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「最近のドイツ詩」
「詩と思想」 2003. 7 特集「グローバリゼーション」


●流感とテロは隣人を知る合言葉
            ドイツ詩の一隅を覗く


   「都市化」と「洗練」を表すその語源が示すように、「文明」は「田舎」、「野蛮」の対極にたつ概念とされる。「耕作」を語源とする「文化」と、いずれが高位の概念か。答のついに出そうもないこのような問いの検討から始めて、思想や批評の言葉は、その緻密な散文を駆使して現代文明の諸相を描き分け、その理解の仕方を教えてくれる。― 言語象徴や世界観・生活様式に基づく諸文化の差違を、技術や情報によって均一化しつつあるヨーロッパ近代文明。その一方で、西欧は自らの価値観の普遍化への信仰を失おうとしている。これに呼応して、近代化=西欧化に抵抗する様々なナショナリズム・民族運動が勃興する事態が生じている。冷戦を終えて芽生えた、地球規模での信頼と統合への素朴な期待は、新千年紀のはじめにアメリカ主導の一国帝国主義への憂慮へと遷りつつある。これに対して、まだスローガンの域を出ない文化多元主義・相対主義の実質を満たしていくことが大切である、云々と。― 散文の俯瞰的な視点や蒐集癖は、そのような事柄の腑分けに適している。そうであるかと、ひとは理解したような気分へと導かれる。

 そのような散文の時代にあって、詩は「文化」「文明」と切りむすぶことができるのか。できると答えねばならないだろう、では、いかにしてか。リルケの『マルテの手記』を典型とするように、詩人たちも近代化や社会の進展、それに伴う自然の意味の変遷に正面から取り組んできた。けれども、詩作品の創作の場面では、その表現手段の特徴に則り、むしろ詩人の個の視点から、その時々の時代風景を描き切実な主題を歌い上げてきたというべきであろう。文化や文明という普遍化・集団化する言葉を掲げるよりは、個性化する言葉の方向を目指してきた。普遍や集団を志向する動きに対して積極的に参与・抵抗する者から、これを巧妙に忌避するかまで、偏差はあったかもしれぬが、詩人は「各自の仕方で」時代と切りむすんできた。だがこの「各自の仕方で」が、現代詩について記す場合に、ことを難しくする。無秩序なまでの多様さを収斂してゆくべきこれという焦点も定まらず、またその収斂自体が正しい対応なのかと、批判を招く。自分なりにと腹をくくるしかあるまい。ともかく紹介が求められているかぎり、それはまず果たさねばなるまい。  思い入れのある詩人に偏るというのも、一つの方法であろう。だが、時代の断面を切り取るような、ひとつの外的機縁に委ねるというのも良いかもしれぬ。『抒情詩年鑑』という書物がある。これを契機としてみよう。翻訳すると重厚な書名だが、一二〇編ほどの詩を載せたペーパーバック。一九七九年の刊行開始とあるから既に二〇数冊が出版されている。最新の号は二〇〇三年度版。だが繙いてみると、刊行は二〇〇二年度の初め、その為の原稿締め切りは二〇〇一年の八月末日とあるので、看板からの印象は多少裏切られる。年鑑と称しても、要するに詩華集。その特徴は編纂者の関心と個性に左右される。必ずしもその年度を代表するとは限らない。個人詩集の凝集度は望めない。だが、原稿は呼びかけに答えての応募。しかも、複数の査読者を回覧の後、その推薦を考慮して採用の諾否が決定されるとある。ページを繰っていくと多彩な顔ぶれ。すでに地位を築いている詩人も、新人に近いが複数の詩が採用されている者も。一つの状況の紹介には手頃だろう。

 通読して、一つのモチーフが心に残った。航空交通という状況である。国際社会から地球社会へ。それが、人の移動そのものを意味するとき、その象徴は例えばジャンボジェット機。交流する詩人もまたそれに乗って国々を訪れる。戦争に紛れてのテロリズム、また重傷急性呼吸器症候群(SARS)によって航空業界は危機を迎えているという。シンポジウム講演者や学会が丸ごとキャンセル。この速度と共時性の使徒に代わって、グローバルネットワークのヴァーチャルな移動がさらに地歩を得るのか。詩人の個性化の歩みもその動きに巻き込まれる。とりあえずは、それぞれの思いで空を見上げ、離陸していく。  年鑑の後書きで、編纂者が予言的と呼ぶ一編。ヨハンネス・キューン(1934- )の「高層ビル」。

   まるで空に掴みかかるような
   勝ち誇る姿で高層ビルが聳えている。
   
つづけて、最上階の窓際に立つ心の高揚と死の恐怖が素直に述べられる。

   目を瞠りつつ私はその下に行く。
   もし爆弾が落ちたら
   怖いなと思う
   戦争は恐ろしい。
   建物よりも
   もっと高くを飛ぶ
   飛行機がそれを弾けさせる。
   昼の空が/炸裂するミサイルの唸りでいっぱいになる。
   
二〇〇〇年一月三一日改稿と、ただし書きがある。この巻の締め切りが二〇〇一年八月末日ということがみそであろう。九月一一日の状況をわずかに先取りする。だが、その主題は、ひとの素朴な恐怖。詩人は業績社会からの逸脱や、晩年のヘルダリンやトラークルの惑溺を詩人としての「生の座」とする。時代を正面から見すえての主題の予見というよりは、たまたま時代に乗り合わせてしまったような趣である。

 ミヒャエル・クリューガー(1943- )の「夜間飛行」は、「どの飛行機の着陸もみな遅れた」ために「すでに破棄されたはずの機に乗り合わす羽目になった」乗客を描く。
 
   私の座席は三四のB、誰もがいやがる真ん中だ。
   右側には、黒服の天使が
   心穏やかにその書類ゴミを調え、
   左の紳士はプラトンを原文で読んでいる。
   
   喫煙は禁じられてはいなかった。二〇列目には
   なんと水煙管まで持ち込んでる奴が居る。
   通路ではサッカーが始まり、前方の
   ファーストクラスではアイルランドの楽団が
   
   ヴェルディのレクィエムを練習中。私だって
   自分の生涯の夕刻については別のイメージを抱いてたわ、と
   言いながら疲れたスチュワーデスが差し出したのは
   去年の新聞。パイロットは微笑みながら
   
   眠っている。[・・・]
   
最速(であるはず)のジェット機に乗り合わせる状況。既に数時間も遅れて乗り込むときの、不安と居心地の悪さ。誰と隣り合わせるか分からない、考えも生活も異なる人間が隣り合わせになる。しかも人格が交差するほどの近さにまで肌を接して、息が詰まる思い。グローバリゼーションの提示する共時性の光景がユーモアたっぷりに描かれる。真面目な詩も書く詩人だが、この風刺は彼の散文のスタイル。以前、南ドイツの中都市の書店で催されたその朗読会で、聴衆は腹を抱えて笑っていた。

 フォルカー・ブラウン(1939- )の「シェイクスピア・シャトル」もまた、クリューガーと似た状況を描いている。
 
   大西洋を越えていく飛行機の上
   [・・・]
   私はボーイングの機内で座席ベルトを締め
   ウイスキーを飲む、雲の切れ端のあいだ
   前線や 乱気流 また株の暴落のあいだで
  〈われわれ自身としてはこの戦争に賛成だ〉
   宣戦布告はひとつのコマーシャル広告
  〈私は買う、ゆえに我在り〉。
  
戦争と経済、狂牛病。人種問題と国内純血主義など、新聞の見出しの言葉が、語呂合わせによって次々に意識をかすめ、交錯する。飛行の速度で何もかもが一緒くたに動いていく。それはグローバルな現代の動きそのものを写し取る。だがこの共時性の装置そのものもまた不確かなのだ。

   コックピットは空っぽだ
   変だって 我々は知っていたさ 別に驚くことじゃあない
   入口にホプスバウンが凭れて駄洒落を語っている
   我々は知らない。どこに向かっているんだ。― 短い世紀から
   また些細な世紀へと
   定めのない旅
  〈酔いどれ船〉は曳き綱から解かれた
   生はメタファーをがぶ飲みする 〈詩はよごれた濯ぎ水〉
   ランボーは退位した王
  〈さて、俺をどう始末したものか教えてくれ〉。
  〈わが主よ、もう充分です、いまこそあなたの犯罪を読み上げてください〉。
  
この世界を操縦する者は誰なのだろう。目的地に着くだろうか。そもそもどこに向かっているのだろう。指導者が胡散臭いと思っても、委ねるしか仕方がない。詩の冒頭に引かれる「リチャード二世」の言葉は、まさにこの時代を象徴するもの。「わしが王だなどと、きさまたちはどうして言えるのだ。幕が変わった、いまからは喜劇だ。」時代が真摯を失って、むしろパロディによって満たされている。そのような状況に詩人の個もまた押し流されていく。だが、重ねられる引用、パロディのもとの言葉の存在感によって、この詩が力を得ていることも事実だ。その一事を指摘しておく。

  〈為すか為さぬか、それは問題〉ではない
   あなたは挙行する 〈買い物とセックス〉
   犠牲者たちの家族にとっての正当な処刑を。
   世紀は血を流し尽くした
   イメージで 陣営そして海岸
   死は旅行者 王は消費者
   [・・・]。

 最後に、時代の寵児ドゥルス・グリュンバイン(1962- )の「九月悲歌」。その表題からは、ヘルダリンの「パンと葡萄酒」第一節、あの夜の情景が思い出される。だがこれは現代の夜。
 
   そうして興奮が冷めていく。超新星を見ることから
   大概の者は仕事や、賭け事やセックスへと還っていく。
   全ての記憶の内で最後のもの、静かな〈終わった〉が残る。
   ひとは静かに祈り、新聞をたたみ、ビールを飲む。
   家に帰り、日常のリリパット的一隅にもぐりこみ、思うのだ、
   ハンマーの一撃が襲った隣人のうちで、助かったのは誰かと。
   運命が、眠っている奴らに作られ、いまや遠隔操縦されるように現れる。
   飛行機が爆弾となるということ、それは技術の眠りをほとんど妨げない。
   ひとは時おり恥じ入るように空を見上げる。そこを飛ぶものは
   烈天使などではありえない。いつもの狼煙へ飛んでいく途上だ。
   通りに並んだ屋台では、新しい戦争のにおいが漂う。
   ごきぶりのドラマと比べても、この生は浅薄だ。
   
以上が悲歌第一。この「飛行機が爆弾となる」というくだり、あまりにも時宜を得ている。本当にこれが九月一一日以前に書かれたのかと尋ねたい気持ちになる。続いて悲歌第二の結尾を挙げよう。

   時だ、耳傾けよ、隠れ頭巾を被った神が、かさこそと咳をし、喘ぐように
   後ろに迫っている。万人のため、また誰のためでもなく、その種を撒きながら。
   流行性感冒とテロとは、ひとが隣人を認識するよすがとなる合言葉。
   多くの者が ― 敵よ、出てこいと ― その枕をめがけて拳を振りおろすのだ。
   あまた興奮と嘲罵のただなかで、やあ、きみは犬のように上機嫌だね。
   寒さの中で敏感な鼠のように、時が全てのものを転がしていくさまに目を瞠る。
   まったくだ。愛とは、よろめく足取りをダンスの時間に変えてくれる
   吸引剤ではないか。そのアロマに酔えば、カレンダーが一時は止まるような。
   
ここで「流感とテロとは、隣人を知る合言葉」という一節も、あまりに時宜を得すぎてている。この時代、隣りに座った者が何ものであるか分からないと言う気味悪さ。生物化学兵器テロが想定されているのであろう。悪意が身近に迫っているのではという疑心暗鬼。それを、時代のより大きな不安の中に描いている。彼の言葉が時代に訴えるのが分かる気がする。

 ドイツ現代詩は、このように時代と世界を描いている。読むに値する刺激に充ちた世界であろう。その紹介で私の任は終わる。だがそこで控えめに書き加えておきたい。例えばグリュンバインのこの「隣人」という言葉、それは単なるお隣さんの謂ではない。ヨーロッパ近代の社会や倫理、また崩壊しつつあるとはいえコルプス・クリスティアーヌム(キリスト教世界)を背景とする鍵概念。「汝、己自身の如くに隣人を愛すべし。」比喩として、「神無き時代」を指し示すべく裏返しの方向で用いられても、そのような原義のゆえにこの行とこの詩は皮肉な凝集を得る。それは悲歌第一の「終わったIt's over.」にしても同様。現代に満ちあふれる様々な映像、様々なドラマは、伝来の大いなる物語りの大団円に支えられている。たとえばあの「成し遂げられたEs ist vollbracht.」(ヨハネ一九・三〇)のパロディとして、小さな安息を確保する。詩人が受けとめ、描いている現代、「日常のリリパット的一隅」とはそのような情景であろう。そのような語法は、先にブラウンの「シェイクスピア・シャトル」でも見たとおりである。現代の状況を描くのに、先立つ時代の言葉が要る。現代の状況は、現代からだけでは述べることが出来ないのだ。

 現代は先立つ近代に対する反発、独自性の主張によって自己を確保する。だが、近代自体はいまだ完結をしておらず、これこれのものとして自己を示せていない。そのような不確定によって現代の浮遊はさらに定まらぬものとなる。たとえば「自由」という一語も、現代政治や経済がこれこれと振り回すよりもずっと深い淵源と射程を持つ。月並みな西欧文明対非西欧の図式では捉えられないし、西欧近代を受容したとする日本の現代もまた独りよがりで浅薄である。私が西欧近代の開始期を追求するのはそのため。それは、思想を巡る状況だが、詩作においても似たような問題を感じるのだ。現代の状況が的確に描き出されるとき、それはより旧い言葉によって支えられている。としたら、忘れられてならないのは、この旧い言葉にもう一度耳傾け、その語り出された意義を学ぶことではないか。

 ドイツ現代詩との最初の出会いはツェランであった。詩集『言葉の柵』中の一編「テネブレ」の冒頭。「我らは近くにいる、主よ/掴めるほど近くに。」ヘルダリン「パトモス」冒頭の換骨奪胎である。「近くにいまし、だが捉えがたきは神」。ヘルダリンはさらに歌い継ぐ。「危険のいやますところには、救いの力もまた育つ」。これはロマ書五章二〇節の換骨奪胎。「されど罪の増すところには恵みもいや増せり」。現代詩の言葉の力の一つの源を暗示する。とすれば、それは現代文明そのものへの暗示とも言えまいか。
 
 
  Jahrbuch der Lyrik 2003, herausgegeben von Christoph Buchwald und Lutz
   Seiler, Munchen (C. H. Beck) 2002.



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