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ハーマンについて
岩波「思想」2015年9月号(No.1097)「思想の言葉」

 

啓蒙の啓蒙 ――ハーマンのカント批判

  デカルトにはパスカル、ヘーゲルにはキルケゴールというふうに、思想史にはいくつか対決の構図がある。カントには? ――カントにはハーマン(一七三〇〜一七八八)。そう言うと、久しく「ハーマンて誰?」という怪訝そうな問いが返ってきた。その名前だけはかねてから知られていても、思想の紹介はまだ緒についたばかりである。

  一八世紀後半のケーニヒスベルクを二人の生涯はともにする。「カントの食卓仲間」という絵画には、座の端にハーマンも描かれている。架空の状況を設定した絵画で、そのような場面が実際にあったかは不明だが、さほど大きくない町で、二人が通りで顔を合わせる機会はあったはずである。ハーマンは六歳若く、町の高名な大学の後輩でもあった。大学人として生涯を全うしたカントに比べ、彼のそれは不安定きわまりない。学門的区切りを一切付けずに大学を去った後は、リガでの家庭教師、友家べーレンス商会の委託を受けて赴いたロンドンでの挫折と困窮、帰郷後の「無為な」生活。さらに弟子ヘルダーに眉を顰めさせた「良心の婚姻」(当時同棲はスキャンダル)。妻アナ・レギーナや子ども達との生活がようやく安定するのは、カントの斡旋で税関に官吏の身分を得て後のことである。徴税用のフランス語翻訳のかたわら「ケーニヒスベルク教養政治新聞」への寄稿や編集、また小冊子のような自著を重ねて、文学史上「文士」を生業とする生の先駆けとなった。その篤信と博識を寸鉄の言葉に凝集させた文体のゆえに、キリスト降誕時に星に導かれベツレヘムを訪れた「東方の博士」に準え、「北方の博士」との敬称を寄せられた。

  二人の交際には、幾度か緊迫する時があった。その嚆矢は、べーレンスの委託を受けたカントのハーマン訪問である。ハーマンのロンドンにおけるキリストへの回心を遺憾としたこの旧友は、気鋭の学者カントの助けを請い、ハーマンを再び啓蒙の陣営へ獲得しようと試みた。この失敗に終わった説得からハーマンの処女作『ソクラテス追憶録』(一七五九)が生まれた。「ソクラテスの無知は実感であった」。無知は方法的懐疑などではなく、実存の根を穿つ深い自己認識だと述べ、ハーマンはこれを信仰と同義とする。「我々自身の生存Daseynと我らの外なる存在Existenzは信じられねばならない」。実在の感覚的確認にも信念beliefが与るとするヒューム『人間本性論』の言葉を、信仰faithの次元にも当てはめ、「信仰は理性の業ではないのだから、理性の攻撃に屈しない」と応えている。ヒュームの示唆は、啓蒙理性の自恃と自己神化に対して懐疑と経験による理性の限定を示唆するものであった。後年カントは『プロレゴメナ』において、自分の独断の微睡みを破ったのはヒュームの警告であったと有名な告白をする。刊行当初ほとんど評判を呼ばなかった『人間本性論』に学生時代すでにふれていたハーマンが、啓蒙期のカントがヒュームに接する一契機となった。これは確かであろう。後にハーマンは「或る懐疑家の夜想」と題して『人間本性論』の一章を前述の新聞に掲載する(一七七一)。おそらくその翻訳稿は数年前に仕上げられカントのもとにも届いており、その覚醒を促したのではあるまいか。

  二人の最初の邂逅には後日譚が伴っている。『ソクラテス追憶録』の刊行前、まだ脈があると考えたカントは、子供用自然学教本の共同執筆を提案した。『天界の一般自然史と理論』執筆の延長に、知識の普及を意図したものと考えられる。これに対してハーマンは、子どもの目線に「へりくだり」、子どもが乳母に語られた順序で、すなわち創世記の創造記述に従って記すことを逆提案した。これはカントの期待に外れたのであろう。彼はもう応えず、ハーマンの側からの三通の書簡のみ残っている。そのようなカントの態度に対しハーマンは、理性の「自給自足」的な姿勢を批判し、「右目の像と左目の像が重なるように」真理は間主観的な営みから導かれるとして、対話への「勇気」を促す。この、理性の自律への批判は、後の『純粋理性批判』の「メタ批判」を先取りするものである。

  ハーマンの対話への志向は、ロンドンにおける彼の回心に基づく。「自己認識の地獄墜ち」の最中、自己充足を自ら否定し他者の現実へと自己を外化させる「神のへりくだり」に出会う。この出来事は、彼の生と言葉を、同質の形へと変革した。開始された彼の著作活動は、「キリストの謙卑(へりくだり)」に倣い、対峙者の語ることばの具体相へとそのつど「へりくだる(適応する)」。対話の状況へと招き、挑発するために、古典と修辞の伝統に則り、引用と継ぎ接ぎCentoを繰り広げる文体がそこに生まれた。「脈絡を繋いで確実な軌道をゆく無足蜥蜴」(カント)に対し、彼は自らの筆致を「弧を描く蝗[着想]の跳躍」と呼ぶ。しかし、それはロマン主義天才概念の奔放で際限なき自己拡大とはおよそ正反対の志向である。「天才Genieは茨冠、趣味嗜好は裂けた背を覆う紫の衣」。ヘーゲルによって「文体そのもの」と評された彼の著作は、「悪臭を放つ死者の眠り」という自己認識の悲哀を映し、無力な「沈黙」の刻印をあくまでも残している。「われらの思考は断片にして知識は半端仕事である」。だが、「神のへりくだり」は三位一体的な「ことば」の現実として、被造世界をも斉しく貫いている。「語りたまえ、汝を見まつらんがため」。沈黙が「著作家なる神」の語りによって突如破られ、導かれて自然や歴史の豊かな形象に浴するとき、「語ることは翻訳すること」となり、著述は伝統の言葉を駆使して相手を対話へと鼓舞し挑発する冒険となる。また対話を拒む者を予め恐れさせ斥ける審判をも担わされる。

  ヘルダーやゲーテ他、ハーマンを高く評価する人々によってその著作・書簡は大切に蒐集され回覧されたが、その文体に戸惑い「巫女(シビユラ)的」と評して敬遠する者もあった。カントもまた、ヘルダー『人類太古の資料』の評価をハーマンに請う書簡に(一七七四)、「返答はできれば人間の言葉でいただきたい。小生は哀れな地上の子で直感的理性の神々の言葉を聴く器官を備えぬので」と諧謔を語る。そこでカントは『視霊者の夢』において批判した神秘家の系列にハーマンを数える。しかしハーマンからすれば、思考とは「自己自身と語ること、また心の奥で自己に聴くこと」とする『純粋理性批判』のカントこそ、神秘主義と名指される。カントにリガの出版者を紹介したことが縁で、ハーマンは『純粋理性批判』をゲラ刷りの段階で読み、その書評を最初に記すことになった(一七八一)。カントのヒューム受容に気づき、これを評価する一方で、『理性の純粋主義のメタ批判』(一七八四、刊行は歿後一八〇〇)をも著す。これは哲学のいわゆる言語論的転換をすでに一八世紀の文脈で先取りするものとなった。言葉は理性に先立つ。「我々の〈理性〉の産みの母なる言葉の子宮」は「理性の唯一最初にして最後の器官にして基準」。純粋理性の限界は、高邁な概念の彼方にではなく、きわめて身近な日常の言葉の直中にあると。

  例えば、ヨーロッパ語につきものの名詞の性。なぜ性があるのか? 何故と問われても、これは言葉の起源にまで遡ること。理性はその背後に回ることができない。だが啓蒙理性はこうした言語の「身体」を非本来的な側面と見なし、除きたいと考えた。言語現象だけではない。そもそも「性差」は、理性の升目にかなわぬ不純なもの。だが自己の性的本性を無視しようとする志向は、報いを身に招く。人間が性的存在であること(=人間「性」)は免れえないのだから、それは歪んだ発現をする他はない。そんな啓蒙主義者たちの倒錯した姿、とりわけ啓蒙専制君主フリードリヒ二世の宮廷を、ハーマンは「同性愛者の巣窟」に準えた。その営みは「衒智学Psilosophie」また「虚言学Psilologie」だと。「philo-(愛)」の字母をひとつ置き換えれば「psilos空虚」。すなわち自らを去勢して種なしとなり「愛することの出来ない不能者たち」と痛烈に。

  『純粋理性批判』のカントもまた、そのような揶揄から免れることはない。伝統・経験からの理性の純化は、ついには言葉からの純化に行き着く。だが、純化と称して言葉を捨象してしまうならば、理性は自己充足的な沈黙に陥るほかはない。「純粋理性は、他ならぬ自己のみと関わり、他の営みを持ち得ない」。その否定神学的な神秘主義は「老バウボの自己自身との形式の戯れ」であるとハーマンは評する。デメーテル神話に登場する、自慰の身ぶりで卑猥な踊りをおどる老女の姿に準えられて、カントも辟易したことであろう。ハーマンはあくまでも言語の「身体」、すなわち「音声」と「字母」という感性的側面こそが「アプリオリな純粋形式」と述べて、カントの「空間」「時間」に対置する。

  同じようなメタ批判は、カントの論考『啓蒙とは何か』(一七八四)を巡っても繰り返される。カントはここで啓蒙を、人間が他人の後見を必要とする未成年状態から成人へと抜け出ていくことと定義した。そして、自然によって悟性を備えられながらなお未成年状態に留まることを、決意と勇気の欠如として、その人のせい(Schuld責任・罪)だと述べる。さらにカントはここで「性差」を持ち込み、大多数の人間、ことに全女性を臆病と怠惰のゆえに「責(つ)任(み)あり」とする。ハーマンはこれを見逃さない。

  この論考でカントは、フリードリヒ二世治下の上からの啓蒙を、ことにその宗教政策のゆえに敢えて評価した。その際に彼は「公的自由」と「私的自由」の区別を提起。前者は、人が知識人の世界市民的視点から発言する自由。後者は、(独特な定義だが)国家・教会の役人の立場でものを言う自由。公的自由の容認ゆえにカントは、フリードリヒを啓蒙の後見人と称え、一方で私的自由の制限はやむを得ぬとした。だがハーマンはむしろ、君主の専制と強権のもとで自由どころではない大多数の人間のあり方への共感を語る。その人々にとって、自由の公私を区別することにどんな意味があるかと。「理性と自由の公的使用とはデザートに他ならない。私的使用こそ〈日毎のパン〉であるのに、我々はデザートさえあればこれを欠いてもかまわぬと言われる」。カントはフリードリヒの差し出す公的自由という甘味に酔って、いつのまにか専制の後ろ盾を演じてはいないか。民衆の臆病を責めるのは、自らが強権支配の装置としての後見人の優位に浴するからではないか。ハーマンはそのような後見人の自恃こそが実は啓蒙を必要としていると言う。「〈自らの責任(罪)である未成熟〉とは、彼がすべての女達に示すような、歪んだ口元[侮辱]だ。私の三人の娘はそれを放ってはおくまい。」

  時と処を隔てて現在の日本から見ると、この二人の立論はそれぞれに意味深い。カントの立場は思想良心の自由を示唆し続ける。一方でハーマンはそのように啓蒙を唱える者自体が実は内に問題性を持つと指摘し、その志向が顧みない「身体」や「性」の問題に注目する。二人の立論は相互補完的といえよう。啓蒙理性が軽視する社会の「身体」として、ハーマンは「女性」や「子供」に注目し連帯した。「後見人頭(がしら)[フリードリヒ]の手飼いの者とはならず ― 未成熟の無辜なる人々と関わるように」と。


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