メッセージ (説教より) 「ヨハネによる福音書」 |
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「来て、見なさい」 ヨハネ 1:35−51
35節以下には、「見なさい」を意味する言葉が35回も使用されています。信仰は知性を否定しませんが、知性で理解することが信仰ではありません。神様の事実を見てそれに触れることなのです。
「見る」ことは、出会いでもあります。私たちがイエス様と出会えたことはなんと大きな出来事でしょう。イエス様によって、考えてもいなかった愛と赦しを知りました。義しさと清さに目が開かれました。
そして又、イエス様に出会うことは、自分に出会うことです。イエス様の愛を知って自分の不実を知ります。イエス様の義によって自分の偽善が明らかにされます。言い訳ばかりして、人の評価を求めて、恥じ入るばかりです。
しかし、ここから真のイエス様との出会いが始まります。イエス様は、その私をそのまま赦して受け入れて下さいました。使命を与え、更に大きなことを見せてくださるのです。
イエス様を知った人は、今度は「来て、見なさい」と語る者にさせられます。信仰は押しつけることも、教えることも、譲ることも出来ません。その人とイエス様との出会いです。私たちは「来て、見なさい」と語ることしか出来ず、それで十分なのです。