メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」





「審くことで審かれる」        ヨハネ 18:12−24 

 イエス様は、ゲッセマネで捕縛されると分かって出掛け、祭司長達はそこへ行けば捕縛できると分かって行きます。実力者アンナス(大祭司カイアファの舅)は既に決めていたように死刑にするため傲然とイエス様を尋問し、イエス様も、少しも臆することなく彼の前に立ちます。祭司長達もイエス様も同じ方向を向いています。イエス様は神様のお心に従ってそれを行ない、大祭司達も自分達の正義を貫くためにそれを行ないます。

 祭司長達は自分たちにとっての正義でイエス様を裁きます。自分たちが間違っているとは少しも思いませんし、裁く力を持っていると思っています。彼らは、この二つで誤りを犯しているとは少しも考えません。

「一人の人間が民の代わりに死ぬほうが好都合だ」と、かつてカイアファは言いました。イエス様の贖罪の死を言ったものではなく、一人の人を皆のために抹殺しようという自分中心の思いを言っただけなのです。

祭司長達はイエス様を亡き者とするために手を打ち、それは実現します。

 しかしこの箇所も「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)から読む必要があります。祭司長達の思惑を越えて、イエス様の、それらを包み込む神様の愛と赦しの意志が全てを覆っているのです。