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『柴崎聰詩集』を読む
                  --詩人評

 

詩人 柴崎聰 ―掌・モノ・比喩―

 「むき出しでありながら どこか温和で どこか不思議な時間が 掌のように天に向かって差し出されていた」。夫人の手術の翌日、公園の一隅で過ごした経験を記した詩の終結部。『柴崎聰詩集』の終わり近くに置かれている。出版記念の集いで、柴崎さんの詩から一編を朗読というときに、幾人もの人がこの詩に心をとめていた。

 この数年の間に、柴崎さんは親友につづいて最愛の夫人と、その最も身近な人々の闘病に同伴し、天に見送る経験をした。葬りという悲痛な場面で、柴崎さんの言葉には、弔問者の心をも穏やかにする不思議な響きがあった。この詩行は、そのような詩人の姿を彷彿させる。天に差し出された掌は、柴崎さんという人間をまことによく語っている。しかし、直截だが不思議に温かい、そのような掌が、自分にも差し出されているのを感じた人は、きっと少なくない。朗読にこの詩を選んだ人々も、同じ思いであったのだろう。

 柴崎さんとのつきあいはまだ十年に満たない。最初の契機は、拙作絵本の出版依頼であった。放り出していた夫を見かねて、妻が出版社に電話。その電話口の向こうに編集者柴崎聰がいた。帰宅して妻の報告を聴く。短い用務の電話であったはずなのだが、そこに編集者の人柄と心遣いが聞こえて、不思議な気がした。妻もまたその掌に出会ったのだ。

 原稿は結局不採用だったが、それが交際の始まりとなった(希な縁である)。はじめは編集者としての一面だけを見ていた。森有正の講演集出版に際しての編集者ならではの立場など、ときおり柴崎さんから伺う話はまことに興味深い。詩に関しても、氏が自ら編集した「欅通信」を頂くようになり、キリスト教詩人会の設立以前から石原吉郎や安西均に親しく接した経験なども伺った。しかし、やがて柴崎さん自身が、詩の汀に深く根を下ろしていることを実感するようになる。最初に拝見したのは最新の詩集『テッセンの夏』。ゆるやかに熟する時を歩みつつ、ときに鋭い視線を投げかける。まさにその人柄を映したような、という印象であった。

 『柴崎聰詩集』で、ようやくこれまでの歩みを俯瞰する機会を得た。『フクロウは昔ネコだった』という詩集名に伺えるように、蛇行する流れはときにユーモアの三日月湖を残す。だが、切り立った詩行を連ねていく、水源近くの流れの迅さには驚いた。

 遂に
 安息は訪れず
 石は緻密に引き締まり
 限りない求心の伏流は
 石の形を
 球形へ球形へ
 とめどなく収斂する

 塵に還ること
 沈黙を審かれること
 それらを
 完璧に拒絶しきって

詩集名ともなったこの作品「伏流の石」は柴崎詩の源。そこに遡って振り返ると、あらためて気づく。想いの深さを意志で断ち切ったような短い行が至る所に湧出している。空を映すその静かな水面は、今もなお河床に激しい真摯を抱いている。

 詩の題名は、斧、魚、桜など、対象を直截に記したものが多い。詩人の主体は対象の背後に隠れ、物に即して語る。その俳句的造形が言葉を急峻に峙たせる。詩人は、モノへの志向を自ら次のように語っているが、そこには独特の屈折率と焦点がある。

 「詩は、私に限りなくモノにこだわる性格を植えつけたようである。聖書を読んでいるとき、物語に登場してくる人物よりも、その陰にひっそりとしているモノに注目していることが多い。モノたちはおおむね深い沈黙の中にある。」そこで詩人は、アブラハムの試練の物語に触れるが、「その後に登場してくる一頭の羊の悲しみに」むしろ注目する。「この雄羊の沈黙は悲痛である。なぜなら、アブラハムのひとり子[イサク]の代替になるために、権威の象徴である角を木の茂みにとられて身動きもできずにもがいていた、羊の沈黙だからである。この羊の沈黙こそ、聖書に登場してくる数多の羊たちの沈黙の形象化なのである。」

 キリストを予表する比喩となる羊に注目するこの主題は、「犠牲」の一編を無類のキリスト教詩として結実させている。だが、柴崎詩の核心をなす、モノへのこだわり、とりわけ忘れられて顧みられぬモノへの注目は、キリスト教を知らなくとも分かる。日本語ではあまり用いられない文字「ぬ」への連帯を表明した作品もある。そこでは、「ぬ」に温かい掌が差し出されている。顧みられぬもの、取り残された無名のものへの眼差し、それは詩人の生そのものであり、その詩法でもある。それはまた、編集者として総ての書物(とその著者)に丁寧に接する心遣いと別なものではない。柴崎聰においては、キリスト者、詩人、編集者がひとつである。いずれが表か裏かと問うことは出来ない。

 「玄関からいきなり座敷に上がり込むような出来」とは、ある本の体裁についての柴崎さんの評言。書物は著者の喩え。言葉は人格の発露である。それは柴崎さん自身にもあてはまる。比喩についての次の言葉は、柴崎さんの詩と人柄の両方を語っている。

 「比喩は、どこかで破綻しかかっている。瀬戸際に立たされている。/その危うさをくぐり抜けてなお立ち続ける比喩があるとしたら、背後にある大いなる存在からその奥義を明け渡され続けているからではないであろうか。」


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