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書窓の隙間
創作 Novelle

 

リオバのために



  列車を降りると、私の名前を呼ぶ声がした。到着した人や迎える人の間を抜けて近づいてくる。彼女だ。あの身ぶりは間違いない。少し険しげな眼差しに湛えられた麗らかな笑み。年月の深みが加わっているが、変わってはいない。近づきながら差し出された手も、きびきびとした昔の仕草のまま。だが変わったこともあるのか。安堵と戸惑いが一つになった落ち着かぬ思いで、私も手を差し出した。

  今回の研修が決まったとき、すぐに気がついた。列車で辿る行程はまず彼女が住む町を通る。かつて帰国した頃は頻繁に手紙を交わしたが、もう久しく無沙汰をしている。年月の隔たりに躊躇いはあるけれど、ともかく連絡はしてみよう。だがどこへしまったか、住所がなかなか見つからない。漸く昔の手帖を探し出した時はもう出発の直前。ともかくも慣れない電話をかけてみることにした……

  まだ暗いうちに空港を発った列車が着いたのは、朝の営みの始まる頃。てきぱきと私と荷物を乗せると、彼女はさほど遠くない家まで車を走らせた。居間に案内し、席を勧めるやいなや、仕事を片付けてくるから待っていてくれと言う。中高等学校の教師をしている。数学と英語が担当のはず。一人残されて、開かれた窓の外に目をやると、テラスから続く庭は向こうへ行くほど低く降ってゆき、ここからは近隣の景色を見渡せる。植え込みの緑を抜けて心地よい風が昇ってくる。

  私が滞在した三年間、いつも一緒に行動した学生仲間数人の内に彼女がいた。なかでも特に親しかった。毎年の冬期休暇、マインツの家に招かれて、彼女の両親と妹と一緒に降誕節から新年にかけての一週間をともにした。姉妹とラインの河畔に敢えて夜に出て行って散歩をした。いつもの「難行苦行(シュトラパツェ)」に行こうと戯れて。冬の夜道の記憶はいつまでも若々しく、鮮やかだ。道すがら一緒に歌った降誕節の歌は幾つも、今なお空で口を衝いてでる。――卒業試験を終えて彼女が大学をあとにし、時をさほど経ずして私も帰国した。いつ戻ってくるのと彼女は訊いた。将来の道が定まったらと答えた。数えてみたが、それからもう二十余年。戻ることはなかなか叶わなかったが……

  待たせて御免なさい、とドアが開いた。いや、突然押しかけて、こちらこそ御免。授業だったの。数学? いいえ、今日は違うの。――学期初めのこの時期は、生徒達の生活や進路についての相談を受けているのだという。カウンセリング? そうね、そんなところ。――それは適任だろう。昔からひとの心に寄り添う力を持っていた。――私の滞在の二日目だったか。雨の中を後ろから自転車を押して坂道を登ってくる人影。ふと目が合って、素直に心が開いた。道を教えて欲しいと。気後れも物怖じも覚えなかった不思議。――学生寮の前まで来ると、ここよ、と快い響きを残して引き返していった……

  てきぱきと昼の食事を整えると、さあと招かれる。身ぶりは学生の頃と同じだが、大人の婦人の仕草だと納得する。積もる話へと心が急いて、食事の手は疎か。では、そのくらいにして、あとは居間で。さあ、お話をして頂戴。まず、あなたから。あなたのこれまでのこと、あなたの生活とあなたの心のことを。問われるままに、順に話していく。滞在した頃の、将来への迷いと決心。帰国して、一旦は諦めた学問への途が開かれたこと。その途で就職し、結婚したこと。前から心していた通り、放課後に学生との会を始めたこと――自国の教育の場では、直截に福音を語ることができないという事情のため。学生達を家に招くこともある。妻も喜んで彼らを迎えてくれる。――あらましはすでに以前書簡に書いたことだが、ひとつひとつ頷きながら彼女は耳を傾けている。

  語りはやおら彼女の側に移る。初めは昔の学生仲間の消息について。特に親しかった女性たちとの今なお続く交わり。彼女の赴任先、この地フルダの学校での授業や試験のこと。楽しかった、あるいは大変だった生徒たちとの思い出。早めに退職し年金生活に入ることを(他の教師たちと同じく)彼女もまた望んでいることなど。それから彼女の信仰と教会での交わりについて。そこでも彼女は若者たちの相談相手をかってでている。――何処よりも彼女の思いやる心が生かされる場所だろう。女性執事(ディアコニッセ)の役割を務めていると以前の手紙にもあった。信徒の「魂の配慮」をする牧師の役割だって充分果たせるだろう。学生時代に、もうその天分を示していた。それがこの国の伝統において必ずしも容易ではないことを、私も承知している。女性が牧師に(いわんや司祭に)なることへの抵抗は、堅い凍土のように国を覆っていた。今も大きくは変わらない。

  私と知り合って暫くして、彼女は成人洗礼の決断をした。ルター派国教会の信徒の家に生まれ、幼児洗礼を施されている彼女には、再洗礼の選択になる。宗教改革期、ミュンスターでは再洗礼派が檻に入れられて教会の塔に吊された。今なお、固陋な信徒からは異端(ゼクト)との非難を受けるやもしれない。だが、彼女は、己が良心に背かず、父母を穏やかに説得し理解を得、周囲の人々とも和みの途を逸れることが無かった。――私は彼女の告白をともにしなかったが、彼女の採った途を大切に思った。芯の勁さに裏打ちされた優しさ。信仰を思想・学問として学んでいた私は、それが生きうるものであることを、彼女の姿から学んだ。――彼女の話に頷きながら、そんな想いが還ってくる。

  教会は、必ずしも和みの場ではない。彼女の通う所謂「自由教会」といえども、人間の集うところゆえに、咎や醜聞を免れてはいない。彼女は穏やかに、しかし隠すことなく、ともすれば味わう経験を語る。男性信徒から、時に教会役員からも、性的な誘いやハラスメントを受けるという。独身であるがゆえに、それは一層甚だしいのかも知れない。彼女は一度、婚約したことがある。学生仲間だったフランス人と。彼は熱心なプロテスタント信徒だった。婚約をしたとき、それを破棄したとき、その都度知らせる手紙が届いた。心の率直な吐露と、理解して欲しいという結び。祝福と、慰めの手紙をその都度返した。それから彼女は独身を通している。頑なにではなく、軽やかに……

  気がつくと、話しに夢中でもう三時間も経っている。昔のように、暫く散歩に出かけない? と誘われる。二つ返事で応じた。住居の辺りはペータースベルク。行政区としてはフルダの隣町になる。小さな町なので、住居地域を外れるとすぐに始まる草地と林。木漏れ日の下を抜けて行く。夏もまもなく終わるが、日差しはまだしっかりと肌に射す。道は小高い丘へ向かう登り坂になり、やがて小さな会堂(カペレ)の脇を通って行く。

  振り向いて彼女が訊く。聖リオバの名を知ってる? いや、知らない。では、聖ボニファティウスは? その名前なら知っている。有名な「ドイツ人の聖人」。ゲルマンの人々をキリスト信仰へと導いたから。ガイスマールでドナウ樫の巨木を切り倒した逸話を聞いたことがある。ええ、そう。そしてリオバはね、ボニファティウスの愛した女(ひと)よ。いま彼女はこの会堂に眠っている。聖リオバ教会と呼ばれているわ。――



  主の年七五四年のこと。あの方は、いまいちどフリースラントの地に赴こうと心を定められた。八十路の齢に入り、御自身の伝道者としての生涯に終焉を迎える。そんな想いを込めた決意であったのかもしれない。フリースラントは、あの方が初めに伝道を志された地。私たちがともにする故郷ウェセックスから、海峡を挟んで広がる低地の人々に、あの方は特別に心を寄せておられた。

  ときに荒々しい風が吹きすさぶ気候風土のもとに独り立とうとされたあの方の気概は、しかし、なかなか報われなかった。頑なな抵抗と、競う立場からの妨害もあって、やむなくヘッセンやテューリンゲンへと方向を転じられる。教権や地上の勢力と結ぶことも余儀なしという状況のもと、あくまで純粋に心をともにしうる地上の拠点を築こうとされた。御自身には、命を交わす言葉よりも、働きの価値を値踏みする言葉が専ら求められる状況で、同志の助けを痛切に感じられたのだと思う。テッサの修道院に居た私にも要請があり、応えて私が海を渡ったのは七三五年のこと。そして、まずは新設のビショフスハイム修道院を託された。その初めの日からもう五〇年の年月が過ぎた。

  最後の旅立ちを控えて、あの方は私たち同志の者を皆集めて、遺す事柄の後継ぎを一人ひとり名指された。フルダの修道院長には、すでにシュトゥルムス様が就いておられたので、マインツの司教には新たにルル様を後任として任じ、伝道の務めの全体は、なんとこの私に託された。そしてさらに、あろうことか、御自身の僧服から頭巾(ククルス)を取って私に懸けてくださり、私が死んだ時には御自身の墓所に一緒に葬るようにと、皆様の前で遺言された。おかげで、私の庇護を委ねられたルル様とシュトゥルムス様のお二人は、私に懇ろに尽くしてくださった。

  幼い時に、初めてあの方に見(まみ)えたときの感動はいまも新しい。その頃はむしろ学問の士として、言葉の道に通じ、文法や修辞の書物を纏めておられた。親しい者への書簡などは、ときに詩文へと移りゆき、読む者の心を弾ませる。生まれながらに捧げられた者として、言葉への奉仕を将来に控えていたこの身。韻律の手ほどきを受けつつ、同じ道を辿る幸いを覚えた。

 ボニファティウス、
 あなたを、生けるひかりは
 みそなわし 知恵の人とされた。
 み神のもとより出ずる浄き流れを
 あなたは再び、み神のもとへと導きかえす、
 緑なす草花をことごとく潤し、
 生ける神の友として、あなたの知恵は、
 自ら辿った義しき道を、
 水晶の煌めきをもって照らす。

  ビショフスハイムを託されたその日から、多くの娘たちが修道院を訪れ、成長して去った。読み書きを教え、静まりの時をともにする日々は幸いだった。女性たちがそれぞれの往く先で新たな修道の場を築き、そこで彼女たちもまた味わうであろう幸いを喜び、また願ってきた。願いによって報われる。それはあの方も同じだったと思う。

  あの方がフリースラントで殉教し、遺言に従ってフルダ修道院に葬られたとき、マイン川の谷を抜けて厳かな隊列が続いた。実はその際に、ルル大司教とフルダ修道院長の間に争いが生じていた。定むべき墓所の在処について、マインツかフルダか。大司教が、司教区の修道院に対する優位を主張したという。結果として遺言が優先されたが、軋轢はその後も続いている。そのような争いはあの方に相応しくない。それが私の採った立場だったけれど、以降は政治的な交渉の場から遠ざけられた。

  あの方の墓は、修道院教会の西翼、シュトゥルミのバジリカに設えられた。そこは修道院の禁域。そのため誰も、ことに女は修道士の同伴なしでは入れない――私にはあの方の遺言ゆえに独りで踏み入ることが許されたけれど。祭壇の前に佇むと、ウェセックスの風や、ドナウの樫の木を打つ斧の響き、あの方の生涯にともなった音が微かに聞こえる。沈黙がそれらを抱いている。その奥深い彼方に、あの方が見つめた光が見える。

  歳を重ねて、今は修道女たちを世に送り出す務めから離れ、この地ショルンスハイムで過ごしている。間もなく私も生涯を終える。マインツ西南のこの地から、私の亡骸はあの方と同じ道を辿って、フルダへと担われていくのだろうか。あの方は、そのように定められた。だが今では、どこに眠るのもよいと思われる。約束された究極の時には、二人並んで光の顔の前に立つ。それまでは、閉ざされた禁域よりも、ときに若い娘たちが訪ね来て、ともに静まりの時を愉しみ、微かに唱える祈りの声が、野を渡る風のように響くのを聞いていたいとも……



  リオバ教会の脇を通り、道は裏手の小高い丘へと続いてゆく。私たちはいずれも祭壇や聖遺物には関心が薄く、踏み入ることなく会堂をあとにした。道は螺旋を描くようにゆったりと傾斜を上り、枝々の庇は幾重にも重なって、道に射す陽の影はまばらになってくる。九月を迎えれば蔦などはすぐにも色づいて、景色がかわるだろう。

  ボニファティウスの願いはね、やはり叶えられなかった。その理由(わけ)についてはいろいろと語られているわ。聖人の墓を開く事への忌避の念がはたらいたからとか。教権上の主導権争いがあったからとか。リオバは、フルダ修道院に新たに設えられた教会の東翼に葬られた。その後久しくして、弟子の女性たち(貴族の娘も多かった)の願いにしたがってこの地に移されたの。――道すがら、彼女はリオバ教会の成り立ちを語る。

  なお暫く濃いみどりに覆われた道を辿ってゆく。すると、いきなり視野が開け、眼前に明るい展望が開かれた。右手下に通り過ぎてきた会堂を収め、景色は遠くの山並みに至るまでくっきりとした影で縁取られている。

  驚かされたのは、草原(くさはら)の真ん中に立つ樫の若木。思わずガイスマールのドナウ霊木を想う。鉄斧は硬い樫の木に恃む忌むべき偶像崇拝に下された? いやむしろ、より堅い心へ、より深い真実へと導く響きだった? 「樹tree」の響きが「誠実treu」を導くように。ひとりの異性の魂を慈しむ想いを、何の屈託も無く率直に披瀝した聖ボニファティウス。地上の命を越えて永遠と結ぶ仕方で。これに応える聖リオバも、彼女の立つひろやかな地平から晴朗な空を見上げている。

  草原の中へ先に駆け下りていった彼女は、左右に手を伸べて、ヘッセン、テューリンゲン、そして向こうがあなたの滞在するバイエルンよ、と次々に方位を指し示す。大地の曲線から地軸のようにきっぱりと立つ彼女の横顔に、リオバの面影を見た。



   註・時代を遡るアナクロニズムとなるが、リオバの想いに託して、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの歌を本文中に挿入した。  



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