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原田道子『うふじゅふ』を読む
                        --詩集評

 

原田道子詩集『うふじゅふ ゆらぎのbeing』
         文字と音・「言葉の身体」を契機に


 詩の最大の主題は言葉であり、詩そのものである。本書を一読後、想ったのはまずそのことであった。周知のように、原田氏の詩は独自の語法を駆使する。いくつかの詩集にまたがってその表記法は一貫している。近づく者には、まずこれらを読み解く時と労力が求められる。「か。ぜ。」「なぁ。む」といった句読法や、半括弧の独特な用い方、また「アマテラス」「ヒト」「ヒミコ」「イクサ」などのカタカナ表記。文字に担わされた独自な表情は、言葉の音、響きを際だたせる。繰り返し読むうちに、「文字」と「音」、すなわち「言葉の身体」ということをますます意識させられる。そこに詩人の意図があることも。

 そもそも、表題の響きからしてそうである。後書きには、「〈うふじゅふ〉の身体性」と題してこう記されている。「概念ではなくこの言葉の音声がもつ響きに、〈行分け〉の構造とも違うア・プリオリな身体的共感が膨らむ」と。詩人はかつて、「うふじゅふ」という言葉に魅せられて「ばばちゃま」のことをそう呼んでいた。それは「言語表現の底に潜在する言葉が発せられる以前の、心の深層領域にあるイメージが先行するような不可思議な心象風景。」すなわち、社会の言語や個人の語法、またそもそも個人の言語能力の生成にも先立つような、事と言との未分化な原状況を指すもののようである。その言葉は、響きに原状況の混沌を伝えるとともに、詩人の意識をその根源からの発声に向けて収斂させていく。そこに暗示される産声。

 「うふじゅふ」の初(うい)の
 一息が百(もも)の時間になろうとする
 宇宙の子宮(こみや)に
 「やや」とよばれる生きものの兆し
 はいっていくこの声を
 そのまま言葉にすればいい。と
 おもっていい朝
 にくたいをみたしていく
 言挙げは
 たとえば
 あ。か。ぜ。の「あ」は
 あ(なにやし えおとこ
 あ(なにやし えおとめ

 「うふじゅふ」の見守りの内に、初めの言葉が生起する。この「大いなる母」、生死の境にあってその転換の時を司る大祖母の招きで、詩人はある始源へと導かれていく。そこは、言葉の始まりの出来事が「国産み」、宇宙創世の出来事となるような場所。言葉・詩の発生が生命・身体の誕生と重なる一瞬。宇宙のリズムが身体のリズムと重なってくるそのところである。詩人はこれを「宇宙のゆらぎとフラクタル(自己相似性)な関係にある私たちの身体性。その身体性につながる原初の衝動とその関係」と述べているが、原初の言葉とは、この宇宙と「身体(わたし)」の一体性をこそ表現するのである。その発声を待ち受ける場とは、言葉が元素のように宇宙に浮遊し、民族・社会の言葉として分節を受ける前のところ。事が言から未だ分かたれていない未知の存在世界。詩人はそこで、いままさに発声によって言葉が、また言葉によって事物が分節されていくその時に臨んでいる。詩の言葉が生起するところ、そこでは、詩人の言葉の個体発生において言語の系統発生がたどられる。言語習得前の喃語の世界がすでに自らの体系を持つように、詩人は宇宙と世界の全体をすでにその身体に侍している。

 「うふじゅふ」の招くこの原初の世界、それは「キララの家」とも言われるが、その本質は「ゆらぎ」である。事と言との交錯する未分化の境では、存在はまだ危うい平衡の内にある。そこでは招きに応える「身体(わたし)」も、詩の中に呼び出されてくる「あなた」の多様な形姿も、絶えず有るか無きかの境に留め置かれる。詩人は、その境界に美を見て、そのさまを「玉響(たまゆら)」と呼ぶ。そして、その境に立ちつつ、その鏡面に染み通るように見えてきたり聞こえてきたるするものにその身体を晒そうとする。(ちなみに、詩行がときに断定しかねるように、躊躇うように「ゆらぐ」のは、束ねられぬまま様々な方向を向いた身体の声、意識が一斉に詩の行の中に入ってくる。そのような運動への生真面目な対応のゆえかもしれぬ。)

 詩の現出する境界、「玉響」の世界は、専らそれ自身によってのみ保たれる。すなわちその「ゆらぎ」は、ただその根源への「共鳴」によってのみ維持される。それは、外の言葉の状況につきあわされることによってたえず崩壊へと直面する、危機と隣り合わせの世界だからである。詩人はこれを深く意識している。実際、本書の叙述には、戦争や生命倫理を巡る状況への暗示が頻出する。「隠れたイクサばかりが/隠れようもなく拡大する/たえだえな言葉が痩せる/ひからびてゆく」「種内殺戮の匂い」。起源へ向かう追求は、時代から詩人が受ける恐れや批判意識と裏表の関係にある。言葉が切れ切れになっていく状況、「イクサの前兆」にはっきりと目がとめられている。この否定相の意識のゆえに、詩人の根源への志向は空虚な飛翔から免れている。それどころか目を瞠らされるのは、この未分化の世界自体が、そのような破壊をも包摂する形で、創造に先立つ始源の無の根源的な衝撃力すら漲らせていることである。

 おいで
 か。ぜ。にくるまれた邑(くに)にあるという
 なまえのないキララの家にいっとき拉致をする
 (省略)
 夏とよぶひ。か。り。に
 溶けてゆくものにする
 そしてなきものにする


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