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新延拳『背後の時計』を読む
                        --詩集評

 

新延 拳 著『背後の時計』を読む


 優れた「詩人」とは如何なる存在か。それは、同時代の人々の生活感覚を巧みに表現しつつ、その意識の深層に潜む本質を掴み取ってくる者である。新延 拳氏の『背後の時計』を読んでいると、そんな定義付けが相応しく思われる。例えば詩集の表題となった詩「背後の時計」。この作品には、まさしく一般の人々の時間感覚が見事に表現されているが、新延氏は「詩の語り手」よりもさらに深い次元から「時」の本質そのものを見つめている。

 プールの水面に雨が降り出す
 (そういえば年表もはじめは疎ら)
 多くの円ができ
 互いに干渉し打ち消し重なり合う
 そしていつの間にか雨はやむ

 四角い水の面に雨粒がおち始め、小さな同心円を広げていく。雨脚が激しくなるにしたがい、水面に余すところなく無数の円が密に錯綜し、――しかし、やがて雨は止む。「語り手」はこれを「年表」に準える。はじめは疎らだが、時代が降るにつれて年表には様々な事績が書き連ねられる。後連に「履歴書」がでてくるが、「年表」も「履歴書」も、量を俯瞰する仕方で示された時の視覚像である。過去から現在を経て未来へ、そのように一列に透視する仕方で、時を手中に握ることが出来ると人は考えた。時計もまた、計測できる単位で量的な時(クロノス)を視覚化しようとする願望が産み出したもの。だが時計は、量的な時間には別の顔があることをも示す。

 ありあまるほどの手つかずの時間と空間があった
 柱時計が家族を支配していたあの頃
 誰もいないはずの二階で何か軋む音がし
 冷蔵庫が得体の知れない音を出していた

 雨音のように、チクタクという音で知らされる時の経過。溢れてくるばかりで容量の分からぬ膨大な時間。「背後の時計」は見ることが出来ない。受け止めるだけの聴覚的な時の像は、どこか不可思議で不気味さを宿している。たしかにそれは、心惹かれる「手つかずの時間と空間」の相をも示す。詩集冒頭の詩「神話の切れ端」に登場する少年の前には、さまざまな可能性に充ちた希望の沃野が広がっていた。しかし、数々の「神話」を経た後の「かつての少年」には、かの日に溢れていた明るい未来の像は、もはや取り返せぬ過去の可能性に過ぎない。別な詩の主題「未来がなつかしい」は、望みに充ちていた過去の日々への愛惜を言い表している。しかし、振り返ってみると、その望みの日々はそもそも現実だったのか。際限のない繰り返しのなかで、ただ自己を失っていっただけではないか。昔の記憶を前に立ち尽くす「語り手」の前で、世界が変容する。

 あの夏の蛇口の滴りに
 原風景が歪み始める
 生者も死者も蠢いている
 蠢いている
 嬰児の蚕豆のような足も

 新延氏の前詩集のタイトル『永遠の蛇口』が思い起こされる。いつも限りなく蠢いている意味(方向)不明の嵩としての現実。その現実を肌で感じている時間感覚、その生活感覚は一般の人々のもの。しかし人々がそれを意識化することは稀である。ましてや意識を表現へと導くことはない。そこに「詩人」が、時代感覚の表現者として登場するのだ。人々の意識の一瞬を見事に切り取った静止画として時代を映し出す。作品は、静止画をパノラマのように並べる構成を採る。これは、他の作品にも通じる新延氏独自の詩法と言って良いだろう。

 ガラスケースの中では
 鑞でできたスパゲッティ・ナポリタンを
 丸めて挟んだフォークが宙に浮いている
 昭和の洋食屋
 アイス最中を半分に割って差し出す
 夢の中の昭和
 西日を受けて家族が背負っていたもの
 母さんという言葉は今でも断固固有名詞だけれど

 展示場に並んだ写真を見るように辿って行くと、人はそこに自分の「夢」が示されていることに気づく。それは「詩人」も担っている「夢」であろう。誰でも、「夢」の中では、掛け替えのない「充実した時」を求めている。

 ひたすら花を食べ続けた園田さん
 言葉から衣服を脱がせてゆくのをなりわいにしていた
 彼女の母は歌に火をつけるのを
 父親は神話に鳥を飛ばし
 夢に翳をつけるのをしごとにしていたという

 無際限に過ぎ去っていく時の経過に抗う生の形が描かれている。しかしそれは、例えば先人の後を辿るといった明確な目的意識を持ちえなくなった現代の生の形。大きな言葉で言うならば、目的論的な時間構造を喪失した時代の時間意識。「世界の終末」とか、「プロレタリア独裁」とは無縁の時間感覚である。そこには「詩人」の共感も響いている。別の詩「ツィゴイネルワイゼン」で、詩人は「風の強さや吹く方向がわかったとて/一体何になろう」と歌う。過ぎ去っていく無際限な時間の中で、個人の生、その具体的時間には限りがある。

 目覚めると秒針に何か急き立てられている気がする
 時計の針先だけでなく音まで尖っていて
 妖精が秒針に合わせて踊っている
 夢の中の履歴書にわが悪魔払いのことを記入し
 自分をあちらこちらに置いてきたのだが

 「いつの間にか雨はやむ」。最後の時によって無意識に急き立てられつつも、一般の人々は「気晴らし」でしか不安を祓えない。ニーチェなら「運命愛」を掲げて、「よし人生が無意味の繰り返しでも、いま一度初めから」と唱える。詩の「語り手」の共感はむしろ一般の人々に寄り添う。生を価値づけてくれる営みは、光輝ある「時の充実=カイロス」ではなく、「悪魔払い」という負の表徴で言い表される。「語り手」は詩作を、秒針に纏い付く「妖精」の美を時々の証として、生の不安を払う営みとして描く。

 合わせ鏡の中に映る無限数の私
 どれかひとつの顔でも笑っておくれ
 一日の初めにはまっさらな時間が自分を待っている
 というようなことはありはしないのだから

 「合わせ鏡の中に映る無限数の私」とは、キルケゴールが「可能性の絶望」と呼んだものを想わせる。かつてロマン主義は、想像力の可能性に夢中になりイメージの森へと分け入ったが、無事自己への帰還を果たせた者は稀であった。現代という時代は、映像の迷路に積極的に迷いこむ仕方で自己喪失を忘れようとしている。詩の「語り手」は自らをそのような時代精神の隣に寄り添わせ、ひとつの「悲歌」を歌い収める。

 「語り手」と述べてきた。詩の「語り手」と「詩人」とを区別する為である。なるほど「詩人」も、生の充実が時間の内に保たれ得ぬことを知っている。しかし彼は、むしろ個の感慨を超えて時代の姿を描きつつ、時の本質を捉えんとしているのだ。「詩人」は、時が充実する一瞬の儚いことを知っている。しかし、儚いものを愛おしむ術をも知っている。それこそが「詩」なのだから。

 詩集全体を見渡すならば、祖母や父母、お子さんたち、また親しい者たちへの呼びかけに充ち、懐かしみ愛おしむ想いで溢れた詩集である。「さほど有用ではないが/そこにあるべきものとしてあること」(「心の管理人」)。新延氏は、日常の何気ない存在の中から大切なものを汲み取ってくる。生(世界)への信頼が響きだしてくる(「風 見つけた」)。「ぼくはどこにでもいる 風のように」と新延氏が歌うとき(「ツィゴイネルワイゼン」)、そこには、世界のいたる所に臨んで的確にイメージを捉え、詩を導き出してくる精神の自由を窺うことができる。しかし、この遍在が「神の目」と決定的に違うのは、その認識にはどうしても儚いものが映るからである。神ならぬ者として、言葉が命そのものは与え得ないことを知るためである。


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