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北原千代『スピリトゥス』を読む
                        --詩集評

 

北原千代『スピリトゥス』の世界
 ―spiritus―anima―corpusにふれて


 繊細な感受性と呻吟を感じさせない適切な喩。豊かな資質をのびのびと展開させた詩集である。だがそれだけでは、北原千代の詩の本質を語り残したことになる。詩人は新詩集を『スピリトゥス』と命名した。その選択に曖昧さはない。

 「スピリトゥスsupirtus」とは何か。このラテン語を今日なお用いる哲学では普通「精神」と訳す(この語義なら人は頻繁に用い、その意味もよく知っていると考える)。だが「精神」の訳は近世以後には相応しいとしても、中世哲学や神学では「霊」と訳す方が適切かも知れない。しかし「霊」というと、現代日本人は戸惑う。なるほど「霊歌(ゴスペル)」は歌われ、書店の「精神世界」の棚には「心霊現象」への好奇心が溢れている。だが、平均的日本人(一般の詩人も)は、「霊」を真剣に扱えと言われれば、まず身構えて心を固くする。むしろ、この詩集の言葉や形象がspiritusの真相への適切な導きとなるだろう。詩人自ら後書きに述べるとおりその語義は多彩。「はじまりのために」に描かれるおおきな自然の変遷から、「面会日」や「耕すひと」、「招待状」の、それぞれに香しく懐かしい人との親密な交わりのなかに、詩人はspiritusのそよぎを聴く。spiritusの息吹は、現象的な相と人格的な相を二つながら備えている。

 「霊・精神」を表す言葉は大概の民族に見出される。ルーアハ(ヘブライ語)、プネウマ(ギリシャ語)、スピリトゥス(ラテン語、英語「スピリット」・フランス語「エスプリ」の語源)、ガイスト(ドイツ語)など。これらは皆、古くは「風」や「息」、つまり空中に通う気体の流れを写す音に由来する(酒精アルコールを蒸留した飲料をスピリッツと呼ぶのはその名残)。呼気また吐気として個体に出入りする息は、個の内に閉ざされない。閉ざされたら命は終わってしまう。そのように「息」は命の存立に深く関わるとともに、個の間に通う「気・風」のそよぎとして、個を超えて豊かな関係を取り結ぶものであった。「霊感(息の吹き込み)inspiratio」はその関係を表現する。inspirationの近代的使用とともに、「精神」の今日的語義も出来するが、「霊」の語は、元来「言葉」と深く結んで、「息・風」の取り持つ生きた交わりを実感させるものであった。spiritusとは、個を他との交わりへ向けて開いていくもの、また「関係」の相の元にある存在を言い表す。

 北原の詩集を繙き、まず冒頭の詩に驚く。「椎の実書店」の形象は、すでにspiritusの内包する根本の秩序に(意識させぬほど素朴に、それゆえに詩としてはいっそう本質的に)触れている。「冬の風鈴」は一見寒々としたものを連想させるが、「留守番に」「やとっている」という喩が、ほのぼのとした人間味を醸し出す。不在の店に通う風が、温かく不在の人との心の通った交流を仲立ちする。spiritusの本質がさりげなく描き出される。風の伝えるのは「裸のたましい」また「温い肉体」。いずれも命を支える本質的な形象である。そこに、詩人の住む(あるいは望む)「ひかりの粒子」の反響する世界が予告される。

 ひとの「息が通う」とき、そこに豊かな命の交わりが生まれ育まれる。日本語も古くからその消息を知っている。「精」も「神」も元来「細やかなもの」を表すが、spiritの訳語とされたとき、古来の「息(言霊)」の伝統をspiritusの文化に重ねた。例えば「息が合う」豊かな関係を、我々は「斉唱」「合唱」という西欧音楽の形式において、あるいはそもそも歌い手と聴衆との関係(さらに芸術創作と受容の関係)において享受する。

 北原は久しく鍵盤楽器に親しんできたが、音楽を扱った作品からはspiritusの芳しい香りが立つ。音楽を愛する者として、詩人は「身corpus」の大切さをよく知っている。身体こそはspiritusを湛える楽器。歌う人はspiritusの風を通わせる笛なのだ。「バストロンボーン奏者に」はこれを主題とする。体は「管」にして「茎」。息に貫かれる器として響きを高く昇らせる。この伝統においては体は大切なものとされる(身体を悪とする霊肉二元論とは全く別な起源をもつ)。「捧げもの」において、詩人は我が身にそれを実感する。「痛めた」指も詩を奏でる。「畑の土から鍵盤が/虫歯になって出てくるくらい/長くしずかな時間。」何と楽しい比喩だろう。詩人は「歌うわたしを」豊かな息の交わりへと委ねてゆく。「おうけとりください」と。また「父の国へ」において、詩人は大切な人を天に送る。音楽をもって還り行く人を担いつつ、自らもまた「かがやく一滴」としてspiritusの大きな流れに担われていることを、詩人は身の器に深く自覚する。「鹿とわたし」は絵画を主題として、マティスのように健康的な女性の身体を描く。視覚に始まり、共通感覚(嗅覚や触覚、痛覚等)を経て身体の自覚が深められ、個(や人間界)を超えるのもとの出会いへと展開する。「一つの息に」結ぶ心の交歓は、spitirusの取り持つ世界との純粋な交わりを願う。「青い器」もまた芸術の場におけるspiritusの交わりを歌う佳品。関係の欠如や断絶を誇示するように掲げて壮大な嘆きを響かせる作品の多い日本現代詩の世界で、芸術との交わりや真善美への志向を、ひとつひとつ結晶させていく営為は貴重である。

 北原の詩は、心身を分裂させ、それに善悪を対応させる霊肉二元論の対極にある。そこでは心と体、そのいずれもが大切だ。だがここでいう心とは、spiritusとは別なものである。「心・魂anima」はしばしば「霊・精神spiritus」と混同されるが、動画animationや動物animalと語源を等しくすることから分かるように、語義は「動き」である。心animaとは霊の息吹を受けて運動する人格の場、inspiratioを受けて共鳴する内奥の機能を表す。芸術作品の価値は、昨今その動きの豊富さで決まると考えられている。心は喜怒哀楽を体corpusに伝え、体は倍音を加えて振幅をさらに増していく。言葉は心と体の境界(唇、舌、手など)に発せられるが、詩の世界でも諸芸術の動向と違わず、多彩な心・感受性の表出のみを言葉に写す試みが目立つ。しかし、そもそも魂を動かす大いなる源(郷里)spiritusからの吹き込みが無くしては何も生じない。北原もまた自ら豊かな感受性を享受する一人である。だが北原の独自性とはそれにとどまらず、心と体を他に向けて開いていくより根源的なspiritusを名指し、spiritusとの関わりにおいて世界を描こうとするその志向にある。

 かつて堀辰雄も、ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節を引いて、そのような志向を表明した。「風立ちぬ、いざ生きめやも。」風を受けて死に瀕した風景に光が兆し、命が脈動する。堀辰雄はそのような死生の造形を、西欧の霊・精神の命脈から汲もうとした。北原千恵は、日本の詩の伝統を、その地点からもういちど歩み始めている。日本的伝統を詐称した悪しき風とその後の凪によって、拭い去られてしまったかに見えるspiritusの抒情を、もういちど取り戻そうとするかの如くに。

 だが、それは観念の志向ではない。風が吹くと波立つ湖面のように揺れる心。琵琶湖の辺に生い育った北原は、四季の風光の中で自らの生を汲み取ってくる。「遊ぶ風」は素描だがspiritusの現象性と人格性を浮き彫りにする佳品。そして詩「水鳥」は、自らの魂と世界との関係に正面から取り組む。境を取り持つspiritusとの交わりに支えられながら、若い心・魂の生成に形を与えようとする。琵琶湖の風光が、未成年の「制服の胸」に抱かれる湖と二重映しになる。spiritusの息吹に憩う心。育む風に水鳥は無心に命を委ねる。若い魂は一途に命の枠を広げてゆく。成長にともない世界を俯瞰する目も備えられる。だが同時に世界に別の風も吹いていることに気づかされる。spiritusに育むまれた関係は、喪われもするのだ(満員電車の中の「息が詰まる」状況を想いみればよい)。若い魂は大人の世界の窒息させる現実を知るが、なお託された命を守り続けようとする。まずは自らの命の境の内で。詩人は「あとがき」に、その郷土を愛するが、他方で旧弊な共同体の「縛り」をも感じると語っている。「煙突のある村」に描かれるように、現実との出会いのなかで大切なものを護りえない痛みは増す。個の境を超える「息」は、「風」として一つの社会全体に吹き渡る(「民族精神」「時代精神」と言われる所以である)。閉塞した社会には「くろい風」が吹いている。魂は、育んでくれたはずの風に命が損なわれる謎に驚き、荒ぶる風の存在に気づく。大きすぎる試練に魂は無力を覚え、限界を思い知る。疲弊と窒息する命への痛みで詩「水鳥」は終わっているように見える。だが、世界を明確に掴み取る詩人の心は、ここで途絶えはしない。育む願いに固執する魂は、やがて浩然の気を注がれ、真の命を育むだろう。詩人がさらに大きく守り育む者へ転身していく希望を信じさせる詩だ。詩集全体を見渡せば、実際にその方向へ風は流れてゆく。

 詩人は風を信じている。荒ぶる風は敵ではない。詩人は、始原の時に混沌を抱くように吹き渡っていた大風(霊)や息の消息を知っている(創世記一章一節また二章七節参照)。それは詩集の掉尾近く、「父の国へ」に語られるように、詩人と聖書の世界との近さを示すが、一宗教の名(レツテル)を挙げて詩人とその作品を決めつける批評を筆者は嫌う。あくまでも詩の言葉とその形象に注目したい。詩人の魂はspiritusの愛へと目覚めていく。試練を越えてamor(愛の神)を慕い求める神話の女性プシュケpsyche(animaに相当するギリシャ語、その音はやはり「息」に通じる)のように。spiritusに育まれ、試練を経て自ら守り育む者(母親的なもの)へと深まる自覚が、この詩集の本流であろう。先に、北原の詩が音楽の実体験に由来すると述べたが、それはまた何よりも産み育む性としての命の実感からくるものである。

 「母の祈り」の詩では、「母の悲しみ」において「母」と「母となった娘」の時が重なり合う。命の悲しみをその根幹から満たすものが、個の境界を溶解させ、時を超えた交わりを仲立ちする。そこではじめて、悲しみを真実として歌うこと、記憶を希望として受け継いでいくことが許される。問いの鮮やかな作品「リレーゾーン」は、そのような受け継ぎの関係を印象的な喩で形象化する。競技者の重なりあう「つなぎ目」は、それぞれに端から端まで授かり託された人生の交錯する限られた時。「重なりあうふたつの呼吸」において、託されるのは、果てのある息の悲しみそのもの。この世界だけではない、その果てをも越えて繋がれていく息の連鎖。人から人へ、時を貫き歴史の果てへと託されていく果てしない命の連なりを想わされる。「会話する少年」においては、外なる小川の流れと身のうちの流れの交錯するところに、母の魂が静かに揺れる姿が描かれる。女性の胎が、死生の境をも超える命の汀として、この世の生を生きえなかった者との交わりの場となる。筆者は目を開かされる感動を覚えた。

 この詩集を読み進めることは、それぞれの詩にspiritusの広がりと深さを確認する営みだ。湖や水鳥という共通のモチーフの現れる「ひらかなの町」は、現実の社会(「煙突のある村」)の向こうに詩人の理想とする共同体を描く。記憶と忘却を遡る夢の境に、総てのものを浄化して湛える湖が潜む。魂の郷里、そこへの道は素朴な挨拶の言葉によって開かれる。「拒絶」で詩人は、spiritusに促されるように、自ら人と人との境、息づかいの交わるところへ狭い坑を降っていく。相手の悲しみ痛みに触れようと出て行くその求めには、女性的な気遣い、癒す者への志向が窺える。一方「まなざし」を読むと、spiritusの息吹が生ぬるい曖昧なものではないことがわかる。平穏な日常は望ましい。だが魂は真実が剣の切っ先を持つことを知っている。対極のものをも見つめつつ、いつでも鞘を払えるという人格的・倫理的な決断に貫かれているひとつの生の形。「帽子屋の時間」「夜の弟」「帰館(カミング・ホーム)」などの楽しい画面にも、それぞれに爽やかな風が吹いていて、そよぎを纏う詩人の息づかいは読む者を憩わせてくれる。

 北原千代は、秀抜な表現の達成で事足りるとする、昨今の詩の在り方とは違う故郷から来た。風の息吹や水の流れを身の内深く呼び込み、ふかぶかと共鳴する響きとなって、時の連なりや命の世界の広がりへと人格的な交わりを深めていく。その詩は、精神のそよぎと、それを自ら震えつつ内に受けとめる心、さらにそれを深く反響させる全身の響き、その生きた結合から生まれくる。


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