メッセージ  (説教より)
「レビ記」


「あがないの小羊」           レビ記 16:6−22     

旧約聖書では、律法で身を律し、犠牲の動物で罪悪の赦しを願います。レビ記16章は、罪の赦しを全うして下さるイエス様を指し示すことで、レビ記の中心です。

 大祭司は、先ず自分のため雄牛を捧げ、次に民の罪の赦しのため雄山羊を捧げました。後では廃れたようですが、人々の罪悪を背負わせ荒野の奥へ追いやる「アザゼルの雄山羊」も用意されました。そうしたことを毎年行い続け、罪の赦しを神様に願ったのです。

「キリストは…恵みの大祭司として…人間の手で造られたのではない、・・・完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(人間の大祭司が自分自身と民の罪のためにしたようにではなく、また毎年)御自身を捧げたのではありません。世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために現れてくださいました。」(ヘブル書9章)    

 私たちが生きるために、どれだけの人に支えられているかを知っています。支えもしますがそれ以上に支えられています。しかし最大の支えは、神の御子です。横の広がり(ヒューマニズム)以上に、縦のつながり(信仰)があるのです。神様によって赦され、「よし」とされているのです。