県立鎌倉高校サッカー部


<コラム>

NAKATAの引退』

 

日本にも、いよいよこんなすばらしい選手がでてきたか!!

もう14.5年前になるだろうか、中田ヒデを知ったのは、日本で行われたU-17世界選手権のハイライトを流したスポーツニュースだった。相手はアフリカのチーム(ナイジェリアだったか?)ではっきりとは覚えていないが、ハーウェイラインから右サイドを駆け上がり、相手陣内の奥深くからセンタリングを上げる姿。スピードもさることながら、アフリカのフィジカルの高い相手に寄せられても、グラウンダーでしっかりと中に合わせる姿が印象的だった。この高校生、すげ〜・・・。

 

当時、韮崎高に在籍し、選手権に出場した時にテレビの特集で練習風景が流れた。大きな声で指示を出しながらプレーするスタイルは今と変わらない。そして、Jリーグの多くのチームが獲得に乗り出す中、ベルマーレに入団した。その年の3月に(高校3年の3月)、ベルマーレと平塚で練習ゲームをする機会があった。とてもワクワクしてグランドに行ったことを覚えている。どんなプレーを見せるのだろう。試合が始まるとそのプレーぶりに目を奪われた。強いグラウンダーのパス、状況判断が速く、ワンタッチ・ツータッチでプレーし、パスムーブを繰り返す。そして声の大きさ。まだ高校生であったが、既に周りの選手に大きな声で指示を出していた。やはりタダもんじゃないな・・・。

 

アトランタ五輪の時までの印象は、どちらかというと右サイドでパスの出し手というより、受け手となってチャンスメイクするプレーだった。そしてパスの出し手として姿を見せたのがJリーグでのプレーだった。

またたく間に日本代表に召集され、日本のトップ下のポジションにおさまった。

今までの日本は、センスあふれるパスの出し手をいい選手として扱っていたが、往々にして、そんな選手は、スピードがなく、走らないので味方のスルーパスの受け手になれず、フィジカルが弱い、守備ができないといった問題を抱えていた。中田は全てを高いレベルで備えた革命的な選手だった。

日本代表で活躍することで、キラーパスの代名詞となっていく。この頃の中田は“自分のパス”で相手を一発で崩そうとキラーパスを狙っており、あえて味方の走る一歩二歩前に強いパスを出していた。きっと、あれはパスを出す感覚を高める作業だったのだろう。

 

そして海外に飛び出し、ペルージャではボールが自然と集まってくる王様として、今までのプレーを進化させていった。ただ、強豪のローマに移籍したころから、少しずつプレーを変化させてくる。現代サッカー自体の変化もあったのだろうが、世界的な選手が集まるローマではチームに合わせたプレーを選択せざるをえなくなる。中田が無理にキラーパスを狙い、ミスになればボールを失うことになる。チームの一員として、機能するためには自然と早くシンプルにボールを動かすことが必要になってくる。

キラーパスを出すためには、相手、味方、スペースが一致し、一瞬できるその瞬間を頭にイメージし、それと同時にパスを出す動作に入らないと成功しない。目の前で起こる映像を見ながらそのタイミングで体を動かす。一瞬のタイミングのズレは、ミスにつながる。キラーパスを狙わないで、安全パスを続ければ、キラーパスを出せる瞬間をみつけ、体に指令を出す感覚が鈍る。味方もパスが出てこないと思えば、スペースに走らなくなるのでさらに難しい状況に陥る。中田がペルージャで一番イキイキしていたのは、そんなことも影響しただろう。

マイナーチェンジしながら、中田は現代サッカーの素晴らしい選手になっていく。高い守備意識をベースに、予測からボールへチャレンジし、ボールを奪うとそのままカウンタを仕掛ける。上下動を激しく繰り返し、攻撃になれば素早くクサビをいれ、そこにサポートまたは味方を飛び越していく。鎌高で徹底してやっている「つけて出る動き」だ。守備になれば、素早く激しく相手にプレスをかける。時間とスペースのない中でプレーする、より世界標準の選手になっていった。

私はそんな中田のプレーがとても好きだった。強くて鋭いインサイドキック、インフロントキックもいい手本になった。自分がやりたくてもできないプレーを体現してくれているようだった。

本当にこの十数年の間、そのプレーぶりを楽しませてもらいとても感謝している。