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『清水茂詩集』を読む
                  --解説

 

「向こう」と「こちら」の境に立って

 清水さんの『夢の歌』というメルヘン作品を拝見したことがある。「ひとつの歌」に魅せられ、これを求めて遍歴の旅に出た男と、男の行先を尋ねて流離ううちにいつしか自ら「ひとつの歌」を歌う者となった女。この別離と邂逅の物語では、二人の人格に託した形で、詩人の本質をなす事柄が言い表されている。詩人とは、沢山の言葉を尽くしてもただ「ひとつの歌」を求め続け、また歌い続ける存在ではないか。今回、清水さんの詩を集中して読む機会を得て、かつてこのメルヘンの読後に得た印象が、清水さんご自身の上にも重なるのを覚えた。

 真の詩人を特徴付けるそのような刻印は、すでに初期詩篇からも窺える。丁寧な終止形や句読点、また問いや呼びかけを用いて思考を深めてゆく端正な文体は、穏やかな清水さんの人柄を髣髴するが、それは早い時期に確立されている。文体だけではない。季節や雪、霧などの自然現象、石や子供の小さな姿、また夢や追憶、祈りといった心の形など、早くから清水さんの心を惹いた主題は、今日まで繰り返し取り上げられている。大切な主題に幾度も取り組みながら、不安と嘆きの世界に対し、希望の兆となる「ひとつの歌」を求め、変奏曲のように響きを深めてゆく。それが清水さんの詩の営みである。

 そのような作品のなかでも、言葉そのものの意義を扱い、詩人の存立を問うような作品には心惹かれる。それら所謂「詩法」そのものを主題とする詩は、清水さんの詩が生まれくる機微を明かしてくれる。早くは、詩集『光と風のうた』所収の「愛惜」。世界で顧みられず不当に扱われた存在や事物が「私」の中に入り込もうとするとき、その訴えをを受け止めて、留めようとする詩人の使命と愛を歌っている。また同じく「夜の塔」では、言葉の根源へと歩む途上の経験が、忘却と想起を経て作品に結実する、その経過自体が作品化されている。「ものたちが感じている」不安、苦しみ、いらだちを「夢のなかで」受け止める「暗い塔」としての詩人の人格がメルヘン的に描かれる。垂直の構図は、詩集『影の夢』の「回帰」においても保たれている。「空の中心にむかって/風光の全体が螺旋状に高まっていて/その中心点の真下では/涸れた井戸の底に/星がひとつ映っている。」夜の夢の耐え難い苦しみを経た後、魂の奥底に世界を映す詩人の内面はいっそう深まっている。

 世界に開かれ、境界に立って耳を澄ませ、物事をその真実の相において言葉にとどめようとする。そのような営みにおいて詩人は、充実した命や喜びに対しては自らも溢れ祝福する者となり、事物が危うく儚い夢の様相を示す時には、自ら危機を共にしつつ、存在の影や夢の意義を問う。事物に対するそのような扱いが許されまた為されねばならない根拠を、清水さんは(自己の内にではなく)存在や事物の側に見ている。断章集『翳のなかの仄明かり』では次のように述べられる。「すべての事物、存在は紛れもなく、たとえ僅かであれ、自身が受けた光を反映、反射している」。「それが自身のではなく、他者の背負っている闇、深淵の部分をほんの僅かであれ弱めている」。この主題は『冬の影』所収の詩「影」で作品化されるが、清水さんは、詩人の人格を、そのような事物の光(愛と言い換えられるだろう)が受け止められ、いちど忘却の醇化を経たのち再び輝き出す境界の場と見定めている。詩集『影の夢』に収められた作品「暗い心の」で、詩人はそれを心の奥底の「湖面」になぞらえた。

 湖面に照るこの朧気なかがやきは
 私の心の反映ではなかった。/
 なにかしらもっと奥深い底の方から
 あるいはさらにその向こう側の
 どこか遠いところから
 岩盤のほとんど無限の距離をつき抜けて
 ここまで達しているもののようにみえた。

魂の奥底を、「私」のものではない輝きが照らしていると詩人はいう。詩人自らがそのような反照の恵みに与っている。詩人の存立とその言葉の総てを「向こう側」から支える光。その光に満たされると、悲しみが癒え「記憶の全体に/生と死を結ぶ虹がかかった」という。この虹こそが詩の核心であり、それを見とどけることが詩人の使命であろう。このように清水さんの詩と人格を支える「向こう側」とは何であろう。

 素朴な信の時代は過ぎ去って、世界の背後から現実を支える実体への信頼は揺るいでいるが、その構図はなお命脈を保っている。清水さんの向こう側への志向も、西欧文学の幸福な伝統を出自としている。初期の作品「白い音楽の国」では、「遥かに高い」「薄明の国」(詩・芸術の源)から「降りしきる結晶」として、雪の形象化がなされた。根源からやってくる言葉、詩自体のメタファーとして雪は近年に至るまで繰り返し取り上げられている(詩集『冬の霧』所収の「空が崩れて」他)。

 ただし清水さんにおける向こう側(超越)は、(神と世界といった)伝統の空間表象の垂直性とは異なっている。むしろ、二重映しになって隣り合うような空間をイメージすべきであろう。「可視のすべてのものによって成る空間に対して、もう一つのひろがりをどう考えたらよいのか … おそらく宇宙の大きさに重なり合うようなひろがりとして、不可視のひろがりを考えずにはいられない」(『翳のなかの仄明かり』)。リルケの「世界内在空間」を想わせる言葉であるが、清水さん独自のものである。その空間は、日常の褐いろの壁の向こう、霧の合間、夜の闇の中などに澄んだ「顔」のように垣間見えていたが、時に、「見えない海」の波濤のように内側から詩人を駆って「世界の嘆き」を運び行かせる(「夜の暗さのなかで」)。さらに、次第にそれは、個人の記憶や祈念を超えた「大きな意識」として受け止められていく。「私たちが過去のなかにとり残してきたすべてのものたちが、かつての日のそのままに保たれている宇宙の内面空間。もしかすると、私たちの心はこの空間の反映の一つであり、私たちの記憶は宇宙の記憶の一断片なのかもしれない」(『翳のなかの仄明かり』)。このような「大きな時間」(「ムクゲの葉裏に蝶が」)を含んだ空間、それは、祈りによって開かれる空間である。「耐え忍ばれているこの大きな苦しみ」が「周囲の空気を聖なるもののように震わせる」とき、「世界はただの空虚では」なくなる(「この空虚の何処かに」)。「雪」の形象に立ち帰るならば、それは垂直の高みから降ってくるばかりではない。詩集『新しい朝の潮騒』では、このように歌われる。

 無言に近くつぶやかれた祈りが
 あの高いところまで上りつめたあとで
 もう一度 かたちを変えて
 その苦しみの熱を高いところに預けたま
 ここを訪ねてきたのか         (「雲」)

言葉は、たしかに根源の高みに発するが、ここではむしろ向こう側とこちら側を往還するものとして、現象に即して事物に近づき、詩人の周囲を充たしてゆく。

 そのような消息を示す詩の一つ、詩集『影の夢』に収められた痛切なまでに美しい一篇「秋のメルヒェン」は、同時に音楽に拠る詩法の詩でもある。冒頭の「夏の虹がふいに崩れて落ちた」とは、世界の崩壊するような悲しみの現実を音楽が想起させた一瞬の出来事を告げる。しかし、それは同時に、その現実を詩へと回復する一行でもある。「散っていった言葉」のかけらがなおも白い帆のように野を彩り、世界を渡っていく。有るものを有らしめるものに吹き送られて。これは風の形象だが、そのそよぎに託されて、世界が二重化し、より大きな広がりとなる仕方で、向こう側が示される。「むこうからこちらへ」「こちらからむこうへ」、この両方向の交錯する境へ、「秋が」(あるいは音楽が)詩人を導いていく。そして「むこう」は、「逝いた娘」がそこを「走っている」がゆえに真実なものとして詩人を迎え入れる。この詩の「向こう側」の存在感はこの焦点に発している。

 詩集『影の夢』では、世界の負の側面が俄然現実味を増した。先だって、現実の否定性に実在感を与える出来事があった。詩人はその名をついに挙げないが、幼い娘を亡くした心の痛手がそれと窺える。現実の生にとって、死者の住まう「むこう」は夢でしか臨めぬ影にすぎない。だが、奪う時の経過のなかで、生の備える悲哀や困苦のゆえに、現実もまた「影の夢」ではないか。「秋のメルヒェン」の告げる「度はずれた明るい悲しさ」、あるいは詩の末尾の「空いっぱいの虹色」は、「むこう」と「こちら」の境に一瞬のものとして回復された命の発露である。これも夢のように(あるいは音楽のように)行き過ぎてはゆくが、それでもやはり真の現実として回復された時なのである。詩とはそのようなものか。詩集冒頭の詩「回帰」という表題が示す新たな出発よりこの方、詩はそのような「向こう側」に確かに裏打ちされ、その境界の多様な豊かさを映し出すようになった。詩人はその境に立って先駆けてゆく娘の跡を辿ってゆく。「小さな足跡が森の奥へと消えてゆくのを」確かめながら(「いつか私が」)。詩集『逝いた幼い娘のための十七編』は、そのような向こう側からの導き手の登場を告げる。

 時の経過に沿って詩人は生の歩みを辿っていく。その過程で、詩人が自らをより大きなものの一部と自覚するのは、そのような歩みを迎えるものの気配を察するからであるが、それはしばしば「向こうから」迫り来るものとして(「漁夫の歌」)、歩んでくるものとして(「白い道」)、こちら側を秩序づける者として(「あなたの奏でたメロディーが」)詩人に訴えかける。二つの空間の境は、雪や虹などの諸現象として形象化されるが、多くはまた人格の姿を担っている。欧詩の伝統においては「詩(ムー)神(サ)」が、あるいはその立場を託された一人の女性(ベアトリーチェ)が詩人を先導していく。清水さんの近年の詩集『砂の上の文字』では、「向こう側」から詩を導くのは、すでに立ち去った親しい人々であったり(「鳩が鳴いている」)、現実の不慮の出来事で失われた人々であったり(「麗麗よ、睿傑よ」)、多様な相貌を見せるが、その総ての要として、詩集の世界に実在感を与えているのは、繰り返し現れる子どもの姿である。それは、詩人の幼年時代の姿をしていたり(「物置小屋」)、痛切ではあるがより普遍的な姿で現れ(「夢のあとで」)、あるいは、文字そのものも子どものように戯れている(「砂の上の文字」)。詩人がその訴えを敏感に聞き取るのは、掛け替えのない姿の導きが恒にあるためであろう。ひとりの導き手が絶えず詩人に伴っている消息を感じる。

 二つの空間の境に立って詩人が、世界や存在についていかに思索を深めているかについて、さらに語らねばならないところだが、すでに紙幅は尽きている。この選集を繙く者にとっては、清水さん自身がそのような案内者として立ち現れるだろう。「向こう」と「こちら」の境に立って、世界への命の反照を指し示す使者として、清水さんは私たちもまた辿る道を先駆けて行く。