メッセージ (説教より) 「ヨハネによる福音書」 |
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「ただ一つのことを知る」 ヨハネ 9:13−34
「あの方(イエス)がどこから来られたか…ご存じないとは、実に不思議です。…生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(9:30−33)
生まれながら盲人だったこの人は、ファリサイ派の人達の追求に一歩も退きません。追求されることで、かえって信仰は逞しく深くなりました。自分の上に現された神様の業に立ち続けたからです。
ベトザタの回廊で38年病みついて癒された人(ヨハネ5:1−18)は違います。癒しを感謝なこと、幸運なこととしてとらえたのでしょうか、イエス様に神様の業を見ることなく、安息日違反を言われるとイエス様を密告してしまいます。
ファリサイ派の人々は、律法を研究し、実践していました。信仰の専門家です。しかし、専門家には専門家の落し穴があります。いつのまにか信仰が建前となり、自分は専門家だという自負が信仰を自分の枠のなかに押し込め、神様の活ける御業が見えなくなってしまうことです。
イエス様によって神様が私の人生に関わり祝福して下さっている、この一点に立ち続けていますか。ここが救いのポイントです。