、懼れ戦(おのの)いている。−しかし、理性の狡猾によって狂わされた君たちの感性は懼れ戦(おのの)くことがない。−君たちは、罪人アダムが林檎にて、賢人アナクレオンが葡萄の種にて喉を詰まらせるとき、これを嗤う。−君たちは、鵞鳥がカピトルの丘を救援し、−イスラエルの砲兵隊・騎兵隊の鑑(かがみ)となった愛国の徒を鴉が養うとき、嗤わないのか。−君たちは、神が十字架に架けられ、罪人の内に数えられ、−また、ゲンフやローマにてオペラ座またモスク寺院における醜聞が神格化され、あるいは南瓜とせられるとき、己が身の盲目を密かに祝うのだ。― ―
 
 かく告げて二匹の蛇を描くべし。「ここは聖(きよ)き場所(ところ)ぞ。
 小僧ども、小便は無用。」されば我出で行かん― ― ―  ペルジウス
 

 一人の天才の誕生日には、いつもながら無辜の幼子たちの殉教祭が付き物である。−余が押韻と詩脚とを、我々の現代文学に関して生死の瀬戸際の危機にあるらしい無辜の幼子たちになぞらえることを許されよ。

 押韻が掛詞*58 の一族に属するものとあれば、その出自は、言葉の本性と我々の感覚のイメージとほぼ等しく古いに違いない。― ― 押韻の軛の重みに耐え難いからといって、その才能*59 の迫害を正当化する根拠にはならぬ。さもなくば、プラトンが饗宴でアリストパネスのしゃっくりを、またスカロンが自らのそれをソネットで永遠化したごとく、かの独身の年輩男はこの軽薄な筆致にたびたび訴えて、棘ある批判書を記す契機としたことであろう。

 叙情歌の偉大なる再建者クロプシュトックが敢えて用いた自由な[韻律の]組立は、察するに古式のもので、ヘブライ人の聖文学の謎めいた仕組みをうまく模倣している。我々の時代の厳格な批評家*60 が鋭く観察するところによれば、その仕組みとはまさしく、「作られた散文であり、その最小の部分にまで分析していくならば、その小節のいずれにも、特別な音節の長短を持つ個々の詩行を見ることができる。古代の聖詩人たちの考察と感覚は、自ずから」(あるいはエピクロスの光子と同様に、たまたま)「対称的な行に並べられたらしい。それらは、(予め定められた規則的な)音節の長短を持たないが、良い響きを備えている。」

 ホメーロスの単調な詩脚は、すくなくとも我々には、このドイツのピンダロス*61 の放縦と同様に矛盾めいたものに見える。このギリシャ詩人における均一な音節の長短についての我が驚嘆また無知は、クールラントやリーフラントの旅で緩和された。この地域のある所では、ラトヴィアの非ドイツ人が労働の最中つねに歌うのを耳にすることができる。しかしそれは、わずかな音のカデンツに他ならず、詩脚にきわめてよく似ている。彼らの間に詩人が生まれるならば、その詩句はすべて彼らの声の音節の長短によって導かれ、これに合わせて切られるであろう。この些細な事情を、(あるいは、焼き籠手にて縮めようとする卑しき趣味の人々の気に入るようにし)、相応しい光のもとに置き、多くの現象と比べ、その根拠を跡づけ、実り多き帰結を展開するためには、あまりにも多くの時を要しよう。−
 
 すでに久しく、神々の父は、雪や恐ろしい霰を
 降らせた。その赤き灼熱の右の手は、
 聖なる錫を打ち、ローマや諸々の民族を
            縮み上がらせた。
 
 身の毛もよだつ奇蹟に取り巻かれ、嘆息した
 ピュラが再び帰り来る時には、
 老プロテウスは高き山の頂に
            その家畜どもを逐った。― ―   ホラティウス
 
 
 
         後註
 
 このカバラ的散文の狂想詩の最年長の読者として、余は、長子の権利に基づき、わが後に続く若年の兄弟たちにいまひとつ憐れみの判定の例を残し置く義務を覚える。すなわち以下のごとし。

 この美学の堅果(くるみ)の内なる全ての味わいは空虚(むなしき)。空虚(むなしき)に帰する。狂想詩人(ラプソディスト)*62 は、読み、観察し、考察を重ね、相応しき言葉を求め見いだし、忠実に引用し、商人の船のごとくその食料を遠方から取り寄せ、彼方より運び来たった。彼は、戦場の矢*63 を数えるごとく文と文とを加算し、天幕の釘を測るごとくその形象の射程を計測した。釘と矢の代わりに、彼は時代の小匠や字句拘泥者とともに ******** や ― ― ― ― ― ― ― ― [すなわち]繋線(オベリスク)や星印(アステリスク)*64 を記した。

 さていまや、彼の最古にして最新の美学の主要な成果を聴こうではないか。すなわち曰く。

 神を畏れ、彼に栄誉(ほまれ)を帰すべし。げに、彼の審判(さばき)の時来たればなり。また天と地と海と水の源を造りし者を崇めまつれ。