メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」


「見えると言いはる罪」         ヨハネ 9:35−41     

 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 

   

 盲人だった男は、「(この人が生まれつき目が見えないのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもなく、神の業がこの人に現われるためである」とイエス様から言われ、神様の業に与りました。

 その日が安息日だったためにユダヤ人から尋問を受けますが、尋問を受ければ受けるほど、彼の信仰は確かにされていきます。みじめで明日に希望が持てず、自分の生まれを恨んでいた彼の上に神様の業が現われたのです。神様がイエス様によってその人生を引き受けてくださったのです。     

自分の人生が、神様に結びついていますか。これがあやふやではありませんか。イエス様によって、神様が私の人生を「よし」と言って下さっていることを聞いていますか。

  ファリサイ派の人々は、聖書を学び続け、世間の人々が世俗に流されても信仰に立ち続けた人達です。自分たちは、見える、神様の救いは当然わかっていると思っていました。ここに落し穴があります。信仰生活が長ければ長いほど、熱心であれば熱心であるほどそうです。

 もっと大きな、生ける神様の業が見えていますか。