メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙二」






「信仰告白としての誇り」  コリントの信徒への手紙U 11章16−33節
                            
「誇り」という言葉がパウロは好きでした。新約聖書には33回出てくるそうですが、そのうち30回をパウロは使っています。
何でも自分の手柄にして誇る人がいますが、見苦しいものです。その人がどんなに誇ったとしても、それは自分がそう思っているだけであって、他の人は認めていないかもしれません。その意味で誇りは独りよがりなのです。
しかし、誇りのない人はいませんし、誇りや恥じらいを失った人は人としての生き方を捨てた人でもあります。問題は何を誇るかなのです。
かつてパウロは自分の生まれを誇り、自分の熱心を誇り、学問を誇っていました。しかしイエス様を知ってからは、誇りの中身が一変しました。自分を救って下さったイエス様の救いを誇り、その救いを伝える伝道者とされ、イエス様のために苦労できることを誇ったのでした。
自分にとって神様を信じることがどんなに幸いで、イエス様を知ることがどんなに喜ばしいことか、信仰はここから出発します。偽教師もそうでした。しかし、そこから次の生き方に転換しなければ、信仰の奥行きは分かりません。自分にとってイエス様がどのような方かを考える一方、イエス様にとって自分はどのような者か、そこで自分を整える。そのことが出来ていないと、人は他人と比べて自分を誇ってしまうのです。
「誇る」という言葉でパウロは、信仰を告白しているのです。