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書窓の隙間
創作 Ballade

 


ミステルの旅立 ――ein Märchen



  Es war einmal ...

 むかしむかしのこと、

といっても、遠いむかしではなく、

殺戮と疫病が国々を席捲した

二十余年に亘る戦いの帰趨が未だ定まらぬ

あわただしく不穏な時代のこと。

度重なる戦争で勢いをましたある公国の

東の国境(くにざかい)からさほど遠くない

ちいさな村をはずれた森に

ひとりの男の子が暮らしておりました。

その子はある楽器職人の子どもでしたが、

ボヘミヤか、さらにその果ての

どこか遠い国からの遍歴のすえ

いつしかその森に居着くようになった

無口で愛想のないこの男を

村びとはいつまでも斜めに睨んで

ついに親しく交わりませんでしたので、

その子もどこかに母親がいるのかいないのか

その居所も名も知られませんでした。



 親たちの心はおのずから

子どもたちにもつたわります。

男の子の姿はたいてい

森のどこかでみとめられましたが、

その姿はいつもひとりで、

子どもたちと交わる事はありませんでした。

半人前の役立たずと怒鳴られながらも

なにかと大人を真似る彼らからすれば

その子はまったく可笑しな奴でした。

仄暗い森のなかから出ることもなく

色白で娘のように華奢な手足をし

髪はちじれて麻糸玉のようでしたので

村びとたちはたわむれに男の子を

あの宿り木(ミステル)の小僧と呼びならわし、

子どもたちもその口調をまねて囃しました。

男の子がいつも森の縁に聳える菩提樹の

人の背丈の倍ほどのところ

幹が幾つにも分かれたところに跨がり、

街道をたどるひとびとの姿を

日暮らし飽きもせずに眺めていたからです。



 村びとが男の子を避けたのは

ほかにも理由(わけ)がありました。

この森にさしかかる旅人は

運が良ければこの菩提樹の梢から

ときおり響きわたる音楽に驚かされ、

しばらく歩みを止(とど)めることになるのでした。

そう、男の子はいつも分身のように

一挺の楽器をたずさえていて、

それを巧みに弾きこなしました。

おそらく父が晩年の手すさびに

伎倆を尽くして与えたものでしょう、

かたちはヴァイオリンに似ていましたが、

そのちいさな体にはすこし大振りの

ヴィオール属の何かであったと思われます。

菩提樹の大枝に身を預けるようにして

巧みに釣りあいをたもちながら

その大きな楽器をあやつる姿は、

まるで妖精か別世界の霊のようで、

葉むらの陰にその姿を認めた旅人は

おもわず十字を切ることさえありました。



 ときおり風の音に混じって

弦の響きが森から聞こえてくると

村びとは不思議な想いにかられるのでした。

それは季節のかわりめに決まって

湖を渡ってゆく風のざわめきのよう、

あるいはこれに応える波の轟きのよう。

その響きはほかならぬ村人自身の

胸の奥底から滲みだしてくるかに思われ、

定まらぬ想いで心を捩らせる楽の音は、

村人にとってはむしろ懼ろしく

忌々しげに鎧戸をおろす者さえありました。

その不思議な奏者の評判はむしろ

遙か外の世界に伝わりました。

ある日、都へ帰還する騎士が

その才能を鄙に捨てておくのはもったいない、

名のある宮廷楽団に入ったら

少しは世のためにもなるだろうに、

何なら口をきいてもいい、と誘いました。

楽団? と男の子はいぶかしげに応え

とても乗り気には見えませんでしたが、

樹上で暫くもの思いにふけっているうちに、

ある時ぱったりと弦の響きが途絶え、 村には噂のみが残りました。

ミステルが日曜日のような身なりで

ひとり街道を歩んでいったと。



 ここが都の栄えある楽堂と

人づてに聞いた建物の正面では

通用口に廻れと衛士に逐いやられましたが、

そこに待ち続けて人づてに頼みこむと、

なんとか演奏を聞いてもらえるとのこと。

それは楽団員の気まぐれによるものでしたが

ともかくもはじめの扉は開かれました。

ミステルが都に着いた頃といえば、

長びく疫病と間近に迫った戦争の気配で

街は不穏な気分にみちていました。

管は軍楽をやって士気を挙げられましたが

弦楽は如何にしても時機に外れて、

数ヶ月も演奏の沙汰すらありません。

弦を奏する人びとの心も感動から遠のき

ひっそりと鳴らなくなっておりました。

ミステルが練習の場に踏み入ると案の定

あの姿は何だ、卑しい生まれがまるだしだ、

演奏も下品な響きにきまっていると、

嘲笑やひやかしの声が聞こえてきました。



 そこに屯している楽士たちは

練習をしていた雰囲気ではありません。

酒瓶を抱きしめてあちらへよろよろ

こちらへよろよろとする赤ら顔も混じって、

それは思いもよらぬ眺めでしたが、

ミステルは落ち着いて目をつむると

菩提樹の梢をわたる風の音が聞こえます。

懐かしい大枝に身を預けたときのように、

椅子にしっかりと腰を下ろし

背中をうしろに傾けるようにして、

弓をおもむろに弦にゆだねます。

すると広間にいきなり風がそよぎ

響きは一気に夏の嵐へと転じてゆきます。

森羅万象がつぎつぎと現れては舞い、

星々がそれぞれの歌を歌いました。

始まったときのように、響きは止みます。

鳴り止みましたが、なお忘れ得ぬ音色に

楽士たちは魅せられたように、

いやむしろ打ちのめされたように、

みな蒼白になって一言の声も出ません。

赤ら顔の酔いもすっかり醒めてしまいました。



 それは由緒ある楽器のようだが、

ならば相応しく、天を仰ぎみるように

もっと背筋を伸ばして弾かねばならん。

かろうじて楽長が口を開くと、

その言葉にようやく力を得たのか

楽団員のひとりが楽長に諂うように

面白い楽器だがどうやらヴィオールらしい、

それなら俺たちのガンベも弾いて見せろと、

埃の積もった楽器置場を漁り

保管庫の隅から古い楽器を持ち出してきて、

抛るようにぞんざいな仕方で

ミステルの上から押さえつけました。

それはミステルの背丈ほどもあり

重みで息もできないのではと思われましたが、

不思議なことにも楽々と支えられます。

後ろから左手が十分に弦に届き、

右側から弓をさしのべることも出来ます。

まるで楽器がみずから寄り添うように

その腰を細めたかのようでした。

ミステルは楽器を体全体で受けとめると

ふたたび菩提樹の梢を思い描きました。

弓がまたひとりでに動き、ただこのたびは

ミステル自身が思いもよらぬことに

甘い愛の音色が響きだしたのです。



 先ほどの演奏にまさって

楽士たちのおどろきは大きなものでした。

いままで彼らの誰ひとりとして

その楽器をこれほどに奏せなかったのです。

曲はすでに終わっているというのに

驚きと深い満足とでだれも声を上げません。

沈黙を破ったのはふたたび楽長の批評でした。

神聖な楽器なのだから、天を仰ぎみるように

もっと背筋を伸ばして弾かねばならん。

さきほどとまったく同じ台詞ですが、

言葉も繰り返すと重みを生じるものです。

たしかに音楽とは響きや音色だけではない

演奏をする姿勢も伎倆の一部だからと、

楽団員もなんとか自分を納得させ

ようやく自尊心を取り戻すことができて、

楽長も面目を保つことになりました。

仰向けに寝ころんで弾くような者は

栄えある宮廷楽団の奏者にはふさわしくない。

それがミステルの得た評価でした。

こののちも楽団員たちは不本意ながら

幾度もこの試験演奏の場を思い出しましたが、

そのたびごとに自分に言い聞かせました。

寝ころんで演奏するような下卑た奴は

そもそも楽人としてふさわしくないのだと。



 任用の願いが叶わないのは仕方ない、

それはそれでよかった、とミステルは思い、

爽やかな気持で宮廷楽団を後にしました。

ただあの楽器と離れねばならないことだけは、

心に痛みを遺しました。心のひとところに

むかしから大きな隙間があったようです。

いままで気づかなかったのはなぜでしょう。

楽器の腰部にあざみ(ディステル)と記されていたのは、

どこか由緒ある工房の銘でしょうか。

あの楽器を心から懐かしむ想念(おもい)と

懐かしんでも仕方がないという諦念(あきらめ)は、

ミステルの演奏に新しい響きを加えました。

そののち彼は森にふたたび還ることなく、

都をはなれて、ほかの町々を経巡り

街角や辻で人々に請われるままに弾いて、

口に糊する術(すべ)を学びましたが、

天然の時々の響きを映しだすのみならず

心の奥深い喜びや憂いのこもった音色が、

また何よりも愛を知る者のひそかな哀しみが、

道すがら耳を傾ける人の心を捉え、

荒んだ時代に慰めの泉となりました。



 それから幾度か年のめぐりを経た

ある春のはじめ、あの菩提樹の梢に

ふたたび弦の音が響き、再びあの縮れ髪と、

大枝に身を預けて楽器を奏する

ミステルの姿が認められました。

辻楽師として数年を旅また旅に過ごし、

いま故郷(ふるさと)の森に辿りついたのでした。

遍歴の間に世界はすっかり様変わりしました。

都を制した帝国の将軍は、芸術を

贅沢な浪費と断じ、楽団は解散させられ、

人も楽器もちりぢりになったとの噂でした。

故郷の森に父の姿はすでになく

菩提樹の他に彼を待つものはありませんでした。

ミステル自身の容貌(すがた)も若者らしく変わり

体躯(からだ)はいくぶん逞しくなりました。

奏する音色はいっそう多彩になり

呼びおこす感情もよりゆたかになっています。

耳を澄ますと、はじめは呻くように

万有のすべての願いを潜めた音色から

彼方へと憧れるような輝きが生まれ、

響きは希みを告白することばの

穏やかな愛(かな)しみに転じていきます。



 ふとミステルは気づきます。どこからか

彼の演奏に応える響きのあることに。

近づいてはまた遠ざかり、消えたかと思うと、

思いがけないところから再び近づいてくる。

ミステルが問いかけるように一楽節(フレーズ)を弾くと、

これに応えるように同じ楽節を繰り返したり

あるいは別な音階で問い返したり、

ミステルがこれに気づいて弓を急がせると、

その響きは一生懸命これを追いかけ

ふたつの旋律が重なり、組みあわさって

おのずから一つの遁走曲(フーガ)ができあがります。

その響きは人の声、澄んだソプラノでした。

ますます近づいてくるその歌声は、

伴奏として生活のさまざまな音を纏っています。

重い荷を負った驢馬のかんだかい嘶きや

馬に牽かせた荷車が轍にきしむ音、

家畜を逐う男たちと女たちの戯れと

諍いの声。それらがみなひとつとなって

いよいよ村の境ちかく、菩提樹にまで迫り、

姿がミステルの目にも映るようになりました。



 間近に迫った戦争と迫害の手を逃れ

故郷を後にしてきた人々の群でした。

眼差しにはみな、それぞれに味わってきた

つらい出来事の思い出からでしょうか

懼れや憂いのなごりが刻まれていますが、

ひとりびとりの振舞いや身振りには

たがいへのいたわりがあふれています。

一行の真ん中をゆく荷車の上に

ミステルはひとりの娘の姿をみとめ、

あの遁走曲の相手とすぐに気づきました。

娘は娘で、やはりミステルをただちに認めて

信頼をよせる眼差しで見つめ返します。

その面持ちと姿はどこかで見たことがある

かつてどこかで彼に親しく寄り添い

その一途な心で見守ってくれたのではと、

それはとてもありえないことですが、

ミステルには不思議な確信がありました。

その晩は森に宿営を定めたいのだがと、

長(おさ)らしき老人がミステルに挨拶を告げ、

宿営の交わりに加わるようにと招きます。

ミステルはよろこんで応じましたが、

どうしても気になって仕方がないのは、

さきほどの伸びやかな歌声とうって変わり

気恥ずかしげに見つめている娘の眼差し。

長に告げられた娘の名前はなんと

――ディステルといいました。



 あの楽器に記されていた銘と同じ、

これは何という一致でしょう、偶然か

それともなにかの計らいなのでしょうか。

その名とその歌声、そしてその眼差し、

それらはひとつの組曲と思われました。

果たしてそれらはミステルの音楽と、また

ミステルの心と一つのものとなったのです。

――ただそれを物語るまえに、いまひとつ、

ことの順序として伝えねばならぬことが。

その夜のこと、楽しい宴の声は途絶え、

ひとは宿営のあちらへ、またこちらへと退き、

それぞれの荷車のあたり、設えられた

寝床から深い寝息が響きだしてくる頃、

闇のなかに、いきなり物音がしました。

何事か。不安がミステルの心をよぎります。

宴の幸いを想いかえし、ひとり眠れずに

名残のたのしみに浸っていましたが、

彼にはたしかにその音が聞こえました。

忍び寄る跫音。急いではね起きて……

日月を重ねた経験は無駄ではありません。

襲撃。略奪。打ち壊し。殺戮です。

宿営を廻って急を告げようとすると、

案の定、いきなり奇声があがりました。

なだれ込んでくる黒い影。怒号。悲鳴。

ディステルは大丈夫か。彼女はきっと……

弾かれたように彼女のもとへと奔ります。



 宿営の中は、すでに破壊があふれ、

猛りくるった怒りが渦まいています。

腕を振りおろす沢山の人影のただなか

わずかな星明かりのもと、ミステルは

たしかに見知った顔をみとめました。

かつて彼を遠巻きにしていた子ども。

かつてのあどけなさを残した眼が

闇を漁っている姿を確かに見ました。

大人たちの荒々しい暴虐のなかへと

自分もまた挑んでいこうとする

その悦びの眼差しを確かに見ました。

ならば村の人々です、襲ってきたのは。

どうしてでしょう。そんなことが……

不思議ではありません。世の常として、

虐げられた恨みはより弱い者に向かう、

それもまた世の民のならいでは。

皇帝軍が辺りを進攻していくたびに

殺戮と略奪で家や同胞を失い、疲れきった

憎しみには、捌け口が必要なのでした。

おまけに、怖ろしい疫病(えやみ)を運んでくるのは

いつも傍若無人の余所者だったからと。

あの宿り木(ミステル)の小僧が帰ってきた、

しかも忌まわしい悪疫とともに……



 憶測は何も生みません。そもそも

襲撃の理由(わけ)を顧みる余裕(ひま)もありません。

ただただやるせない気持ちとともに

ミステルは走りました。勝手を知った

森の闇のなかではこちらに利がある、

?もうとする手をうまくかいくぐり、

ディステルのことだけが気がかりで

怯えているのではと、寝所に走りました。

思いのほか落ちついた眼差しで、

待っていたように彼を迎えた彼女は

さあ、と速やかに藪のなかへ彼を招き、

次の瞬間、二人は同時に駆け出します。

森の奥へ、闇の更にさらに奥へと。

後ろから追っ手の跫音が迫ってきます。

ミステルはディステルの腰を支え

足もとを護って必死に導こうとすると、

肩を交わした彼女の足の運びは

思いの外しっかりとして、まるで

牝鹿の奔りのようにしなやかです。

むしろ自分も、彼女の身体に支えられて

一緒に駈けているかのように思われ、

ああ この感覚は味わったことがある、

これが初めてではないと、仄かな確信が

怖れで充ちた心に灯るのを覚え……



 気がつくと、奥深い森の底に。

いつのまにか眠りに落ちていたらしい。

ディステルはと目をやると、彼女は

さあ、とミステルに楽器を差し出します。

取るものも取りあえず飛び出したはずが、

知らずして楽器を抱えていたのでしょうか。

まさかディステルがと、問いかけようとする

その眼差しに、ただ微笑みを返して

ディステルは、東の彼方を指さします。

森の向こう、川を越えれば辺境伯の領地。

樹木の途絶えた荒れ地には、きっと

荊とあざみが生い茂っている。二人で

誰もが嫌う荊とあざみの野を抜けて往こう、

この娘と旅路の労苦をともにしながら。

こうして彼の姿はふたたびその地より消え、

再び人々の目にとまることはありませんでした。

めでたし目出度し、と手放しでは言えずとも、

お話を終えるのならここらが一区切り――

そののち見聞きされた世界のうつりかわり、

国々の相あらそう歴史のなりゆきや

流浪の民がなめた苦難の旅程を想うとき

望みは軽薄なものではありえません。

ただミステルとディステルの生涯もまた

きっとかれらの音楽のように、希望と

不思議に充ちたものと信ずるならば、

彼らは今もきっとそんなふうに

暮らしつづけていることでしょう。

... so leben sie auch heute.





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