メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」


   

   「死んでも生きる」   ヨハネ11:17−27

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は…だれも、決して死ぬことはない。…このことを信じるか。」(ヨハネ11:25−26)

 牧師になりたての頃、この言葉の意味がわかりませんでした。死ねば死ぬのだし、生きていてイエス様を信じる者は決して死なないなど、とうていそうは思えませんでした。肉体の生と死しか見えてなかったのです。

 勿論、人は皆死ぬのです。聖書は「命」を、肉体に結びついたものではなく、神様に結びついたものと言います。ラザロは、そして甦(よみがえ)らされたヤイロの娘もナインの寡婦(やもめ)の息子も死にました。しかし、イエス様に接する前と接してからは随分違った生き方をしたに違いありません。そのあとの生涯で、時には泣き苦しんだことでしょう。しかし深いところではイエス様の愛の中で生き、イエス様の御手の中に死んだのです。これが「生きる」の中身です。

 「災難に遭う時には災難に遭うが宜しく候・・・死ぬ時節には死ぬが宜しく候。是は是。これが災難を免れる妙薬にて候。」(良寛和尚)

 信仰は煩悩の応援団ではありません。正しい信仰は煩悩を断ち切ります。しかし、問題はそれが自分で出来ないことなのです。

潔く死に向かうのではなく、イエス様の御手に身を投げ出すのです。地上にある時も、死ぬ時も、自分に立ちますか、イエス様の愛に立ちますか。