メッセージ  (説教より)
「申命記」



「終わりの祝福」        申命記 34章1−13節
 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」

 モーセの生涯の最後はネボ山の西の端のピスガの頂から、眼下に約束の地を見ることでした。モーセはそれをどんな思いで見たのでしょう。そこに入ることはできなくても見ることはできたのです。
 40歳までエジプトのファラオの娘の子として帝王学を学び、80歳までミディアンの祭司の娘と結婚し、羊を追ってシナイの荒野の隅々まで知り尽くし、最後の40年は、イスラエルの民をエジプトから約束の地の入り口まで導きました。それがどんなに困難なものだったことか。
彼の悔しさも涙もしてきた努力も、その先に続いているのです。信仰者は自分のしてきたことが決して無駄にならないことを知っているものです。(コリントT 15-58)
 これはいきなり出来るものではなく、人生のひとこま一こまの積み重ねなのです。人々は問題が起こるとモーセに悪意に満ちた八つ当たりをしました。ぞっとするような皮肉を言い、モーセは何度煮え湯を飲まされたことでしょう。しかし、モーセはそのことを戦いません。もし戦っていたら約束の地には行けなかったでしょう。目先の問題と戦うのでなく、約束の地に行くことだけを見据えて歩み続けたのです。その結果なのです。