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岡野絵里子『陽の仕事』を読む
                        --詩集評

 

エレメントとしての光・言葉

 岡野絵里子の新詩集を繙くとき、詩を作り読者に差し出す、そのような詩人の仕事が一つ一つの作品ごとに忠実に、しかも達人の域で果たされているのを感じる。嚆矢として配された詩「光について」、その最初の一連から形象がくっきりと立ち上がる。「眠りの中で人は傾く/昼の光を静かにこぼすため/鮮やかな光景を地に返すために」。平易な言葉で、しかし新しい発見を告げる言葉が、初めから読み手の心をしっかりと捉える。一作一作と読み進めるごとにその印象は深まっていく。例えば「永遠のカーブ」「ウォータークレス」「冬の馬」「観覧車」などの作品、いずれも初連の与えるインパクトは強い。

 どの作品においても、比喩を駆使する修辞の匠が、的確に彫拓の鑿を振るっている。本来の文脈からずらされ、移される先に新しい世界を開いていく言葉によって、読者の認識は拡げられ、経験もまた深められる。例えば「冬の馬」はその格好の一例。「冬 と呟くと 唇はお互いを呼ぶ形になる 畳まれていた来歴を少しだけ広げてみるのだ 一対の静かな息になって」。リトグラフ鑑賞を契機とするこの詩は、それ自体が一枚の静物画のように、巧みに配された精緻な構図を形作るが、言葉は視覚化する譬えの域を超えて、ひとつの精神性さえをも定位するに至っている。

 「陽の仕事」とは何か。--詩人によって描き出されるのは、二十一世紀初頭の一般市民の日常生活。その様々な姿が、詩人によって時と所を切り取られ、作品ごとに形を備えられていく。詩集一冊の向こうに浮かび上がるのは、澄んだ知性と豊かな感性に裏打ちされた一つの街の風景、そこに暮らす人の透明な世界である。詩人はそれを「人の領域」と呼ぶが、この領域がその精彩を得るのは、その輪郭が浮き上がり、その境を越えて彼方に託される視線と、境の向こうからこちらへ働きかける消息とが交錯するためである。詩人は、そうした見えない往還を裏打ちする働きを見据え、これを一言で「陽の仕事」と名指す。「人の領域」は向こう側からの「陽」の働きかけに支えられている。「陽の質問」によって問いかけられ、「一日の頁」が折られる。「通り過ぎる」「陽のつま先」によって時は区切られ、手や舌先で「次々と触れていく」陽の動きによって、人の生活は秩序づけられ、喜怒哀楽の色彩を付される。だが普通人はそのような境界や消息を意識しない。

 「エレメント」という旧い言葉がある。水なくして魚が生きられないように、人は空気を呼吸せずに暮らしてはゆけない。水も空気も、生き物が住処とし、生存に不可欠とする四大(エレメント)の一つ。詩人は「光」をも、エレメントとして指し示す。光を抱くことによって「人は あふれるように歩いて行く」。「私たちはたやすく包まれる 光とか 声とか」。声は光と同義とされている。歌もまたそうである。「音楽の中を 人は歩く」。言葉もまた人のエレメントなのだ。歌・言葉は「陽」の領分に生まれるものとして、「永遠」に接している。「だが歌は あるいは/もう 歌でないものは/人より 遠くまで行く/振り向きもせず ただ/高らかに」。「公園」に弾む「光の球」、あるいは「草の冠」に明るく「そよぐ意味」は時を転がり、「私たちもまた光の一つ」として人を永遠に近づける。だがそれは、「死の積み重なったこの地で」は「飛び去ろうとするもの」でもある。光輝の瞬間性が、人の生を儚いものとして美に近づける。だが人は--「陽が止まる 新しい私たちの日に」--この感得の更新ゆえに、新たな一歩を歩み出すことができる。

 頻出する「私たち」という詩的人称が、この詩集を特徴付けている。複数一人称は単数形の「私」よりも頻出する。「ウォータークレス」や「冬の馬」「観覧車」等の作品では、身近な者の同伴を窺わせる双数的一人称であるが、「私たちは注がれる この小さな永遠の器に」や「私たちが求め続けるのは 多くを失ってきたからだ」など、すでに「人」と同義である。--「人は あふれるように歩いて行く」、「歩く人の髪に光が止まる」。人称は、人の存在論的位置づけを問う詩人の姿勢を映す。「虹鱒の時間」ではさらに、自然世界と存在一般の秩序の次元にまで問いは開いていく。そこで「陽」とは、光の営みの由来する光源であり、人に存在の肯定的価値を備え、保障する役割を担う。しかし、そのような肯定は、あくまで「陽の問い」に対し「私は今日の者だ」「私はここにいる」と応える詩的主体においてのみ生起するのである。「私」は、詩集の所々に鉱脈のように露光しているが、その出現はつねに何かしらの否定的契機に接している。--「囁く過去の影の中から」「夜ごとの孤独な夢の中から」「叫びを呑み込むあの深い淵の中から」。「光」は、その不在としての「影」「夜」をも併せ持つがゆえにいっそう光輝を増すのである。光と闇の交錯する境で、意識に不安をもたらす薄明が「夢」として繰り返される。だが、闇が決定的に嵌入するとき、夜の反照はかえって世界を冴え冴えと明るく澄み渡らせる。その典型を作品「聖夜」に見ることができる。「陽」のどこにも差さぬかに見える詩だが、「この世のどこにもない名を呼ぶ」までに極まっていく「私」の言葉において、「悲」へと反転した響きの中に「陽」が結晶している。エレメントとしての言葉が肯定されるかぎり、人間と世界の存立は、悲喜・禍幸の総てを容れる存在の方から肯定されるのだ。この意味で、「陽」は遍照するものであり、「仏性」や「恩寵」に準えることができる。

 詩「水の声」では、「陽が砕く」と、「陽」の破壊的様相が唯一明示的に述べられる。「三月十二日 浦安」との副題が被災経験を暗示するこの詩では、書かれていないことがむしろ語っている。詩人は、「あらゆる地を通った静かな声を」「億年を知る動かない目の下で」受け止め、嘆き、抗い、怨念、非難を語らない。さらに詩「恢復期」では、「朝ごとに 私たちは砕かれ そしてまた満たされる」と書き継がれる。詩集全体の章立てを俯瞰するならば、秋から始まり、冬、春、夏を経て、また秋へ還るように作品が並べられている。春を軸として、前後に対称となるように一年の時の巡りが構成されている。「水の声」はその対称軸「春」の冒頭に置かれ、「恢復期」も続く「夏」の章の劈頭に配されている。読者は二〇一一年という時の進行に沿って全体を読むかもしれない。だが繰り返し読むならば、むしろ逆に「陽の仕事」の「億年」の相のもとにこの一年が包摂されているのに気づく。情緒的慰藉ではなく、陽の恩恵的相貌のもとに、光の創造的喜びから否定をもあるがままに受け止める。そこに詩人の願いと創作への意思を読むべきであろう。

存在を崩壊から免れさせ、闇や恐れの淵から導き出す動機に創作が発するとしても、光を受け止め、また備える営為が、成果として人を幸福に導くことは必ずしも約束されていない。岡野氏の詩が、読者に「陽の仕事」を実感させ、日向の幸福感を備えるのは、なによりも詩想に翼を備える言葉の力、そのもたらす息吹の豊かさによるのである。


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