♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

書窓の隙間
創作 Novelle

 

マールブルク



  「さあ行け、私がおまえの口とともにあり、お前が語るべき事を教えよう」。留学に携えた雑記帳の表紙にはこう記されている。モーセが、イスラエルをエジプトから導き出すべく召命を受けた際に、神が語った言葉。大学時代の恩師から、出立に際して贈られた章句。二十歳そこそこの若輩が一人旅立つ状況には大げさであろう。だが、必死の思いでという点では、いくらかは似ていた。    

  生涯を顧みると、偶然の重なりというより、ことの進展が備えられたとしか思えないことがある。その時がまさにそう。旧き良き時代で就職のことはあまり考えず、受けた大学院は全敗。それは予期していた通り。ギリシア哲学を志望する先輩の三年に亘る浪人生活を見ていたので、自分もやはり…と覚悟したところで唆された。鬱(ふさ)いだ生活を送るより外国へ行ったら?。観光ビザでドイツに行って、大学の試験を受け、うまくいけば学生になれる(下手すると強制送還かもしれないけど)。外国行きが今より希な時代だったが、それなりに冒険心に富んだ若者はいた。しかし真面目でお行儀の良い心には「そんなとんでもないことを!」。教師として今は勧められない渡航の仕方(それなりの準備をしてからね…と)。だが、唆す方も妙に腰を据えていたので、親まで説得されてしまった。    

  一度撤回した卒論を再び提出し、三ヶ月後にはもう雲の上。羽田からアンカレジ経由パリ行きの学生チャーター便はDC8機。新幹線よりも狭い客室だった。パリ・ドゴール空港に着くと、その日のうちに東駅から夜行でドイツへ。夜中にパスポート検査に起こされ、審査官の眼差しに怯えた。夜が明けるとフランクフルト。さらに北へ一時間ゆくと、山の上に城が見える。写真で見たとおりの姿。駅を降りるとあたりは随分と殺風景だった。到着の日のことはよく覚えていない。なんとかユースホステルを見つけて泊まる。リュックの中には、わずかな衣類の他にはドイツ語聖書と日本詩歌集くらい。唆した誘惑者の勧めに従ってバックパッカーの身軽さ。入学の申請書類など、一応準備はしてきたが、不安でいっぱいの夜を過ごした。    

  目覚めて、ホステルの朝食は美味しいね、とドイツ語を試してみたら、少年たちに笑われた。どうやら不味いものの代名詞らしい。まずは居場所をと、休暇中の学生寮貸出に部屋を捜す。学生課で指定された寮は、駅の反対側。歩き出すとビール樽が服を着ているような男と方向が一緒になる。親しげに話しかけてくるので、日本から来たとか応えている内に、大学に入ったらいいと勧められ、住所を書いた紙片を渡された。煙に巻かれた気分だが、とにかくまずは寮へと坂道を登っていくと、急に雷雨となって慌てる。ちょうど後ろから女性が自転車を押して坂道を登ってくる。フードを被っていたが、髪までずぶ濡れ。声を掛けると、説明も要らぬほどにこちらの状況を察して、すぐに案内してくれる。寮の入り口まで導いて、じゃあと一言を残して行ってしまった。その日はそれで暮れる。    

  翌日、まず入学の手続きをと外国人学生局へ赴く。そこが昨日もらった紙片の住所と気づく。ドアを開けると、机の向こうに昨日のシュナイダー氏が座っていた。やぁと手を差しだされて、用意してきた書類を渡し、あとは三ヶ月後の語学試験に受かれば正式な学生になれると言われた。拍子抜けするくらいあっさりことは進み、とりあえず第一の関門は抜けた。昼なので、そのままメンザ(学生食堂)に行くと、遠くで誰かが手を振っている。私への合図とは暫く気づかなかったが、よく見ると昨日の女子学生。あらためて握手をして、ザビーネという名前と知った。    

  総てのことには時がある――その言葉通り、みな次々と叶っていくので、不思議な気がしたが、もちろんうまく行かないこともあった。読む訓練は日本でも多少していたが、役所の用語や日常の会話は哲学書とは無縁な世界。何かを申請するために、予め言い方を考えて暗記していく。しかし伝わらない。しかたなく翌日もう一度出かけていく。そんな繰り返しが暫く続いた。診察室に行けと言われて、どうやら検査の血液採取らしかったが、注射器から針が外れて腕に刺さったままという経験もした。医者は、おお!とか言って笑い、片目をつぶって見せた。    

  大学は夏期休暇中で、十月の試験まで三ヶ月近くあったが、その間特に準備をしたわけではない。そもそも準備のしようの無い試験だった。教室に現れた男が(あとで神学の教授と分かる)、新聞の記事を朗読するから、その内容を再現せよという。文法は間違っても構わないが、事柄をどれだけ把握できているかと(今ではありえない手抜き試験だが、日本人には苦手な設問)。学生たちと交友を深めている内に、多少は聞き取る力が付いていたのかも知れない。お蔭で第二の関門もなんとかパス。

  ザビーネを介してエファ・マリア、そしてロルフという学生たちとも知り合った。いつも四人で昼をともにした(やがて詰草Kleeblattと自らを呼ぶ仲に)。三人とも数学専攻で(日本の入試を数学で失敗した私が)まず数学の術語を耳から覚えた。暫くしてザビーネ(皆はビーネ=蜜蜂と呼んだ)が木曜の夜にも集りを持とうと提案。聖書を読んだり、感話を述べ合ったりするその会は、仲間を増やして国際色も豊かになっていく。イギリス人のフィオーナ・ランカスター、フランスから来た陽気なダニエル・マイレ、ナイジェリア出身の医学生エドウィン・モモドゥ他の名前を覚えている。夏はラーン川のボート遊びが海戦に発展して全身水浸しになったり、吹雪の夜の散歩に出ていったり…。教師になってからの滞在では、学生は一緒に遊んでくれない。これがあの時の唆しの意図か、と今は納得する。    

  学びの方では、しかし失望した。かつてハイデッガーやハルトマンを擁した大学も、機構改革で哲学講座は社会学部の中に細々と命脈を繋ぐ。フランクフルト学派の隆盛のもと、講義内容も一変していた。(ヘッセン州はSPDが強く、メンザでは新左翼の学生が「共闘の同志諸君」と呼びかけていた。外国人学生の受け入れも寛大で、その恩恵を私も受けたのだ。)そもそもなぜこの大学を選んだか。小さな町だったから。テュービンゲン、ゲッティンゲンなども候補に挙がった。観劇などの機会は少ないが、ドイツらしい雰囲気で落ち着いている。マールブルクは人口六万人程度の小さな大学町。しかも休暇になると、人口は半減する。種痘製造のエミール・ベーリング工場が唯一の産業で、学生が休暇で去ると街は閑散とする。    

  キルケゴールを卒論としたので、むしろ神学部の授業に出たが、休暇中も専らその図書室ですごした。暇を持て余すと散策に。帰国する頃には周囲の森の小径を歩み尽くしていた。生活に窮して素人の通訳をする他は、専ら独り自分と向き合う日々。携えて来た一番の荷物は自分の心であった。将来の分からぬ不安もあった。もう読まないかもと思いつつリュックに入れた聖書が伴侶となった。拙いドイツ語では学生たちにも語れないことがあり、仲よく笑い合っていても、深いところで私は孤独だった。そんな時、急峻な高みから言葉が臨むこともあった。「暁の翼を駆って海の果てに住んでも、あなたの手が私を導き、あなたの右の手が私を捉える」。    



表紙に戻る