フィリピンからの訴え


 この子供の家を通して、フィリピン女性からさまざまな相談・訴えが寄せられてきます。夫、父親を探してほしい。電話するなど連絡するように 夫に伝えて欲しい。日本に帰れるように協力するように夫を説得して欲しい。夫が子供の養育費を送るように説得して欲しい。そんな訴えが殆んどです。その度 に、連絡のつく夫に 電話しますが、まったく行方不明で連絡できない人もいます。そんな相談の中から、二つの例を少し詳しく報告します。

 これまでに12件ほどの相談を受けていますが、その中の僅かに二件だ けが解決しました。一つは弁護士の協力を得て夫との直接の交渉の結果、毎月「養育費」を支払う事で解決しました。もう一件は、夫との直接交渉で妻と子供を 日本に呼ぶ手続きが完了し、パスポートも取得できました。現在、更に二件が家庭裁判で話し合われています。
 
 認知と国籍申請
  家庭裁判所で山本弁護士の支援で行われていた子供の認知の件が解決しました。昨年(2008年)末に認知審判を得ることが出来ました。役所に提出する 認知届けも母子共にフィリピン在留のまま受理されました。認知届をフィリピンに送り、母親のサインをしてもらい、代理で届けたところ認知届は受理された。 それを受けて、現在は国籍取得の申請中です。認知の記載のある戸籍謄本以外にも多くの書類をフィリピン大使館に提出しなければならない。その書類は全て翻 訳が必要です。大変ですが、ハウスに滞在しているボランティアの協力で順調に進んでいます。その結果を近くお知らせできるのを楽しみにしています。 (2009年5月)


その一。
   A子さんは、1992年に広島である日本男性と出会い、交際するようになりました。そして、1993年の夏に男の子を日本で出産し、翌年の1月に結 婚届を提出さ し、受理されました。同年に男性は他の女性と親しくなり、行方不明になりました。A子さんは、止むを得ずフィリピンに帰り、次男を出産しました。夫と会っ たのは 1994年の3月が最後でした。それから連絡も途絶えていましたが、再来日した1997年に一度電話がありました。それ以来何の連絡もなくなりました。そ し て、1999年に日本にいる友人から、別な女性と結婚していることを知らされました。
   この相談うけて、弁護士を通して調査したところ、1995年11月に東京都で離婚届が出され、翌年の5月には早くも別の女性との結婚届が出されてい ました。そこで、本籍に電話したところ、母親という女性から男性は借金で逃げているので、連絡が取れないとの返事であった。
   現在、先ずは子供の日本国籍の回復の手続きを考えているが、母親が国外にいて、来日が困難なので手続きが難しくなっています。法律の壁が障害となっ て います。

その二。
   B子さんは、1992年にマニラの日本人が経営するエンタテェナ−のプロモーションと契約して、来日しました。来日したころから、プロモーターのC 氏から執拗に結婚を迫られました。B子さんは、2ヵ月後に働いていた店のオーナーによって無理やりフィリピンに帰国させられた。帰国してみると、プロモー ターのC氏は自分で用意したアパート に連れて行き、一緒に生活するように強要しました。そのとき19歳だったB子さんは、抵抗できず同居しました。そして、1993年の7月に女の子を出産し た。ところが妊娠している間に、C氏は別 に恋人を作り、同居するようになった。そして、その年の10月ごろ、お前は必要ない、出て行けといわれ、母親のいる田舎に連れて行かれた。その後二、三 回、C氏の 友人という人が金を持ってきたが、それも1995年までで、その後は連絡もサポートもない。
   この相談を受けて、C氏を探したが、以前の住所から転居しており、転居先も追跡できなかった。C氏の携帯電話が書類から分かったので、電話したとこ ろ本人と接触が出来たので、交渉したが、自分には関係ないと取り合うことはなった。住所は不明で問題はあるが家庭裁判所に訴えることになった。