メッセージ  (説教より)
「エフェソの信徒への手紙」



「神を知る前と知ってから」      エフェソ 2:11−13

「だから、心に留めておきなさい。」(2:11)

パウロは念を押すように前のことを確認しながら筆を進めます。私たちは今あることが当然のようになり、神様の恵みが分からなくなります。それは私たちがどこから救われたかを忘れるからです。

何を心に留めるのでしょうか。「以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(2:11)

ここではガラテヤ書で問題になっているような形式的な割礼の問題ではなく、割礼の本来の意味を語っています。割礼は肉体の徴だけでなく、神様との関係をあらわしています。創世記17章7節にあるように、割礼を受けることは、神様が自分の神様になってくださっていることの徴なのです。

信仰は神様を信じることですが、もしそれだけならその信仰は気休めに過ぎません。私が神様を信じるとは、神様が私の神様となってくださっていることを信じるのであって、その徴が割礼(洗礼)なのです。

「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(2:12)

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(2:13)

近い、遠いは神様との関係です。かつては遠いことさえ知りませんでした。キリストを知ってからは、神様を「父よ」と呼んで、神様の近くに生きてゆけるのです。