メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」


   

「キリストへの捧げもの」        ヨハネ 12:1−11

 イエス様を取りまくただならぬ雰囲気に、マリヤはナルドの香油1リトラをイエス様の足に塗りました。体裁も計算も越えたイエス様への愛の行為です。イエス様もそれを「葬りの備え」と受けとめて下さいました。

 それを見ていたユダは、「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言います。1、2滴で十分なのですから当然の言葉でしょう。しかし聖書は「彼は貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながらその中身をごまかしていたからである」と記します。

「盗人」といっても、イエス様に捧げられた献金をくすねて遊興費にあてたのではありません。そんな暇も場所もありません。ユダは金入れを預かって必要なお金の出し入れを行ない、貧しい人にその中から施しをしていたに違いないのです。

ところがそれをし続けるうちに、いつのまにかそれをする自分に優越感を覚え、貧しい人への配慮以上に自分が主人になってしまったのです。イエス様への栄誉を盗んだのです。

イエス様は命を捧げて下さいました。それに応えたマリヤも人の目を意識しない行為です。ユダは人の目を意識し、どこかで計算がありました。

私たちが計算や名誉から解放されるためには、イエス様への感謝というフィルターが必要なのです。