メッセージ  (説教より)
「ヨシュア記」




「罪からの開放」         ヨシュア記 7:1−15


難攻不落と思われたエリコを陥落させたイスラエルの民は、第二の町アイでは手痛い敗北を喫しました。アイは小さな町だったため油断があったことも事実です。しかしそれ以上に罪が絡んでいました。アカンが神様の戒めに背いて奉納物を隠匿していたのです。アカンはそれを隠れて行い、人もそれに気付きませんでした。しかし神様は見ておられます。(イザヤ 29:15)隠れてすることは、人を内側から輝かせますが、逆に腐敗もさせます。しかも罪は、その人だけでなく周りの者も腐敗させてゆきます。罪は断固処理されなければなりません。
罪の認識とその処理が問題です。世の人はそして法律も、表面に現れた行為だけを問題としますが、私たちは違います。神様の前での認識です。罪を認めない不誠実は論外ですが、罪を認めるだけでは信仰者として半分しか生きていません。赦しに生きるのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ 4:25)

アイに敗れたイスラエルには深刻な問題が残りました。戦いなのですから勝つことも敗れることもあるのです。ところがイスラエルは敗れること以上に敗れたことに囚われてしまったのです。これは罪の残す後遺症です。罪が処理されるには、罪の後遺症も処理されなければなりません。成功しておごる、失敗し意気消沈する、これは同じことの裏表です。自分の視点からだけしか事柄を見ていないのです。
自分の中にある罪を知り、赦しに立ち、罪と過失の虜から解放されていますか。