「山の詩・故郷の詩」と題しました。大きすぎるテーマかも知れません。「山」あるいは「故郷」、どちらか一つだけでも、一回のお話しの主題として十分かも知れません。しかし、二つ併せたのには、次の理由があります。
「山」そして「故郷」と聞くと何を思い浮かべるでしょう。日本人にとって、どちらも身近です。因みに、唱歌に「ふるさと」とつくものを探すと、すぐに「故郷」「故郷の空」「故郷を離れる歌」「故郷の廃家」などが思い浮かびます。戦時の懐古から最近は「父母のこえ(集団疎開の歌)」なども耳にしました。これらの歌には、翻訳歌も多く、「故郷」想う心には国の隔たりを越えた共通のものがあるようです。
また、「山」といっても、それぞれの抱く山のイメージは様々でしょう。ただ、日本の山というと、或る種のイメージが浮かんでくるかも知れません。「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」と始まる、その名も「ふるさと」という歌では、山と故郷はひとつのことです。そして、これが多くの人にとって共通のイメージかもしれません。
そのような見方ができる一方で、今回、私は「山の詩」と「故郷の詩」を主題としては分けました。それは、日本の近現代詩が、『新体詩抄』以来、ヨーロッパ詩の影響から始まったことをふまえ、そのような背景や俯瞰から、私の話が現代の詩を考える契機となることを願うからです。以下の構成は三部に分かれます。
1.「山」についての日欧の思想の違いから
2.秋谷豊の詩の位置と歩み(「山」と「辺境」)
3.彼の「帰郷」の詩の意義について
それにしても「山の詩」そして「故郷の詩」、私はそのいずれも私には相応しくない主題かも知れません。いわゆる「登山」という意味での山登りはしませんし、また首都圏に生まれた私は、いわゆる「故郷」を持ちません。ただ一九七〇年代、ドイツ中部の町に留学した時のこと。どこまで行っても低い丘が次々と現れる。そんな風景の中を日々歩き回ったことがあります。そのときは、だだっ広い関東平野の果てに秩父の山並みが見える、それが私の原風景だと実感しました。そのような経験から、今日のお話をいたします。
1.山の詩、その形而上学
山に対する想いは、人それぞれ様々でしょう。しかし、人類学から見れば、山とはまず聖なる高みであり、神の宿るところ、聖なるものとの交流の場です。その場合にも、宇宙の中心に位置して、天と地をむすぶ世界山(たとえばオリンポスや北欧神話のアスガルズ)という、激しく求心的なイメージが一方であります。
他方、総じて農耕民においては、聖なる土地の数は複数であり、それぞれの地域ごとの際立った山、ないしその麓に聖所が形づくられます。そこでは「聖なるもの」への畏れは、馴れ合う親しみと表と裏一体です。日本における「山の神」との交渉はそのひとつの典型です。
「三輪山を然も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」と額田王は歌いました。
三輪山の神は蛇ですが、額田王も、神宿る尊い山といっぽうで畏れ敬いつつ、その姿に郷里への親しみを重ね合わせます。高く聳える富士の山もそのような人の情を撥ねつけはしなません。「あしひきの山」には、その麓に安らう穏やかな響きがあります。村落に接する「里の山」から、寺や社をも静かにおさめた深山へ。この景色が、今日なお日本人の自然観の基本をなすといえます。例えば、宮崎駿のアニメが観客の共感を呼びつづけている世界です。
さて旧約聖書の、詩篇第一二一篇の冒頭、このような言葉があります。
われ山にむかひて目をあぐ わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや
わがたすけは天地(あめつち)をつくりたまへるヤハウェよりきたる (詩篇第一二一篇)
ヘブライの民にとって山とは、シナイ山におけるモーセへの十戒の授与に示されるように、神の超越的な力の臨むところでした。山の姿そのものへの感動や親しみはありません。詩篇一二一篇はエルサレムへの巡礼歌であり、そこで、山とはむしろ、盗賊が潜み待ち受けるという、恐怖の心と結びついていました。しかし、これを別所梅之助は「山辺」と日本的情景に置き換え、「山辺に向かいてわれ目を上ぐ、天地(あめつち)の御神より助けぞわれに来たる」と訳しました。このとき、元来この詩篇の背後に潜む不安は拭い去られてしまった。もとの詩では、太陽や月光が人を危めようと狙っても「天地(てんち)の創造者なる神」はまどろむことなく人間を護り、これを救うと歌います。その本来の意味からの外れは明らかです。人間はむしろ天地(あめつち)の神の住まう山に護られ、自然の内に安らかに護られている。これは、日本における他文化の受容の一つの典型を示しています。
このように、日本人の山のイメージにおける尊いものの近さ。それは、自覚的にヨーロッパの影響を強く受けた詩人たち、例えば、立原道造、尾崎喜八、串田孫一という人々にも根強く残っています。ゲーテの「旅人の夜の歌」もそんなイメージで受けいれられたのでしょう。こうした「山麓」の詩を規定しているのは、昔からの穏やかな「里の山」の風景だといえます。それは、ヨーロッパの山のイメージとは根本的に違う。アルプスの姿からまず思い浮かぶのはその険しさ。ドイツの詩で、山、ことにアルプスを最初に詩の主題としたのは、ハラーでした。
「自然はアルプスを立てて、あなたの国の周りに垣を巡らす」
アルプスは、敵の侵入から護ってくれる天然の要害。自然のとりでに守られて、この地に住む人々の貧しさこそその冨であると、歌われます。
「この地には理性が支配し、自然がこれに同伴している」と。
このように、山と平地の違いを述べて、山地の民の道徳的優位を評価しました。このいかにも啓蒙主義者らしいハラーの文化的反省も、日本的な里山の風景はおよそ違うものです山は平地からの隔絶を言い表しています。
なるほど日本でも、里から眺めた山並みの美しさへの感動と共に、一方でその険しさへの注目もまた、昔から人を山に惹きつける動機となってきました。修験道の修行のイメージです。地上からの隔たりは、瞑想と思想形成の場を提供します。明治以降に始まった登山もまた、そうした要素を持っています。鳥見迅彦や秋谷豊など、自ら登山家である詩人たち。彼らの山の詩は、人生の歩みの途上を象徴するといえましょうか。だが、秋谷が、その詩「登攀」で
うすよごれた鉄靴の踵を支点に
ピトンを打ち込む (ピトンとはドイツ語でハーケン〔鉤〕です。)
その岸壁には ねむるべき石も
休むべきテラスもなかった
ぼくらをいまこんなに垂直にするものは
なんであろう
と歌うとき、そこには、先にあげた詩人たちの山のイメージよりも、より根本的に近代の要素、西欧近代と通いあうはっきりと見えてきます。描かれているのはスポーツとしての登山。なるほどそれは近代の現象です。しかし、詩の題材以上に、そこに近代性を響かせるものは何なのでしょう。
秋谷はエッセイ「岩と雪の間のノート」に「ぼくの山々はいつも孤独な週末の安息だった。登攀の記録よりも、アルピニズムというものの行為の意味を一人のなかで静かに考えてみたかつたのである」記しています。ヨーロッパでは専ら、カルタゴ戦争の際のハンニバルの戦略や、宗教弾圧を受けたのユグノーたちの家財一切を担ったアルプス山越えのように、登山は必要あってのみ為されてきました。西欧近代において初めて「登るために登る」行為、いわゆる「近代登山」が始まりました。その目指すものは未踏の高みへの挑戦です。秋谷豊は、日本に近代アルピニズムが伝わってから七〇年と秋谷は振り返ります。彼の詩文を辿ると、自らも与った近代登山の追求を、近代人の孤独との関連で捉えた思考に出会います。遭難を扱った次のような一節です。詩「ヒマラヤK2」からの引用。
刃のようなみずからの愛に傷ついたかれは凍って
神のほむらに永遠に復習されつづけるだろう?
…
かれは大戦にイタリアの兵士だった
神のいない頭上の深い空のなかに
真昼の星がまばたくだろう
かれが登りつめたのは〈頂上〉ではない
それは荒々しい雲にまかれ
ひとり
生きていることのあかしであったのだ
神を喪った近代人の孤独を語るこの「頂上」のイメージに、等しく「山頂」を主題とするリルケの後期の詩を並べてみましょう。
心の山の上にさらされて。ほら、あそこになんと小さく、
ほら、言葉の最後の村落がある。それより高いところ、
でもやはりなんと小さく、感情の
最後の村落がある。分かるだろうか。
心の山の上にさらされて。両手の下には
岩の地面。ここにもおそらく
いくらかの花が咲く。もの言わぬ絶壁から
もの知らぬ草花が歌いながら咲いて出る。
けれどももの知る者は、心の山の上にさらされて。
おそらく、健やかに意識をもって、いくらかの動物たちが、
山でも確かに生きていける動物たちが
往き交い、とどまる。身の安全な大きな鳥が
山の頂の純粋な拒絶をめぐって輪を描く。けれども
ここ、心の山の上に投げ出されている者は…… (神品芳夫訳)
円熟期を迎えた詩人は、風景を描きつつ、自らの詩法をも言い表す。視界に入る事物が、そのままの姿で描かれるのではない。詩精神の高まりに伴い、切り立っていく心の姿が示される。そこでは、外側の世界と内側の世界とが重なりあうように、二つの空間が交錯する。自然の対象に向かい合っていく精神の感応そのものを手触りとするその表現は、セザンヌが晩年に描き続けた山の景色を思い起こさます。しかし、そもそもなぜ、心の頂なのでしょう。心の頂にさらされて、というリルケの言葉はどのような問題を含むのか。
ここで、すこし思想史的なお話しをします。
神・人間・世界という三つの概念、これは、古代から現代まで、ヨーロッパ思想史を貫く重要なテーマです。いずれを第一に置くか、その序列だけが移ってきました。
古代においては、まず世界から始まる。世界(コスモスとも言います。あるいは自然)のなかに神も人とともに並び置かれる。世界・宇宙(コスモス)の中心には、ゼウスのオリンポスやオーディンのアスガルズといった世界山(世界の中心の山)が位置し、命の根源としての世界樹が聳えている。この木は、天と地上、黄泉の三界を貫く軸です。
中世になると、このような世界の外に神の座が移され、すべてはこの超越の神から始められる。神は世界を創造し、その世界の中心として人間をも創造する。モーセが十戒を得たシナイ山や、エリアの籠もったホレブ山のように、山は神が人間に近づき、自らを啓示する場所となります。
しかし、近代に入ると、神・世界・人間というそれまでの序列は逆転する。出発点は人間。人間の認識と意識の秩序に基づいて、世界も神も理解され、説明されるようになる。神をも取り込むまでに内的世界が拡大される一方で、その多様性を統一し、まとめる意識の伝統的な核心は喪われていきます。
リルケはこのような問題を早くから詩に表現しています。詩「夕暮れ」で、近代人の所在のなさをまさしく、垂直性のゆらぎとして、こう表現しています(生野幸吉訳)。
夕暮れがおもむろに衣裳を替える。
…
君は観る、すると君から二つの風光が分かれる。
ひとつは天へ昇り、もひとつは落ちる。
この二つの風光が、どちらにも属しきらない君を
黙っているあの家ほどにまったく暗くもせず、
また、毎夜星となって昇るあのもののように
永遠を確実によびおこす存在にもしない。
以下は略します。近代人はもう、過去の人間のように天を目指す一方向性によってその生を方向づけることができなくなった。近代人の漂い、浮遊がそこには表現されています。
このような状況下では、個々人が自分で世界の秩序そのものを構成し直さなくてはならない。いまいちど、かつての垂直性の相当するものを築かなくてはならない。未到の頂を目指す運動としての登山もまたそのような営みの一つとなる。山は克服すべきものとなる。近代登山の始まりは、山の担ってきた伝統的な聖性の喪失に呼応します。神を喪った西欧近代人が、自我に固執し精神の内的な聳え立ちに存立の意義を求めた、その志向と近代登山の発展は軌を一にしている。これに呼応して、文学でも、いわば個々人それぞれの山が、詩的啓示の舞台となるといえましょう。それはいずれも、浮遊を逃れえない多数の民衆の中で、限られた少数の個人のみの追求しうる営みではあります。
近代精神の企てがそのような姿を示すものとすれば、リルケが外的世界に対置した内的空間とはまさにそのような垂直性への足場であったと言えましょう。切り立っていく精神の突端に立ち、「心の頂にさらされて」、神・世界・人間の秩序の再構成を図る、そのような傑出した個がそこここに屹立する。それが近代の風景です。リルケは、その最晩年に向けて、こうした近代人の方向喪失の状況に対して、精神の垂直性を獲得する方向を模索しました。『ドゥイノの悲歌』第十の悲歌、その終結部で、詩人は、人間の死をこう歌います(手塚富雄訳)。
ただひとり死者は踏みのぼってゆく、「原苦(ウアライト)」の山の奥深くに。
やがて跫音さえ、音のないその身の行末から響かなくなる。
第九の悲歌で、大地の委託を受けとめつつ、なお高みを目指すものとして、人間の存立を、あるがままに肯定した詩人は、命の終わりとしての死をも、「降り降る幸福」として肯定します。詩人とは独りそのような自覚をもって近代の「荒地」にすっくと立つ者なのです。悲歌の結末と「オルフォイスのソネット」の冒頭は響き合っています(神品芳夫訳)。
樹木が立ちのぼった。おお、純粋空間へのぼる。
おお オルフォイスがうたう。おお 耳のなかに立つ高い樹木よ。
(「純粋空間」は、「純粋な超越」と訳しても良い)
日本の近現代詩にリルケほど影響を与えた詩人は少ないと思います。日本においてリルケが広く受け入れられたのは、このようなヨーロッパ近代の受容に並行しています。どれほど理解されたかは別として、切り立った、あるいはすっくと立った精神の姿勢への共感がそこにあったといえましょう。「心の山の上にさらされて」屹立する詩人、その心象の放射を受けて照り返す外的風景。例えば伊藤静雄の「我がひとに与ふる哀歌」に、おなじような企ての一例を見ることができます。
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく耀くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて言つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘わるる清らかさを私は信ずる
… (途中省略します)
いま私たちは聴く
私たちの意思の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
あゝ わがひと
耀くこの日光の中に忍びこんでくる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
ここで詩人は、時代精神に対して研ぎすまされた感受性を持って対しています。「耀くこの日光の中に忍びこんでくる/音なき空虚」を見ぬき、あるいはそこに「「切に希われた太陽」を措定する。この否定の相を見ぬく点で、伊東はリルケの同時代人であるといえましょう。しかし、心の頂に時代精神の屹立を体現する。その姿勢には、どうしてもひとつの欠如が顕わになるようです。そしてそれは、時代のもののようです。近代には「澄みわたる空・天がない」。近代詩人とは、そのような空虚を引き受ける存在ですが、その切り立っていく精神に、いつか「天・空に代わる」澄み切った青がくっきりと抜けることがあるかどうか、その保証はありません。それを思い起こすには、例えば、リルケもまた重んじたヘルダーリン、その詩「アルプスの麓で歌う」を横に並べてみるとよい。そのアルカイックな言葉には、すでに始まっている近代精神の刻印を深く受けつつも、むしろそのような枠組みを覆すような彼方からの響きがあります(以下、拙訳です)。
聖(きよ)く汚れなきものよ ひとも
また気高き者たちも心から信頼を寄せるものよ あなたは
家の内に また外にても年を重ねた山々(もの)の麓に
とどまることを好み
聖く汚れなきもの、それは、家の内にも、自然の内にもあって、「混じりけなく澄みわたって」おり「いつも安らいださまで知恵をたたえている」。生きとし生けるものはそのうちに憩い、森や嶺嶺は、黙しつつもその秩序を、その「明るさ」のうちに告げているという。詩人は
こうして天(そら)の気高いものたちと独り居て
過ぎてゆくのは 光と 水の流れ さらに風 そして
時がそのめあてへと急ぎゆくとき、その前に佇(た)ち
揺るがぬ眼を持つこと
これにまさる幸いを私は知らず 望みもしない。
と歌います。その命が終わりに向けて限界づけられたものである事を知りつつ、その命と使命を喜びの内に受けとめようとします。
生存・存在の根源へと澄みわたってゆくような言葉とリズム。それは、おそらく近代をこえた所から響いてくる。伊藤静雄の詩において「音なき空虚」を満たずべきとされているもの、あるいは「切に希われているもの」とはこの響きと輝きでありましょう。
伊藤静雄とヘルダーリンを並べてみると、そのような天空の欠如とともに、いまひとつ、呼びかける相手の存立の不確かさもまた気になるところです。「わがひとに與ふる哀歌」で手を携えて歩む人、「あゝ わがひと」と呼びかけられる相手は、どうも他者としての実在を感じさせない。「私たちの内の/誘はるる清らかさを私を信ずる」という詩人の言葉に対する「わがひと」の応えはありません。その姿は、鏡に映された詩人自身の投影を窺わせます。「人気ない山に上り/切に希はれた太陽をして/殆ど死した湖の一面に遍照さする」、その言葉の告げる悲壮な響きは、手を携えているはずの「わがひと」の体温を感じさせないのです。
一方、山に向かいつつヘルダーリンは、「聖く汚れのないもの」「空の気高いものたち」に自らを開き、これに触れていく自然のことばと対話しています。
だが その胸に気高いものをまもりつづける者は
よろこんで地上のくにに留まる、私も今は心のびやかに
許される日々のかぎりあなたたち天(そら)のことばを
解きあかし歌おうとする。
後半で扱う事になりますが、ここには、これから語りかけられる人々の顔が見えており、(あるいは、見ようとしており)詩人の孤絶を感じさせません。孤独ではあっても、孤絶ではないのです。
伊藤静雄は、ヘルダーリンのように天地の間に立ち、両者の媒介者として人々に語りかけるのではなく、自ら屹立する詩精神として独り高みに立とうとしています。二世紀に亘る、近代という大きな断絶が伊東静雄とヘルダーリンの間にはあります。伊東静雄に、むしろリルケの詩「心の山頂にさらされて」に近い響きを聞くのは、伊東もまた我々と同じ近代後期の人であるからでしょうか。伊東が、のちに第一詩集を屈折した思いで振り返り、リルケに近づいていこうとするのも、この隔たりによるものと思われます。
2.登攀と歩行
秋谷豊について、伝記的なことはあまり申しません。戦争中すでに四季派の影響のもとで詩作を続けていた秋谷豊は、敗戦直後の混乱期にいち早く再出発した。独自に(第三次)「地球」を創刊し、新たな抒情の形を志向する詩人たちの中心的存在として大きな役割を果たしました。
秋谷は晩年、『現代詩史の地平線』に「私の青春の詩的体験に、大きな影を落としたのは、堀辰雄とリルケであった」と振り返っています。第一詩集『遍歴の手紙』は、戦争中に記した「四季」派的な詩をまとめたものです。秋谷の詩が社会的抒情詩として独自の響きを得るのは、戦争という時代の現実と正面から向き合った第二詩集『葦の閲歴』以降においてです。この第二詩集、また第四詩集『降誕祭前夜』、は、時代の「夜」の暗さを共通にしています。さらに詩人の自己認識を示す言葉として、(一)「墜ちる鳥」のイメージ、(二)「吊されている」という姿勢、さらには(三)「流されてゆく」あるいは「さ迷う」群衆への視線を挙げることができる。それらは、秋谷豊の詩における「垂直」への志向という表現でまとめられるでしょう。
(一)リルケの有名な詩「秋」は「木の葉が落ちる」と始まって、「夜には、重い地球がほかのすべての星から離れ、孤独のなかへと落ちる」と述べ、神を見失った時代の「夜の深さ」に近代人の不安を表現しました。この詩「秋」における万物の落下(「すべてのものに落下がある」)を、秋谷は『葦の閲歴』において、射ちおとされ「墜ちる鳥」のイメージで受け止めています。
ざわめく防風林の奥
射ちおとされた野鴨の両眼に
白い霧が凍っていた
死ねない野鴨が羽ばたく
ぼくは寝返りばかり打っていた(「北国」)。
もう一つの引用、詩「流血」は割愛します。
鳥の落下のイメージは、戦後詩に通い合うもので、秋谷だけのものではありませんが、思想の形象化と言葉のリリカルな響きは、すでに秋谷独自のものです。
(二)『降誕祭前夜』では、時代状況との対峙がさらに徹底され、言葉は生への実存的問いとしてさらに深められます。そこで秋谷は、戦時また敗戦後の社会に投げ出された自己の孤絶と不安の姿を、「吊された鳥」の姿で提示しています。
ぼくが南方へ行っていた長い間も
羽毛をむしられて
おまえはさむい冬の街角に吊されていた(「降誕祭前夜」)。
「吊されている」という負の「垂直性」が、彼の命を映すものとして示される。そのような表現の切り立ちと言葉の「屹立」が逆説的に詩精神の証とされている。「ぼくには生が死の意味であった/死が生の意味であった」と詩「終わりし夏」にはあります。この逆転こそが実感であり、生きた経験の重みであって、安易な生の約束に軽々しく自己を結ばないという想いが吐露されています。
『降誕祭前夜』は、キリスト教的な形象に充ちている点で秋谷の著作中独自の位置を占めます。なかでも長編詩「神」は、西欧近代文明への問いかけを、思想的に突き詰めた作品です。「立去れ 父よ」との呼びかけをもって始まるこの詩は「神(イコール)父」とする西欧的主題に正面から切り込んでゆき、「空から落ちる父の顔をぼくは見た」とその権威を否定します。
「神=父」への問いかけに、現実の裏付けを与えるのは、秋谷の生まれ、少年時代の記憶です。秋谷の詩「幼年時代」はその経験をより平易な仕方で明かしてくれます。
ぼくの敵は父なのであった
母が生れた土地を二度と踏みえなくなったのは
あの父のせいだと子供心に思っていた
だが父はかなしい…
(あとは省略、最後に次の一節)
もし母がいなかったら
ぼくは神など思うことはなかっただろう
秋谷にとって「父」とは、拒みつつもなお執着せざるをえない、二律背反的な愛と憎しみの対称です。秋谷は詩「暮春憂愁」で、「ぼくから神がいなくなったのは/遠くの空で神が火花を散らしたからだ」と、戦争のもたらした思想的帰結を示唆しています。しかし、その転換は、所謂「神は死んだ」という時代の流行思想へのうわっつらだけの切り替えではありません。実の父の記憶という、出自に裏付けを得た経験に基づいて、この国の風土に深く根を張った思想詩が結実しています。
「神=父」こそは、日本の戦後社会に対する秋谷の対峙を(屈折した否定においてですが)その命と存立の意義と「垂直」に引き上げてくれる極みの言葉であったと申せましょう。
(三)こうした秋谷の「垂直性」への志向は、どのような時代状況に対するものでしょう。詩集『降誕祭前夜』はこれをやはりひとつのイメージで提示します。
二つの詩「背嚢」、そして「降誕祭前夜」からの引用をご覧ください。
共通するのは、「暗い夜」を「流されていく」群衆とその中を「さまよう」ぼくのイメージです。戦後の混乱期に、孤絶感のみを共有する人々が行方も知れず流されてゆく。秋谷もまた「さまよい」「流されていく。」そのような彷徨を一点に結びつけてくれる聳え、切り立つものへの希求が、逆説的に「吊されて」という負のイメージとして示される。それが、「神=父」への屈折した呼びかけだったと申せましょう。
だが一方で秋谷は同じ『降誕祭前夜』の内に、希求、願い求めとしての言葉の切り立ちが、負の方向を向いたままに肯定される別な場面を描いています。さまよいの地平を抜けることは叶わなくとも、果てしのない流れの一点が、そのまま垂直に切りたつ境地を、詩「漂流」の一節は象徴的に表現しています。
どてっ腹に魚雷命中
あたりはまっくら
一〇〇メートルの火柱をふきあげ
鋼鉄の斜面が垂直になって沈むところだ
おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった
(この行はもう一度繰り返されます)
――二十年の間
おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった
計り知れぬ深淵の上を流れゆく「漂流」には、切り立つ高みから釘づける神の垂直性に代わる、あらたな鉛直性が言い表されています。「ふかぶかと」は平易な表現ですが、独自な仕方で用いれらています。「ふかぶかと流れていく」のは海ではなく「ぼく」。この表現は、存在の否定性をもそのまま肯定する独特な「深み」のイメージとして、第六詩集『ヒマラヤの狐』にも用いられていく。「夏の漂流」の一節
人生のながれのなかに枯葉をうかべるように
人はそうしてながされてきたが…
たしかに男と女のながれは太古からあった とぼくは思う
そうしてぼくは暗い夜明け
ふかぶかとながされていったのだ
自然や世界の大きさのなかで、とどまりを知らぬ人間存在の小さい姿を見据えつつ、敢えてその姿に自らの位置を確認する眼差しがここにはあります。また「一枚の地図」
…チベットの女が
息をひそめ冷たい肌をすりよせて
ふかぶかと神に祈っていた
このような祈りの屹立は、秋谷豊が、他方で繰りかえし表現する登山者の姿に重なります。
「垂直」の姿勢を肯定的に受け止める志向を、詩集『登攀』全体がくっきりと形象化しています。引用「雪と岩と太陽」をご覧ください。
あるいは先に引いた詩「登攀」の一節
「ぼくらをいまこんなに垂直にするものは/なんであろう」
につづく部分を資料一頁でご覧ください。
登山は秋谷の詩に内容・素材を提供するというよりも、彼の精神の姿勢そのものといえます。死に直面した生、命の積極的な肯定が、登攀と詩作を一つに重ねます。第三詩集『登攀』は、『降誕祭前夜』にわずか二ヶ月先だって刊行されました。創作は、併行して進められていたことになります。おそらくはそこに、『降誕祭前夜』で時代状況との対峙を結晶させた後、彼がその方向での詩作を続けなかった理由がありましょう。敗戦後の混乱期に詩作の場に立ち戻った秋谷は、時代の困窮の中で存在と生の意味を問う営為において、他の詩人達と途を同じくしました。垂直という姿勢に関しては、例えば田村隆一の詩「立棺」が響きを等しくしています。しかし秋谷の場合、個の日常や社会との取り組みを専らとした詩人達と違って、そこから出てゆく途を知っていました。それは新たな途の開拓というより、古き道に立ち返ることした。エッセイ「岩と雪の間のノート」において、「兵隊に行くまでぼくは山の詩を書き続けた」と述べているように、秋谷にとって戦争は山を諦めることでした。またこう記しています。「ぼくの最初の岩登りは武甲山の屏風岩だつた。草つきの石灰質の岩(リツ)稜(ジ)を三人のパーティで登つたのである。あのときの仲間はみんな南方で死んだ」と。戦後、「戦い終つて山にのぼる日は来たれり」と記して、秋谷は山に還っていきます。しかしそれは、戦争と山という、二重に重ねられた死の場を見つめる孤独の時への帰還でもありました。登攀は、死生の狭間に立つという意味において、秋谷豊の詩法とひとつでした。
先に述べたように、神を喪失した西欧近代人が、自我に固執して精神の内的な切り立ちに存立の意義を求めた、その志向と近代登山の発展は軌を一にしています。日本では、明治の末近く岩登りの技術が受け入れられて以降、六、七十年で近代アルピニズムが確立されました。エッセイ「山をめぐる断想」において、秋谷はそのように振り返り、自らの登山もそうした近代の刻印を受けていることを認めています。しかし一方で、流れを遡って水源を尋ねる、源流への憧れが日本の近代登山開拓期の人々にはあり、これが彼らの山登りの出発点であったとも述べています。そうして、「この思考には、山を単に岩と雪の塊だけと考えない、自然の信奉者としての浪漫的精神が深く込められている」と共感を語っています。山行き、「それはぼくにとって現在の存在を確かめる行為ともいえるし、人間の故郷に立ちかえっていく遠く長い道すじであるような気もする」と。この告白は彼の「帰郷」の詩を考える際に大変重要です。
秋谷豊がそのように「浪漫的精神」と述べる時、それはヨーロッパ思想としての「ロマンチシズム」とは違い、幼いころの憧れに発した素朴で健やかなものでした。山に惹かれた動機を秋谷は詩「浪漫主義」にこう告白しています。
少年時代 あの秩父の山に登った
… (数行を飛ばします)
そこにあがれば はるかに海が見えるだろう
けれどいずこにも海は見えなかった
山行きは少年の憧れから始まりました。充たされなかった少年の素朴な期待はかなえられないまま、「海」に象徴される広い世界を見てみたいという願いへと形を変えて行きます。
少年時代 ぼくは海を見たいと思った
海はどこまで行ったら見られるか
しかし平野の果てから果てまで歩いても
海はなかった
子供の頃からあこがれてきた
幻の国の幻の海
それをいまたしかめようと思う
黒い嵐の吹き荒れる砂の海を
われわれは徒歩とロバで横断した
キャラバンでぼくが愛したのはロバであった…
昼はまだ深々とした闇だった (「海の道」、『同』)。
垂直を攀じ昇ることから水平の広がりへ。秋谷の山行きが海外登山へ、そして西方辺境の踏査へと展開していったのは、ある意味で自然な推移であったと言えましょう。
詩集『辺境』から『ランプの遠近』へと彼の詩を辿っていくと、幾重にも「歩行」のイメージが重ねられているのに気づきます。
詩「もしかある日」、そして「やさしい時代」からの引用をご覧ください
これらの詩においては、かつての「漂流」の意識が、弛まぬ「歩行」として積極的に受け止め直されています。
秋谷が辺境を歌う詩において、時代の暗さという主題、夜の表象に、初期の詩集と変わりはありません。しかし、そこでは、闇の現実が真っ向から受け止められています。詩「遠征」で秋谷は、砂漠においては人間が培ってきた文明、「どんな人間のランプも闇である」と語っています。その認識を踏まえ、「自分にできることは/月明の闇のなかで/暗い夜と一つになること」と秋谷はまた述べるのです(「阿倍仲麻呂」、『廃墟と山靴』)。既存の価値の領域から(距離的にも)遠く離れ、その前に新たに出来するものの意味を知り得ずとも、辿るべく定められた途をどこまでも歩む、その歩みそのものが肯定されている。歩行を積極的に受け止め直されている。
詩集『辺境』には、そのような歩行を等しくするものや、声なき生きものへの共感が幾度も述べられます。詩「さすらい」で、秋谷は「何千年も前から/ロバはぼくらの夢のなかを/ああして歩きつづけてきた」と述べ、暗い夜をひたすら歩んできたものに自らの生を重ね、先人や歴史への思いを馳せます。歩くことの意味を考えながら、辺境の即興詩人の曲に耳を澄まし、声の方向へ歩いて行くのです。「探検」とは、彼にとって(引用です)、
遠く地図のなかから人間を見つめること
樹の影さえない白い陽の砂漠で
たくさんの影とひとつになること
でした。詩「シルクロードの蝶」は、その一場面を美しく描いています。
そのとき少年とぼくの上を
モンシロチョウが白日夢のようにひらひらと飛んでいった
あの蝶ははるばる西方から飛んできたのだ…
その夜 やみにつつまれたテントの中で
ぼくは神様を待っていた
死生の問いが身近になる辺境を旅していると、広大なものも卑小なものも、ただあるものとして等しく並んで見える。歩行の疲れのみを体に感じつつ進んでゆくと、遠くのものが近づき、真実の姿が浮かびあがってくる。ひとがあるがままの姿で見えてくる。過ぎ去ってゆくものとして、本当に美しいもののみが目にとまる。本当に大切なものを心は想う。秋谷が「神」と名指すのはそのような真実でありましょう。それは「言葉」に先立つところの「ことば」、「真実」であり、あるいは「詩」と呼んでもよいものです(作品ではない、詩作品に先立つところの「ことば」です)。秋谷は「神」という言葉から立ち去ってはいません。「神」を語る文明の向こう側に抜け出てしまったのです。
少年時の素朴な憧れに発した秋谷の山行きは、大陸のおおきな自然と歴史の中を歩むことを通して、人間の生死を見つめ、存在の根源に向き合う歩みとなりました。その営みの中で、詩とその言葉もまた、その存立を問い返され、その本源の姿に返されます。本源の言葉とは、抽象的な概念語ではない。それは、具体的に、死者たちの言葉を想いつつ代わりの生を生きることでした。秋谷の記憶に残された死者たちの記憶として、彼らが失った命と時を彼らとともに負うことでありました。詩「とおい海景」で、秋谷は「ぼくらは戦後を座礁し/ぼくだけ生きのびてきたのだから」と述べています。後年になっても、秋谷はそのような心の消息を告げる一連の詩を書いています。
戦争中、そして戦後、さらには「炎熱の砂の地面」を歩いてきた、と述べる詩「真夏の時代」をご覧ください。
かつて秋谷は『降誕祭前夜』の「背嚢」という詩で、「自らを撃ち苦しめるものをキリストのように負うことはできない」と書きましたが、辺境に出会う人々はみな、素朴にその生を負い、道端に出会う死者の身をも担っていました。彼らの歩みは秋谷の眼差しを恬然と緩やかにし、言葉は屹立を離れ、しっかりと歩行の幅を刻んで行きます。先に引用した詩「浪漫主義」は、終連にそのような歩行の姿を描いています。
砂漠の死のような道をたどり
水平線へ出ることをひたすら求めながら
ぼくは歩いていった そして歩きながら
ラクダの背に揺られる死者をぼくは見つめた
…
ぼくのあまたの夜 ぼくの長い歩行
このさびしい地方に
ぼくはなぜ来なければならなかったか
それは少年のときからずっと
ぼくが歩いてきたからだ あの隊商のように
死者を自分の背に引き上げながら
そのような人間の本源の姿を見つめるところから、秋谷豊の「郷里」の詩は書かれ始めるのです。戦後の混乱期、死者たちへの負い目を負って歩み始めた秋谷豊の詩が絶えず立ち返っていった本源の姿が、武蔵野に重なってきます。
3.故郷の詩、「帰郷」の主題
垂直から水平へ。海外に往き、山に登り辺境を辿り、その際に太古の風土と歴史の中に暮らす人々に接し、昔ながらの言葉を生きる即興詩人の歌を耳にする。人間存在の本源を訪ねるような旅のさなか、秋谷豊は、原郷への遡行を自らの来歴にも重ねていきました。旅と帰還を繰り返すうちに、自らの生まれと故郷へ立ち返る想いは深められ、作品が生まれていきます。それらは、帰国する時を外的内的に契機とする点で、やはり「帰郷」の詩と呼ぶことができます。
むかしから、帰郷また望郷は詩歌の重要な主題でした。近代詩においても、北原白秋の「帰郷来」、室生犀星の「小景異情」、萩原朔太郎の「帰郷」、中原中也にも「帰郷」の詩があります。さらに伊東静雄の「河辺の歌」「帰郷者」などが思い浮かびます。「帰郷」はどの詩人も執着する主題ですが、たいていは郷里に対する詩人の屈折した心が歌われています。たとえば、秋谷豊はしばしば萩原朔太郎の名を挙げますが、編著書『詩で歩く武蔵野』でも、萩原の詩「帰郷」を紹介している。「汽車は曠野を走り行き/自然の荒寥たる意志の彼岸に/人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり」と、結ばれるその詩です。引用を参照して下さい。秋谷はこの詩の解説に、「上野発七時十分、小山行高崎廻りの夜汽車で、朔太郎は蹌(そう)踉(ろう)として上州の故郷に帰ったのであろう。『汽車は闇に吠え叫び/火炎(ほのほ)は平野を明るくせり』烈風の中を、列車は浦和、大宮、鴻巣と埼玉の平野の町を過ぎて行ったのだ」と述べ、「『帰郷』はまさしく武蔵野の詩であった」と結んでいます。これらの町ことに鴻巣また浦和は、秋谷豊が生まれ、暮らし、また活動を行った地として、彼の「武蔵野」のイメージの要をなす地名でもあります。
いま詩人の屈曲した心と言いましたが、秋谷豊の「帰郷」にも、たしかに屈曲を窺うことができます。「故郷」を語る秋谷の言葉には両義性があります。生を受けた町、鴻巣は一方で暗い町、一方で育んでくれたやさしい町でした。この町は彼に父母の記憶を呼び起こすからです。幼い目に映った父母の姿は、それぞれに隔たりの痕を秋谷に残しました。父の権威への密かな確執と、慕いつつも親しむ時の乏しかった母。この町は、母の思い出とともに「暗いやさしい夜」として秋谷の心に深く沈みました。母は「神」への思い、また詩への促しを二つながら少年の秋谷に遺してくれた。かつて少年秋谷が「近代を病む詩人」萩原朔太郎を読んだという生家の廃屋について、こう歌っています。
『ぼくはこのとおり落伍者です』
三十年ぶりに墓の前に立って
ぼくは土蔵のある家のことを考えていた
そこでは何かしら傷口が暗い口をあけ
古い酒樽が一つおかれ
土間の戸がはずれ またひとつの戸がはずれていた
帰郷者の心を映す廃屋の描写は秀逸です。
「ぼくは母の暗闇から出てきたが/平野のなかの町は もっと暗い」と秋谷は郷里の町を歌います。しかし、辺境の旅から帰って、秋谷は、どこであれ人間はその「暗さ」において通い合うことを肌で知っています。その経験のゆえに、故郷の命の営みの暗さにも今は共感することができる。その共感は、時の隔たりを越え、所の境をも越えてゆきます。暗さへの共感こそが、秋谷の帰郷詩の通奏低音と申せましょう。
秋谷は、鴻巣をも含む北関東の広い平野を武蔵野に含めています。その眺望のひとつひとつに心を込めた言葉を贈っています。
ああ ずっとずっと 何百年か前
十三歳のとき故郷を出立した渡辺綱は
摂州渡辺の庄から生国の鴻巣に下り
わけこし草のゆかりあらば――と詠んだ
草を茂らせるいくさの傷は
何百年前とて同じだろう
詩「暮春憂愁」では、何百年前の戦いを「五月の草が記憶しているこの平野の展望」が、「世を経てもわけこし草のゆかりあらばあとをたずねよ武蔵ののはら」の一首を遺した武人の想いを介して、秋谷自身の戦時の経験につながるのです。
また「天文十五年四月の川越夜戦で」戦死した松山城代の討死を秋谷は
墓もなく
彼の行方は茫々として知るべくもないが
古い土蔵の中で少年の私がふと見つけた
馬上の幻影は現代にいたる
と詩「馬上の少年」に記します。武蔵野は戦乱の記憶を重ねてきた場所です。また、防人歌碑を読み、一千年の前に征旅に旅立つ男を見送る妻の髪がムラサキ草のように微風に揺れる、その様を秋谷は懐かしく思います。それは「武蔵野の暗く美しい自叙伝」の一章に相応しいと、彼は詩「ムラサキの衣」に歌います。さらに、稲荷山古墳で出土した鉄剣の金象嵌一一五文字に、「何代かの墳墓を作った」人の涙と「愛のほとぼり」を感じ、「古代は暗いがまったくの夜ではない/…/そこに言葉が始まり 文字が生まれた」のだからと記しています(「遠い文字」)。
秋谷はまた武蔵野の道に思いを馳せます。「この平野に人ははじめに道をつくった」、その「行方も知れない彼方に行きつくための道」から「なんと多くの悲しみや喜びや涙が/ぼくらの上を通りすぎていっただろう」と。秋谷にとって、それら基本的な感情のことばこそが、詩・芸術の心髄をなす。それは、ロバを引いた隊商が通る道で出会った吟遊詩人の声に響いていたものであり、また「砂漠から掘り出された巫女埴輪にも/天女がうたった音楽があった」のと同じだと秋谷は言うのです(「遠い道」)。
戦乱を逃れた「古代朝鮮半島からの渡来者たちは/原野の果てにいかなる道をつくったか」(「冬の川」)。「ぼくは思い描いていた/…/滅ぼされて故国を失った人々の心を/それから何世紀もの後に/ぼくらの暗夜の時代があった」(「高麗」)。戦いの苦しみを等しくするところに深い共感が導かれるのです。「高麗」等の文字が今なお昔を語るように、秋谷にとって「地名は心の地図」とされます(映像詩「武蔵野」)。
秋谷は武蔵野の夕日を愛しました。そして「ぼくが高い山に憧れるのは/この平野に生まれ育ったせいだ」と告白します(「武蔵野」)。夕日に黄昏れる西の空には秩父の山並みが聳えています。故郷鴻巣の町並みはかつての街道に沿っていますが、信濃へ至るその道の途上に秩父は位置し、山々は武蔵野を分かつ国境となっていました。「少年の日からきみは ぼくの主題だ/ぼくに最初の憧れを与えてくれたきみ」と秋谷は秩父に呼びかけます。「人影のなくなった冬の野を越えて/なつかしいきみのふところにもどってきた」と(「冬野」)。秋谷にとって武蔵野は、秩父に抱かれた母の懐なのです。初めての秩父登山は、その見慣れた景色の育みからの巣立ちでした。辺境の旅から帰って、秋谷は、
独立峰の孤独な地点に立って
あのはてしない光景を眺めなかったなら
一生 山に登ることはなかったろう
と振り返り、懐かしい山に再び呼びかけます。
両神山よ きみは元気か?
ぼくも元気だ 山靴ははきふるしたが
天山の氷河や黄砂の道を踏んでいる
秩父の山並みの麓への帰還は、命の深みとしての郷里の歴史へと目を向けることでもありました。武蔵野という空間の境をなす秩父は、現代という時の縁取りをなす出来事をも区切りとして持っています。歴史の夜明け、
眠っていた人々の夜明けであった
しかしそれはまだ中世のように暗い
明治維新に透谷は生きたが、「だが月が沈めば/詩人の詩も暗闇だ」と秋谷は記します。しかしまた彼は、その暗さを見つめつつ「おふくろの匂いのような/なつかしいやつら/ぼくよ 思い出すんだ」と「秩父困民党」の始末記を書きたいと記すのです。
「明治一七年――荒れはてやせた山畑に烽火があがった」その出来事、「自然もそこに住まう人々の歴史も「ぼくにとって暗い遠景のひとつ」と秋谷は言います。しかし「秩父はまだ夜/この山塊の地形は/源流に近づけば近づくほど暗さをましてゆく」と述べ、「そのとほうもない古生層の岸辺に/夜明けが来るのはこれからだ」と詩「秩父の山塊」に記します。その希望は、詩人の歩む生への方向に重なってゆきます。
どこまでも暗い歴史の中で、秋谷は現代を「薄明りの時」と告げるますが(「幼年時代」)、彼の「帰郷」の詩は、乏しくとも暗黒に呑まれることのない光を指し示します。それが「詩人の使命」であると。その姿は比較によってより明確になります。
先に萩原朔太郎の詩「帰郷」を引きました。いまひとり、伊東静雄は、詩「帰郷者」においてこう歌います。
美しい故郷は
それが彼らの実に空しい宿題であることを
無数な古来の詩の讃美が証明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそ処で一基の墓となってゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである (『わがひとに與ふる哀歌』所収)。
郷里に対する心の屈折が、詩人の矜恃と批評精神に置き換えられています。俗世界に抗して詩人は美の維持者として立つ。伊東はこの詩集をまとめた時期、ヘルダーリンの影響を強く受けました。秋谷豊もまた青年時代にヘルダーリンを「息をつめて読みふけった」と振り返って語っています。等しい経験から伊東と秋谷、異なる立処が帰結しました。ヘルダーリン自身は何と言っているでしょう。ここでヘルダーリンの代表作「帰郷」を引きます。彼の代表作の一つ「帰郷」は、「ふるさとびとに寄す」という副題を持っています。故郷の人々へ喜びを届けるためにアルプスの高みから降ってゆく。それがこの詩の主題です。長い詩なので抜粋です(手塚富雄訳)。
第一連、
ここアルペンのさなかは、夜も雪白く 雲かかる。
そは 喜びを生みつつ 暗き谷の想いつつ 暗き谷の顎(あぎと)を覆う。
その深みをめざして山気は戯れつつ踊りくだり、
猛々しく樅の森を貫いて一筋の流れは、光、また消えつつ走る、
先に引いた詩「アルプスの麓で歌う」の情景がさらに詳しく描かれています。そして第二連は、「アルプスの麓で歌う」において「聖く汚れなきものよ」と呼びかけられたものにも別な表現が与えられています。
そしてさらにいや高く光の上に いと浄(きよ)らの
至福の神は住んで 聖なる光の嬉戯を喜ぶ。
ひそやかに神はひとり住む、その容貌(みかお)明らけく
エーテルの世界より生命を授けんと身をかがめ、
つねにつねに喜びをわれらが上に創り出さんとする。
「神」という言葉が出てきましたが、それはヨーロッパの歴史と伝統に伝えられた存在を差すものではないようです。秋谷は「僕から神がいなくなったのは/遠くの空で神が火花をちらしたからだ」と記しました。ヘルダーリンは、天然や共同体の秩序を根底から支える神の名が、古びて手垢のついたものに変じてまう、その事態を、人々が認識する二百年も前に洞察しました。第六連に彼は「聖なる名称が欠けている」とはっきり述べています。しかし、それでもなお彼は、「混じりけなく澄みわたったもの」「空の気高いものたち」の与えてくれる喜びとその秩序をいまいちど求めていこうとするのです。それは秋谷が、「神」という言葉を手放さず、文明の彼方にそれを認めたのに似ています。
第三連に「霊が 招かれぬのにわたしたちを忽然と撃つことがないように」という一行がありますが、ヘルダーリン自身は苛酷な命の歩みを引き受けねばならない定めを負っていました。しかしかれは、「母国にあっていそしんでいるおんみら、故国の同(はら)胞(から)」の幸いを祈り、第四連で「生みの国 ふるさとの地」「ネッカルの美しい谷々」へ帰っていこうとします。それは、第五連に記されているように、
最善のもの 宝は、聖なる平和の穹窿のしたに、
若人のためにも老い人のためにも 貯えられている。
愚かしいわが言葉よ、宝とは 喜びのことなのだ。
その喜びの源をなす根源の言葉を尋ねる者としての詩人の使命と、ふるさとの人々の定めは異なると述べて、この詩「帰郷」は終わります。欠けている聖なる名を求めねばならない、「このような憂いを、好むと否とにかかわらず、/歌びとは魂(こころ)のうちにしばしば抱(いだ)かねばならぬのだ、しかし他のひとびとはそうではない。」と、しかし、その言葉は詩人を、ひとりそびえ立たせたり、また自己の内に閉ざすことなく、故郷の人々に向けて開いてゆきます。「わたしは 愛するひとたちよ! おんみらと喜びについて/多くのことを語り たのしみたい」と。
おんみら、保つ者たちよ 年の天使たちよ。そしてまたおんみら、
家の天使たちよ、来たれ! 生けるものすべての脈管のうちに。
生きとし生けるものを喜ばせつつ 至高のものを分ちあたえよ。
それによって一切のものを高貴にせよ、若がえらせよ。
ヘルダーリンは、運命に弄ばれる人間の悲哀と自己の無力を見つめつつ、人々に希望と真実を指し示すことを使命としました。その詩業を、秋谷豊もまた地球(世界)に開かれた眼差しで受け継いでいます。アルプスの高みに認めた生きとし生けるものを支える根源の明澄さをひとびとに分かつために、携えてゆく歩行、それがヘルダーリンの詩の歩みでした。秋谷豊が、その辺境の歩みから携えてきたものも同じでした。地球の広さを自らの足で確認しつつ、人間の存立の根源への問いと信頼を詩の地平とする。その視座と見据える視野の大きさという点で、ヘルダーリンに並ぶ詩史的位置を秋谷豊に帰すことができると思います。
「あの戦いの中から故郷に帰ってきた/われらの文学の青春も ここで始まった」(「秋の予感」)と秋谷が言う町、浦和は、「あの霧と氷の中から帰ってきて/夜中 ぼくは詩を書く」その町でありました。居を据えて武蔵野を見渡したその所で、彼は自分に問います。
氷河や廃墟や物思う時代を歩いてきて/…/
若く輝かしい人間の希望を
どれだけ言葉でひらいてきたか
いま 武蔵野を吹く新しい風の中に
ぼくは生きるだろう
次のひとつの始まりのために」(「夏野遠くあり」)。
また言います。
ここはわれらの生れた土地
二つの川が都市と平野を湾曲する 現代の武蔵野を
われらは地図を片手に歩いて行かねばならぬ」(「武蔵野の地理」)
と。そしてまた、
一九九〇年代のおわりの夏に
ぼくらは西の大陸から帰ってきた
大いなるゴビの砂漠を南下しつつ
真昼の空に北斗星を見つける
あんなにも深々と空にかかる北斗星は
茫漠たる地平線でぼくらと同じ高さになる
おお 生きてあれ人間よ 精神よ
文明のアンテナが発信する新しい世紀はすぐそこだ
(「世紀の展望」)
かつての「ふかぶかと」という言葉がここに再び現れます。それは人間の歩みとその生の深さを、さらに深いところで受け止めている万有の側から、人間に注がれている信頼の光なのです。
.......................................
最後に、日本詩人クラブにおける講演として、一つの比喩を申し上げて私の話を終えたいと思います。
今日の話のはじめに、それぞれの抱く山のイメージは様々でしょうと申し上げました。里山のように生活に親しい山、あるいは急峻にそびえ立った山、遠方から長い裾野を歩んでゆく山、山の姿、またそれを移す人のイメージは様々です。それは、わたしたちの記す詩が様々であるのと同じだと思います。それぞれが、自らの山のイメージ、また詩のイメージを携えて帰ってくる。帰って来たそのところで出会い、交わり、喜びを共にする、そんな共にする故郷、それが、わたしたちの、この日本詩人クラブという場である。そしてその喜びは、わたしたちの輪を越えて、さらにひろく広がってゆく、そんな故郷を作っていきたい。そんな願いを持って歩んで参りたいと思います。
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