メッセージ  (説教より)
「ヨハネによる福音書」


「知られているわたし」         ヨハネ 1:43−51

 「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」驚くナタナエルに、イエス様は「わたしは、あなたがフィリポから話かけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。(ヨハネ1:47−48)ナタナエルがイエス様を知る前に、イエス様からその本質が知られていたのです。

 イスラエルの民は、いちじくの木の下で祈ります。祈る人に偽りはありません。罪や失敗がないのではなく、上辺を飾ったり、ポーズをとったり、人の歓心を買ったりはしないのです。隠れたところで、隠れたことを見ておられる神様の前に立ちます。ですから、祈る人には偽りがないのです。

 何を祈ったのかはわかりません。イスラエルの救いでしょうか、誰もが持っている人生の苦しみや悩みでしょうか。祈れる人は幸いです。しかし更に幸いなのは、祈る人が知られていることです。本当に辛いことは、苦しいことがあることではなく、自分の苦しさが知られず、辛さを分かち合える人を持たないことです。

 その人が必死でこらえ頑張り続けた辛さを、先ず知りたいと思います。苦しむ人への慰めは、励ますことではなくシンパシー(共感)なのです。イエス様はその祈りや辛さを知って下さっているのです。