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書窓の隙間
創作 Novelle

 

旅立ちのころ



 ドイツで大学に入ったらどう。浪人するよりずっといいわ。――そう、そう、若い内に経験を積んだ方がずっといい。――勧めたのは鈴子先生。相づちを打ったのは櫂さん。

 世の中がずっと楽天的だった高度成長期。というか、自分があまりに楽天的で世間知らずだったと言うべきか。大学も間もなく卒業というのに、四月からどうするか、全く定まっていなかった。周りもそんな雰囲気で、のんびりは自分だけではなかったが……

 就職試験は一応ひとつ受けた。格好だけは示そう、と申し訳的に。勿論、沈没。学びを続けたかったのか? それならば、目標を見据えて準備をすべきだったろう。受けた大学院は全敗。さすがにこれでは、と反省し、初めて真剣になった。残る唯一の選択肢。来年の進学を目指して受験勉強に早朝から机に向かい始めた頃だった。

 御両親を説得して上げるからそうなさい。その方がずっと有意義よ。――そう、そう、決心が第一、準備はそれから。教えてやるから。――二人の勧めというか、誘惑にうまくのせられて、臆する暇もあらばこそ、その時は手続きの面倒など知らぬが仏。無我夢中の内にいつの間にかことは進んで、七月にはもう飛びたっていた。というわけで、卒業の日付は七月(一旦撤回した卒論を再受理。そんな恩顧を今の大学が許すかどうか?)。羽田を発った学生旅行専用のDC8機はアンカレジ経由でパリの朝へ、東(エスト)駅からその日の夜行でドイツへ……

 旅行ビザで現地に行き、入学申し込みの手続き。三ヶ月後に語学の試験があったが、朗読された新聞記事をなるべく多く再現するように、文法の誤りは気にせずともよいというもの。大学で学んだ語学もいくらか役にはたった。出発前には強制送還もありうると脅されていたが、親切な出会いもあってなんとか学生になれた。



 鈴子先生には、入学したての一年間にドイツ語を習った。先生自身も大学院を経て、教養課程のドイツ語教師として赴任したばかり。姉御肌と言うより男気と呼びたい気っ風のよさは、すぐにクラスの心を捉え、学生たちは寄っていった。間もなく私も、招かれるまま家にお邪魔するまでに。櫂さんに会ったのはその最初の訪問の時だった。

 東大闘争が収束を迎えた頃、学生たちはそれぞれの学部へと還っていった。櫂さんはそれを妥協と看做し、潔しとしなかったという。自分は復帰せず、学生の身分すら全く放棄していた。それでいて発言の端端には、知性の香りが伴った。眼は優しかったが、誰かの発言に誠実から逸れた諂いや底意を感じとると、眼差しは鋭く光った。

 鈴子先生宅を訪ねると櫂さんがいつもそこに居る――それにはさすがに不思議の念を懐いた。鈴子先生には学生時代に結婚した夫の敦夫氏がおり、ある私大でやはりドイツ語教師をしていたが、家でお会いすることは稀。たまたまある時、鈴子先生と櫂さんが親しく会話している、いや丁々発止を繰り広げている、そこに敦夫先生が帰宅されたことがあった。いらっしゃい、ごゆっくり、と早々に二階の自室に上がってゆかれた。

  またある時、櫂さんがまだ現れず、鈴子先生と私と二人だけの時、これを見て頂戴と。示されたのは、なんと一振りの短刀。手入れをしていない錆が目についた。櫂さんの母親から譲られたものという。櫂さんは、母一人子一人。家は賄い付きの下宿を営んでいると聞いたが、武家の家系として娘が代々受け継いだその懐剣を、或る時、よろしくお願いします、と鈴子先生に託したという。



 私のドイツ行きを鈴子先生に進言したのは、櫂さんだったとあとで知った。鈴子先生自身も半年後には、研究資金を得てボンに滞在することが定まっていた。それに合わせ、櫂さんも渡欧して、ペルージアの外国人大学に入ろうと計画していた。そのためのノウハウを私の渡独準備にそのまま伝えてくれたことになる。

 その一つが、ユーレイルパスの一等三ヶ月の購入。西欧の複数国の鉄道を自由に使う旅が出来る。入学申し込みの手続きをなんとか終え、夏期休暇中の学生寮貸出しに居を定めた頃、櫂さんがゲッテインゲンを訪ねてきた。――私の渡独に続く時期、櫂さんもイタリアに渡っていた。――開口一番、これから一緒に旅に出ようという。旅の指南が始まった。ゲッテインゲンの街を一日案内したら、その晩はハノーファーから夜行列車で発ち、明けた頃にフランス南部の町カルカッソンヌに着き、そこで一日をすごす。その夜すぐにまた夜行でバルセロナを経て、朝はマドリッドからトレドへ。ホテル代を極端に節約するバックパッカーのはしりのような旅。思いもよらぬ移動の形であった。

 当時、列車の車両は、国毎に形の差はあれ、コンパートメントの座席を両側から真ん中の通路部に引き寄せると、一室全体が平らなベットに様変わり、寝台車の代わりになった。一等であれば客は少なく、好きな車室を独占できた。それが一等を選択した理由。ユーレイルパスであれば、どこからでも乗車可能。だが、時には失敗もある。アムステルダムを目指した時は、アーヘン辺りで夜が明けた。そこはドイツのビジネス地域で、ネクタイをした男性に叩き起こされた。東洋人の若者が汚い寝袋を纏って一等車に寝ている姿が気に入らなかったか。他にも空いた車室はあったのだから。ドイツはいまなお階級社会である。つまらない事は忘れましょう、と櫂さんは言った、――オランダにはね、スケベニンゲンっていう地名があるのよ。

 一度、櫂さんをペルージアに訪ねた。近くの町アッシジを案内された。櫂さんを撮った貴重な写真が残っている。長髪で道路脇の白壁にもたれ、黒縁眼鏡を通して眼は笑っている。その時もいろいろと廻ったあと、オーストリアのハルシュタットまで足を延ばし、珍しく一泊した。国境を越える度にパスポート審査で眠りが妨げられる。さすがに十日も続けると疲れ、私は別れて帰り、襤褸のように眠った。櫂さんはそんな旅を続けてリスボンやアテネまで行ったらしい。どこでも一日海を見ていたという。自分も同じような旅に出たが、パスを使ったのは半分位。あとはゲッテインゲンに戻り、知り合った友人と過ごした。それが語学試験に役立った。いずれにせよ、両親を説得した姿とは大違い。毎日夢中で、音信もせずに相当心配をかけた。

 三ヶ月のパスが切れる頃、櫂さんがもう一度訪ねてきた。リューデスハイムまで行き、葡萄畑から眼下にラインを眺め語りあった。櫂さんと会う最後の機会となった。



 一年後の秋、櫂さんから久しぶりに便りが来た。鈴子先生に連絡を繰り返しているのだが、何の返事も来ない、と。私を介して、鈴子先生の消息を訊ねる内容だった。特別なことは何も知らない、と返事をした。

 実はその夏、学期が終わるとすぐに鈴子先生をボンに訪ねていた。先生は、優子さん、憲子さんの娘二人を連れての滞在。学齢期をはさんだこの二人とは以前、鬼無里の避暑地にお訪ねした際に親しくなっていた。彼女たちの口から、その日には私の他に、もう一人の訪問者があると聞いた。鈴子先生の研究滞在を受け入れた大学の主任で、リンネ教授と紹介された。その日は私も、彼を接待する役目を買ってでた。あとで鈴子先生から、教授についての逸話をいくつか聞いた。研究室で先生が机にお茶を零したら、教授が引き出しからすぐに雑巾を取り出し、さっと拭ったとか。典型的なユングゲセレ(独身男性)ね、と教授の秘書と一緒に密かに笑いあったという。――そんな見聞を櫂さんに伝えたかどうかは覚えていない。

 櫂さんへの返信と交錯するように、鈴子先生からの手紙が来た。急に帰国する用事ができたから、その間、どうか優子と憲子の面倒を見てくれないかと。唐突な依頼に驚いた。冬学期がやがて始まろうとするころ。返答に迷っていると、追いかけるように届いた二通目。あなたの人生の大事な時期。その時間を奪うのは心苦しい。前便の依頼はどうか忘れてほしい。ご免なさい。――こちらの内容も一方的で、返事のしようが無かった。その後の一年は、鈴子先生とも櫂さんとも、手紙すら交わさずに過ぎた。自分の将来の悩みが専ら私の心をしめていた。

 鈴子先生の一時帰国の理由について、その手紙でうち明けられたのか、あるいは後で聞き知ったのか、実はよく思い出せない。敦夫先生と離婚の話をする。それは、リンネ教授と再婚するため。いずれにせよ、そうした一連の事情は、あとで噂として耳に入った。学会というのは村社会である。スキャンダルはすぐに伝わる。嫌いだと思ったそんな社会に、やがて自分も身を置くことになった。鈴子先生と敦夫先生の間はその後も友人の関係が続いている。二人のそんな姿には、人としてどこか親しみを感じる。鈴子先生には、教師になってからの研究発表の帰りに、たまたまフランクフルト行きの列車内でお会いした。リンネ教授とともにイタリア休暇旅行に赴いた帰りとのことだった。



 櫂さんの消息については、なかなか知る機会が無かった。ゲッテインゲンからの帰国後、大学院進学が叶い、私淑していたある先生の主宰する聖書研究会にも出席するようになった。櫂さんも学生時代、その集会に属していたことを知っていた。その点での期待もあった。夏期合宿の際に、櫂さんの親戚筋の女性と出会う。留学時代に櫂さんに親しくしていただいたと告げると、その方は言いにくそうに呟いた。櫂さんは自ら命を絶ったと。いつ、どこで、とはもう訊かなかった。





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