メッセージ  (説教より)
「民数記」



「不満から感謝へ」           民数記 11:1−23

イスラエルの「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った」とあります。何への不満なのかは記されていません。これは意味深いことです。あとでは食物のこととわかりますが、不満は目先のことではないのです。

モーセに導かれてエジプトを脱出した後、エジプトの兵隊に追いつかれての皮肉をこめた不満。エジプトから持ち出した食料を食べ尽くしての食料不足の不満。マナが与えられると、マナしか食物がないとの不満。一つ一つはもっともなことで、一つ一つは解決されます。しかし一つが解決すると次の不満を訴えるのです。不満は目先の不足ではなく、その不足を通して神様が何を見せてくださるかを見ない、神様を信頼していない姿です。

 感謝もそうです。目先のことで一喜一憂するのでなく、喜びや感謝の背後に神様の御手を見てすることなのです。

 不満が後向きで、感謝が積極的で前向きの姿勢だといった人生訓としてはとらえません。このことは信仰の問題なのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケT 5:16-18)と勧められていますが、その前に実は「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(テサロニケT 5:9)と言われています。感謝はこの神さまに眼が開かれるところからくるのです。