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書窓の隙間
創作 Märchen

 

ユリアと煙の侏儒(こびと)



   1 到着(プロローグ)

 ユリアは野原を趨(はし)っていました。後ろからやはり誰かの小走りの足音が、追いかけるように迫ってきました。でも、怖くはありませんでした。むしろ、その誰かがユリアを掴まえてくれたら、きっとうれしいことだろうと・・・ 迫ってくる足音がいよいよ高くなり、ユリアは胸の鼓動が高鳴るのを・・・

 身体(からだ)が大きく傾きました。制動の態勢に入った車体が、慣性の力でユリアを眠りから引き戻しました。ブレーキがずっと引かれ続けています。

 列車が止まると、そこは田舎町の寂しい駅。ホームの端から端まで、ひとりの駅員の姿もありません。客車から降りたのは自分だけ。駅舎の方から、紺色の外套を来た初老の婦人がひとりだけ歩んできます。ユリアの姿を認めると一瞬驚いたようでしたが、控えめで気品のある会釈をして、すぐに客車に乗り込んで行きました。

 列車が行ってしまうと、本当にもうユリアひとりです。駅舎はがらんとして、誰かに道を聞くこともできません。町へ向かう道は一本のようです。ともかく道の向かう方角へ歩いて行くことにしました。

  古い街は、たいていどこでも同じような並びをしています。町の中心には、庁舎と教会に挟まれる形で広場があり、その一隅には必ず、昔からの小さな噴水があります。ここもあまり人気がありません。広場を横切る人影もまばらです。



   2 訪問

 病院はすぐに分かりました。町の中心から少しはずれたところに、昔ながらの木枠組(ファッハベルク)の建物が立っていて、その看板の「聖エリーザベト療養院(クリニーク)」という文字が眼に入ります。由緒ある建物を、公共の施設に用いている。そんな趣です。

 入口をはいると、そこは、病院というより、老人の家と呼んだ方が相応しいような施設です。ロビーのような広間に数人、掴まり歩きをしたり、車椅子に乗った老人が、食堂への歩みを導かれたり、身の回りのことの世話を受けていました。

 受付で尋ねると、父はやはりこの病院にいました。ユリアがここを訪れたのは、父を訪れるためでした。父とは、すでにもうずっと前、ユリアがまだ子供と大人の境の頃に別れたきり。それ以来、一度も会ったことがありません。部屋に案内されても、敷居をこえて中に踏み入るには勇気がいります。

 父の病は重そうでした。点滴や酸素吸入、そのほかにも何かわからない機具から父の体に管が結びつけられています。肩で息を繰りかえし、呼吸にはときおり苦しげな呻きが混じります。まだ六十歳に満たないはずですのに、顔には先ほど見た老人たちと同じくらいの皺が刻まれているのに驚きました。

 父は眠っていました。声をかけても返事どころか、反応すらありません。拍子抜けした気持ちがしました。いつか会えたら、話したい、いや訴えたいことがたくさんある。そう思いつづけてきたのに・・・ ユリアの失望は小さくありませんでした。

 先日、父の様子を知らせるとともに、知らない人から親戚かどうかとの照会があったとき、その連絡はすでにあちこちを巡りめぐってやっと届いたという感じでした。ちょうど学期も休みに入ろうという時期で、ユリアの仕事も一段落という頃でした。

 この休暇は、特別なものになるはずでした。たしかに、まだずいぶんと特別ではあります。ただ、ユリアの思い描いていた仕方とは違います。ユリアは、携えてきた気持ちの向けどころを失い、何をするということもなく窓辺に立ちつづけていました。

 タウヌスの山並みの向こうに冬日はすみやかに落ち、いつの間にかあたりはもう暗くなりかかっています。



   3 人形

 ユリアはふと、誰かに見つめられているような気がしました。振りかえると、父の枕元の何かが窓からの夕の輝きを映しています。人の目です。ユリアは、びっくりしました。

 でも、よく見ると、それは人形でした。テーブルの上に小さな人形が置いてあるのです。黒いマントを着て、帽子をかぶっています。右の肩からは斜めに大きな袋を背負い、がっしりとした靴を履いています。まるで、昔の絵に出てくる旅人さながらの姿。何かを手にしています。大きなパイプのようです。その端は、歌でも歌うかのように大きく開いた口へとのびています。

 まあゲオルク、とユリアは声を上げました。確かめるように目を凝らすと、やはりそうです。昔、まだ父がユリアと一緒に暮らしていた頃、父が大切にしていた人形に違いありません。確かそれは、「煙の侏儒(こびと)(ロイヒャーメンヒェン)」とかいう種類の人形でした。

 「煙の侏儒(こびと)」、それはむしろ、燻香人形とでも呼んだらよいでしょうか。たいていは大きなパイプを口にくわえているか、手に持っています。胴体と足の部分とが二つに分かれ、その間に隙間があって、そこに香を焚くような仕組みです。小さな円錐型の香に火をつけて人形を立てておくと、口から煙が立ち上り、まるで人形が煙草を吸っているかのよう。もとは、くるみ割人形と同様、エルツからテューリンゲンに至る地域の貧しい農民たちが農閑期の手仕事として作ったもので、降誕節(クリスマス)が間近になると、歳の市の出店などで売られました。今でも手に入りますが、立派なものは、ニュルンベルクの華やかな歳の市などで、観光客が玩具店から買い求めていきます。

 父もまた、そんな店で手に入れたのでしょうか。ユリアがまだ小さかったとき、夕刻になると時折、父の部屋から独特の薫りが漂ってきました。ユリアは、その薫りに惹かれて父の部屋を訪ね、膝に抱かれて、もう一度火をつけて、もう一度、とせがんだものでした。そのとき父は、ごきげんよう、私はゲオルク、とまるで人間でも紹介するように、人形の名前を告げました。大きな手の上で、人形は神妙なお辞儀をしました。

 でも、それは壊れてしまった、いや、ユリアが壊してしまったはずでした。怒りにまかせて投げつけたとき、胴体と腰だけではなく、手足もばらばらになりました。すらりと長いパイプも無惨に折れてしまった。そのさまがまざまざと思い出されます。



   4 伝説(ザーゲ)集

 まあかわいい人形だこと。あなたが持っていらしたの。 ― 部屋に入ってきた看護婦の問いかけに、ユリアの想いは絶たれました。いいえ、と答えながら、ユリアは密かに、あら、と思いました。看護婦の言葉から推し量ると、この人形はどうやら、父の持ち物ではなかったようです。でもこれは、たしかにゲオルク。するとこれは、見舞いに来た誰かが置いていったのでしょうか。

 ユリアはふと、先ほど駅ですれ違った物腰のおだやかな夫人のことを思いました。勘違いかも知れません。でもそうだとしたら、いったいそれはどういうことでしょう。

 人形を手に取ろうとして、ユリアは、人形の足元に一冊のちいさな本が置かれているのに気がつきました。古く地味な表紙。しかし、手に取ると、掌になじむ皮でしっかりと製本されていて、全体が特別に誂えられたような体裁をしています。ユリアは知らないうちに扉を開いていました。旧い伝説(ザーゲ)を集めた書物のようです。ぱらぱらと頁をめくっているうちに、ちょうどあるお話の始まりのところが開かれました。



   5 ウィンフリート伝説(公会伝承)

 むかしむかし はるかむかしのこと。 大いなる山脈(やまなみ)の北に広がる ふかい森の中を ひとりの修道士が歩んでいた。 修道士とはいっても そのころはまだ 勇猛な騎士(いくさびと)と区別をつけることが なかなか難しい時代のこと。 その修道士はもう若くはなく 黒馬にまたがった後姿にはたしかに 老いの衰えを窺わせるものがあった。 しかし その眼差しの鋭さにはなお 多くの苦難や 鍛錬の日々を乗り越えてきた者のみが持つ 不屈の意志が表れていた。

 修道士の名前は ウィンフリート。 はるか大海(おおうみ)の彼方 ウェセックスという町に生まれた。 若き日に ひとしくその町出身の同名の叔父 そう 時の教皇グレゴリウス二世に ボニファテイウスの名を授けられた あの高名な聖人の招きで この堅い大地 大陸を訪れたのだ。 ボニファティウスが 先祖伝来とはいえ まやかしと迷信の集積にすぎなかった 土地の神々の教えと闘い ついにかの邪神トゥールの象徴 ガイスマールの樫を切り倒したとき 若者ウィンフリートもその従者の一人だったという。

 爾来 ウィンフリートは この勇ましい叔父を誇りとし 模範と仰ぎつつ その生涯を歩もうと志した。 自らはひそかに そのような果敢な心を欠くという 憂いを抱いていたけれども。 正直をいえば ボニファティウスが かの敬虔な修道女リオバを ドイツ伝道のために招き タウバービショフスハイムに 女子修道院を築かせたとき 姉のように慕っていた この女性(ひと)から別れがたく ウィンフリートも 故郷を後にした。 真実はそのような事情であったから。 もちろんこれは他人(ひと)に言えることではない。 リオバその人のほか これを知るものは誰もいなかった。

 時はひとを育み 試練はひとを引き上げる。 なるほど 献身の契機においては いささか勇ましさを欠いたかもしれぬ。 だが 叔父ボニファティウスの 信頼と支援とに応えんとして ウィンフリートの自立心は鍛えられた。 さらに 希な機会とはいえ 心優しいリオバは 彼の心を察し 「やがて天のみ国にて み使い同士のように見(まみ)えるまで」と 彼のはやる心を鎮め、励ましの言葉をかけてくれた。 これに応えてウィンフリートも 己が立場をわきまえ 「一人の人を愛することが許されないのなら 俺は世界中の人を愛そう」と誓い その誓いを果たすべく いくどとなく困難な伝道の旅へと出ていった。

 そのような自制と 克己心こそが まことに若者の心を鍛え 大いなる業へと備えさせる。 いつしかウィンフリートは 北の辺境の各地で 異教によりたのむ幾多の人々を神に立ちかえらせ いたるところに修道院を築き 叔父の後継者と目されるまでに ひとびとの信頼を勝ち得るに至った。 その名望は 大いなる山脈(やまなみ)の南にも聞こえ ついには 教皇じきじきの委託を受けるまでに。 教会が西と東とに別れてよりこのかた 訪れる者も希な 東の地域を導くべく 再び宣教の業を始めるようにと。 かくしてウィンフリートは 従順に辺境の地に向かって旅立ったが これが運命の旅となるとは 自らは知るよしもなかった。

 この道をたどってゆけば その行く手はフリュギアという 東の果て まさに世界の果てる所に至ったとき ついに夜が暮れ 日々の糧も底をついた。 道沿いに人家はまばらに見えるが どの家も警戒して 訪れる者に堅く扉を閉ざし 息をひそめている気配。 これでは今夜は 野に宿営を張らざるをえない 食料の調達も不可能かと 一行が覚悟を決めたとき 薄暗くなった道を誰かが歩んでくる。 夕闇に浮かび上がった その姿は一人の少女。 丁寧に礼をつくし 一行を招く。 どうぞ今宵は私どもをお訪ねください 父母(ちちはは)がそう申しておりますからと。 これはありがたいと 歓喜の声があがるなかで ひとり声もないのはウィンフリート。 娘の姿かたち また物腰のひとつひとつが、 あまりにもリオバそのひとに似ていたのだ。

 案内された先は 思いもよらぬことに 戸口の低い みすぼらしい住まい。 床とは名ばかりの 土間に粗布を敷いた所に 炉が切られている。 だが 待っていた老夫婦は この生活には何の引け目も 恥ずるところもないというふうに 一行を暖かい言葉で迎える。 老人が惜しげもなく 蓄えの小枝を炉に投ずるそばで 老女は夕餉の準備にと 梁につるした乾し肉をおろし これまた当然という風に 人数分を充分に切り取る。 一行がみな 食して満ち足りるようにと。 二人の孫娘らしい 先ほどの少女は かいがいしくも二人に仕えている。 そのあいだに勢いを増した炎にまして この一家の眼差し また長旅をねぎらう言葉は暖かく まことにこれにまさるもてなしは 教皇ですら受けられはしないと ウィンフリートの心は熱くなった。

 ささやかでも 心の豊かな饗応が済み さて一晩の床を借りるときとなった。 満ち足りた一行みなの感謝を伝えるとともに かくも旅人にねんごろな一家に 神の祝福と加護を祈って差し上げたいと ウィンフリートが申し出る。 老人はそれを恭しく受け それはまことにありがたいことと述べて さらに言葉を継ぐ。 旅人をもてなすことは 私たちの喜びの糧。 むしろ私どもに欠かせぬことなのです。 地上の生涯(いのち)の なによりも祝福の源として 私たちはこの営みを 久しく受け継いでおりますからと。

 その昔 この地を訪れた二人連れを 懇ろに迎えた老夫婦は 仲むつまじく齢を重ね 互いの死を看取ることなく 等しくこの世を去ったと伝えられております。 彼らの変身の徴として この林苑に立つピレモンの樫とバウキスの菩提樹。 これらの神の木を護る神官としての務めが そのような喜びを備えてくれるのですと。

 神の木! その言葉を耳にしたとき ウィンフリートは 従者たちの心が静まり ひっそりと聞き耳を立てている気配を 背中にひしと感じた。 だが 真実の愛に生きる者は 神の愛のおよぶ境を自ら定め そこに垣根を立てる者であってはならない。 愛とはまた いずれが勝るかなどと 競い合いの言葉で語るものでもなかろう。 動ずることなく ウィンフリートは 自らが身と生涯を捧げる天の神とその独り子のことを語り その祝福をこころからこの一家のために祈った。 これにはまた喜びと感謝が返ってきた。かくして一夜が過ぎ 明くる朝も心よりの感謝と 祝福とをもって ウィンフリートたちはこの老夫婦の住居と森を後にした。 

 だが しばしの道のりを行ったとき ウィンフリートは気づいた。 先ほどから 一行の足取りがそろわない。 胸騒ぎと悪しき予感をおぼえ 弟子たちに問いただすと 案の定 この伝道旅行に後から追いついて加わった ルルカとその一党の姿がない。

 急いでとって返し 老夫婦の住まいを尋ねんとしたが、もう遠くから 森に火の手が上がっているのが見える。 なんということを! ウィンフリートは呪いの言葉を発しかけ 危うく口をつぐんだ。 森のひとところ高々と 木々の枝が折れ 木肌があらわになっている そのあたりを目指すと、 地面には 倒された二本の太い幹が無惨に横たわっている。 その前に立ち、ルルカとその仲間が 斧を手に 昂然と挑むような眼差しで ウィンフリートを睨みつける。 今は問いただしている暇はない。 さらに 昨晩ひと夜を過ごしたあたりに 老夫婦の住まいを尋ねると、 その質素な住まいも形をとどめてはいない! 老夫婦はどこに行ったのか。 その骸に見ずにすんだのは幸いだが 彼らの姿はかき消えて いくら探しても見つからない。 あの愛らしい少女もどこにも見いだせない。 とってかえしルルカに訊ねても 彼らの行方はついに知れなかった。




   6 煙管(パイプ)の歌

 聖ボニファティウスのお話なのだわ。頁を繰っているうちに、ユリアは気づきました。かつて聖人伝(レゲンデ)で読んだような気がします。ボニファティウスに甥がいたのかしら。

 子供の頃に行ったカトリック教会のミサの光景が思い出されました。ミサの中程で、助祭が廻していた香炉が(その頃はまだそれが何か知りませんでしたが)目に浮かびました。まるで飛翔独楽(ヨーヨー)でも廻すように、鎖の端につけられた香炉が振り廻されると、教会全体が香の薫りに包まれる。そんな場面でした。ミサの全体は、言葉がわからないのでいささか退屈なものでしたが、香炉だけはその生き生きとした動きに心がおどるような気持ちがしました。あの薫りはゲオルクの煙に似ていた気がします。

 父は煙草を吸いませんでした。なのに、どうして「煙の侏儒(こびと)」に惹かれたのでしょう。ふつうの人が、しかも大人の男が人形に対して示す思い入れとして、その強さはやはり尋常なものではありませんでした。父がいなくなってからも、ユリアはふとそんな疑問に捉えられることがありました。

 それはたしか、大学入学の手続きを終えた頃でした。中等学校の音楽の教師を目指して、ユリアが心を弾ませていた頃のことです。ユリアは、楽器店の飾り窓で綺麗な楽譜を見つけました。『アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳』。そう、あのヨハン・ゼバスティアン・バッハが、自ら家庭で親しんだ楽曲を集めたものとして有名な曲集です。父の遺したレコード収集の中にありましたので、知らない曲集ではありませんでした。でも、楽譜としては異例の、堅牢ながら瀟洒な装幀に心惹かれて、いつのまにかユリアはその楽譜を手に取っていました。ぱらぱらとページを繰りつつ、その終わり近く来たときのことです。ある歌詞の一節がユリアの心を捉えました。

  俺も煙管(パイプ)と似たようなものだ
  ももとをたどれば粘土と塵だ

 表題には「煙管(パイプ)の歌」とあります。人間の生身の体を煙草のパイプに準えるくだり、詩は機知と悲しみをふたつながら醸し出しています。本当に、ひとの命は息にあること、また、その息の所在を、煙草の煙ほどはっきりと眼に焼き付けるものはありません。あのころ、あるいは父も、そんなことを想いつつ香に火を点けていたのでしょうか。

 時代は移り、喫煙者にとっては、ずいぶんと棲みにくい世の中になりました。ユリアも喫煙者に同情しているわけではありません。でも、その曲に接して以来、ユリアは、煙草を吹かす人の周りにはその人の命が立ちこめているような気がしてなりません。

 ウィンフリートのお話はさらに続くようです。



   7 ウィンフリート伝説(終焉異説)

 伝承に拠れば ウィンフリートの伝道旅行は そこで終わったと語られている。 この後は ウィンフリート自身の行方が ようとして知られなくなった。 その活動が フリュギアの人々の怒りをかって かの地で殉教したとか あるいは 棄教して東の地で家庭を営んだとか 様々に語られはしたが その真相は誰にも知られなかった。 ひとの噂も途絶えるころ 北方フリースランドの地で 大ボニファティウスその人が殉教を遂げ フルダの地に葬られたとき その後継者として マインツの司教の地位を嗣いだのは あのルルカだった。 かくしてルルカは 旅の成果をもっとも巧妙に用いることとなった。 なにしろ異教を祀った 名高い邪神の象徴をみごとに 二本もうち倒したのは彼だったから。 この地位継承には おそらくは彼自身に帰すると思われる中傷 ウィンフリートの棄教の噂も なにがしかの力を発揮したかもしれない。

 そう この話の冒頭に描いた 老修道士のありさまとは まさしく そんな時期が もうずっと昔に過ぎ去ってしまった後の ウィンフリートの姿。 彼は殉教してはいなかった。 異邦の地で 普通の人として暮らしてもいなかった。 相変わらず修道士として 異邦の地を彷徨いつづけていた。 彷徨いつつ求めていたのだ。 求める想いの厳しさが その姿に強靱な意志の刻印を与えた。 その強さは何よりも彼の眼差しに まるで勇猛な騎士のものかと思われる閃きを与えた。 さまよいつつ彼はいったい何を求めていたのか。

 ルルカの行為は ルルカの信と忠誠に拠るもので 若いウィンフリートだったら 自らもそのとおり 振る舞ったかも知れない。 彼をこの使命へと派遣した人々も きっとその行為を賞賛したことだろう。 しかしウィンフリートは そこにどうしても 人としての真実を欠いたものを 感じざるをえなかった。

 信とは真(まこと)ではないだろうか。 けれど 憤ってルルカをののしったとき 彼の中でかえって 信仰(こころ)と情念(おもい)とが ふたつに分かれてしまった。 信仰は情念を非難し 情念は信仰との同伴を拒んだ。 そのような者として もはや彼は己が何ものであるかを見いだせなかった。 ましてや地位ある司祭として 人を導くことなど。 そののち彼は 十数年もの間 各地で貧しい人々に施しをし 多くの人の命を救ってきた。 しかしついに 独り己のみを救いえなかった。

 ある日そのようにして彼が なおも辺境の地を歩んでいくと 冬の気配を迎えた 色彩の乏しい土地に ドナウの谷の方角から 白い霧が追いかけてくる。 霧に逐われるままに歩み続けていくと 前方にあたらしく 大きな森が彼を迎える。 道は傾斜になり 森の奥へ奥へと続いていく。 ウィンフリートは一瞬ためらったが 耳を澄ますと道のはてに 沈黙の響きのようなものが 彼を促しているように思われ 森の奥に向かおうと心を決めた。

 森の沈黙に促されるように 黙ってひたすらに 目の前の斜面をしばらく上ったとき 道の彼方をふと子供の姿がよぎる。 一瞬のことだった。 幻か。 だがその姿にウィンフリートの心は躍った。 あの少女 リオバによく似たあの少女だ。 ウィンフリートはさらに目を凝らす。 目を凝らすと たしかに子供の姿が見える。 その姿は まるで鞠のように跳びながら遠ざかっていく。 嬉々としてはずむ笑い声は ウィンフリートを招いているよう。 彼はすぐさま決断してその後を追った。 だが いくら馬を急がせても 子供の歩みはさらに素早く 次々と枝を移りゆく小鳥さながら。 そのようにしてウィンフリートを さらに森の奥深くへと導いていった。

 気がつくと ウィンフリートは森のただ中の 少し開けたところに歩み出ていた。 もう子供の姿はどこにも見えない。 ふと目を上げれば なおも歩み往こうというその方角には どこまでもしろく まだ誰も往ったことのない雪原がひろがり 丘のうえの木立を透けてくるひかりだけが つややかに刺繍をひろげて 慈しむように雪の肌をおおっている。 横たわる世界に寄り添うごとく 冬のはじめの日差しが ひとの腰のようになだらかな稜線を 薄だいだいの色彩で縁取っている。 ふりかえれば 大きく昏い森のみどりが けむる靄のなかに その輪郭をまさに失おうとしている。 たちこめる霧はますます濃くなっていき 行く手の丘も はるかにひろがる空も 乳色の光沢に包まれていく。

 そのときふと ウィンフリートには 森の沈黙の その響きが聞こえたように思われた。 耳を澄ますとたしかに聞こえる。 それは歌うように、 そう 人の言葉で歌っているように。 あの子供の笑い声? そうだ きっとそうにちがいない。 「天のみ国にては 人は皆み使いのよう もはや娶りも嫁ぎもしない。」 そのように聞こえる。 たしかにそう歌っている。その声はウィンフリートに 懐かしいリオバの声を思い起こさせた。 だがそれは 彼が久しく思い出しもしなかった言葉。もはや ウィンフリートの心を踊らせることはなかった。 俺はもう 天のみ国に入ることなどありはしない。 そのようにつぶやいて彼は馬を下りた。 馬を下りると 押し寄せるように疲れが彼を捉える。 馬も疲れているだろう。 しばらくやすませてやろうと 手綱を自由にしてやり 自らも 傍らの山毛欅(ぶな)の根元に腰を下ろした。

 するとどこかで再び声がする。 「疲れたか ウィンフリート 重荷をおろせ 下ろして休め 休むがいい。」 先ほどの声のようだ。 重荷だって? おれは生涯 身軽な修道士。 修道士でしかなかった。 おのが身の他に 担ってきたものなど何もありはしない。 そのように応えようと ウィンフリートが目を上げると 重荷をおろせ おろせ おろせ おもにをおろせ・・・

 まるで木霊のように 声が降ってくる それはやはり澄んだリオバの声のようで しかしどこかに厳かなひびきがある。 声の降ってくる方角に 目を凝らすと なんということか。

 山毛欅の枝々が 不思議にも この季節まで残していた葉を いま一斉に抛っている。 葉の一枚一枚が くるくるくるくると 速やかに舞い降りて ウィンフリートの足下を埋めていく。 大地を覆いながら 葉の輪郭はすみやかに薄れてゆき 大地を埋める雪の一色に変わっていく。

 ウィンフリートは その軽やかな響きに耳を澄ました。 耳を澄ますとそれは とこしえに響き止まぬ くもりなく澄んだ歌の響きに聞こえる。 

      おろせ おろせ おろせ
     おもにを おろせ
    おろせ おろせ おろせ
   おもにを おろせ
  おろせ おろせ

 軽やかな響きは ウィンフリートの肩に降り 膝にふり 頭に降った。懐かしい その声にうながされ ウィンフリートはようやく たしかに重みを感じ始めていた肩のあたりに 手をやると 思いもよらず手に触れるものがある。 手に取ると それはなんと 山毛欅の枝。 粗くはあるが 丁寧に細工されたその枝は 二本を組み合わせ

 十字のかたちをしていた。

 ウィンフリートが 最後に入っていった森の一帯は やがて拓かれ 東のひとびとと 西の人々との 交流の境として 人が住み着くようになった。 そこが辺境の地であることに変わりはなく 思い出したように戦乱が繰り返され 通り過ぎていくため 人々の暮らしは けっして豊かとは言えない。 だがそこでは、山毛欅やそのほかの照葉樹の恵みを用い 樵や木材工芸の職人たちが 彼らなりの産物を作りだし その生業を代々受け継いでいった。 いまでは年の市の木工品や 山毛欅材をもちいた人形の産地として知られている。 

 その地を訪ねるならば ひとはそこで 年月を刻んだ おそらくは幾千年の日々を見てきたような 一本のおおきな山毛欅の木を見ることだろう。 その傍らには いくらか小振りだがやはり千年の歴史を見つめてきた もう一本の山毛欅が 寄り添うように聳えているという。




   8 朝の光

 遠くから、誰かが呼んでいます。ここはどこ。いったい私はどこにいるの。ユリアが目を上げると、辺り一面、真っ白な世界。まるで霧の中か、煙の中に立っているようです。煙? そう、この薫りはゲオルクの煙に違いありません。けれど、ゲオルクはどこに? 煙の中へ目を凝らすと、まるで金魚鉢の中をのぞくように、世界がゆがんでいます。

 煙の向こうから声が聞こえてきます。おいで、ユリア、さあ、耳を澄ましてごらん。父の声です。まるで、十かそこらの子供に語るような口調がおかしいと思いましたが、不思議に素直な気持ちになり、声の導きに心の動きを委ねたい思いになりました。なんだか周りが明るくなったようで、懐かしさを感じさせる何かの薫りが通り過ぎていきます。その薫りと厳かな声の響きに、ユリアの心は静かになっていきました。

 いつの間に眠っていたのでしょうか。語る声が遠ざかっていくと、ユリアの周りを充たしていた様々な形象がみな薄れてゆきます。ゆっくりとユリアは自分の世界に戻っていきます。戻っていくのが自分でも分かります。気がつくと、ユリアは父の病室におりました。付き添い用の椅子に腰を下ろし、背もたれに軽くもたれてきちんと前を向いていました。遠くから近くへ、目の焦点がだんだんと合うようになると、目の前にちょうどゲオルクが立っている姿が見えます。まるでずっと向き合い、見つめ合っていたかのように。

 いつの間にか夜は明けていました。窓は閉じているのに部屋には蒸気が霧のように立ちこめ、室内と路地とを境のない一つの世界にしていました。早い朝の気配が、凍った外の世界をほの白く輝かせています。すると、あれは夢だったのでしょうか。夢にしてはあまりに整いすぎています。夢で一人の生涯をつぶさに見聞きすることなんて、ありえないことです。ゲオルク、おまえのせい、と人形に尋ねてみたい気がしました。答を得られはしないだろうと、思いはしましたが。人形はすましたまま、というより、「煙の侏儒(こびと)」のあの丸い口を開いて、驚いたような表情を変えることはありません。

 突然、朝の光が窓から差し込んできました。ゲオルクの目がきらりと光りました。



   9 旅立(エピローグ)

 列車が駅に入ってきました。それぞれの客車に、行く先を記した標識が掲げられています。ユリアの乗る客車は後ろから六番目。空港の町へ行く、これです。わずかな荷物とともに乗り込むと、客車は、ほぼ空っぽ。どの車室にも誰もいません。これならば荷物を頭上に揚げることも要らないでしょう。

 病院の手続きや父の侘び住まいの片づけに数週間が経っていました。幸い、親切な隣人が配慮をしてくれたおかげで、苦労はわずかで済みました。わずかといっても、それは十分に重いものでした。こうして旅立ちの車室に坐っていると安堵の念に充たされます。

 ユリアは、荷物からゲオルクを取り出して膝にのせました。よくよく見ると、小生意気な顔をしています。ふと、学校の同僚のひとりを思い出しました。

 車室の扉が開きました。ひとりの婦人が入ってきました。初老の白い髪。深い青の外套を着ています。ユリアに丁寧に挨拶をして、同席をしてもよいかと尋ねます。ええ、と答えると、それはよかった、長旅で退屈するのではないかと考えていた、と。

 列車はすでに走りだしていました。老婦人は、優しい目でユリアを見つめていましたが、ユリアの手の人形に気づくと親しげに微笑みました。ユリアは先ほどから、この婦人にひとこと尋ねてみたいという思いでいっぱいでしたが、初対面の人に不躾なことを訊くのは躊躇われていたのでした。

 どうしてこちらにいらしたの。老婦人の方が先に問いかけました。その穏やかで慈しむような調子に促されて、ユリアは、父を病院に尋ねたこと、その最後の日々のことを自然に語り出していました。いつのまにか、父と別れた頃のことも。理想に燃えていた父の仕事について。よその小さな国を虐げる偉い人達に対する父の困難な闘い。挫折と失望。その後の家庭の破綻と父の失踪。またその後に味わったことどもについても、物語っていました。長く心に蟠っていたことでもあるのに、そのように語れるのが自分でも不思議でした。そうした昔の日々が、今は軽やかな翼を得たもののように、自分から遠ざかっていくように思われました。

 老婦人は、ひとつひとつの言葉に穏やかに耳を傾けていましたが、話題がゲオルクとの出会い、その不思議な晩のことに至ると、真面目な顔になりました。そして答えるでもなく、どんなお話との出会いも尊いものよ、と。わたしもそのような贈りものを受けたことがあったわ。それは、わたしに相応しいときに支えとなってくれたけれど。でもそれは、わたしに託されただけ。いつかはお返ししなくてはね。そしてそれは、もっともっと遥かな先への委託かもしれないわ。あなたからまた誰かへの。

 ユリアとその婦人のあいだにしばらくの沈黙がありました。ユリアは、心が強い願いに充たされてくるのを覚えました。自分もいつかはその婦人のようになりたいと。そして思わず、尋ねていました。あなたはもしや、リオバとおっしゃるのでは。

 老婦人はただ微笑みつづけていました。





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