メッセージ  (説教より)
「エフェソの信徒への手紙」



「恵みを伝える務め」       エフェソ 3:1−13

パウロは福音に仕える自分を「聖なる者たちすべての中で、最もつまらない者」(3:8)と言います。それは謙遜から出たものではありません。パウロの能力は皆の知るとことです。教会を迫害したからそういうのでもありません。過ちや失敗はだれにでもあることだからです。福音の計り知れない恵みを知って自分を見ると、そう告白せざるを得ない実感なのです。

パウロ(それは全ての信仰者)にとっては、どうしたら神様から義(善し)とされるかが問題でした。間違った生活の上に本当の生活はありません。罪を犯さないために律法に従って生きる。パウロは必死でそれを行い、そうしない人を見下し、律法の行いによる義の生き方に弾みをつけていました。

 しかしイエス様に出会ってから生き方が逆転しました。イエス様の十字架によって、神様からの義は、獲得するものではなく、与えられるものと知らされたからです。キリストを信じることは裁きをやめることです。イエス様によって私は赦され愛されています。それで自分を裁きません。隣人も裁きません。隣人と比較もしません。神の愛と赦しの中で見るだけです。

 パウロの開眼はそれだけに止まりません。それに値しない自分が神の赦しと愛に生かされていることは、神様と無縁に生きていたと思われていた異邦人もその恵みの内にあり、それは「世の初め」から神様のお心の内にあったと知らされたのです。パウロはその恵みを伝えることでその恵みに生きたのです。