メッセージ  (説教より)
「コリントの信徒への手紙二」






「気落ちした者を力づける神」   コリントの信徒の手紙U 7:5−16

だれにだって悲しみはあります。悔いのない人はいません。やりすぎたり、やらなかったりして後で悔やみます。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」 
悲しみを、御心に適った悲しみとこの世の悲しみの二種類があるように考えるのではなく、悲しみ方の二種類です。
「後悔」は後で悩むことです。してしまったことを残念に思い、その結果を悔いるのです。今更どうしようもないことですが、それでも嫌なのです。自分を罰し、失敗した自分を受け入れられないのです。自分を神様に委ねられない、出口のない悲しみです。
「悔い改め」は考え方を変えたり正しい生活をすることではなく、生きる方向・姿勢が変わることです。自分の利益や面子を考えていた者が神様の方向に向かって新しい生き方をすること。それは、神様の前に持ち出さなければ出来ない事です。神様の前に持ち出せば、必ずその人の中に新しい事が始まります。

悲しむ人はいいのです。神様の前に持ち出せばいいのですから。問題は悲しみのない人です。
「おかしくはないか。他人が言われないことをするとでしゃばりと言い、自分がすると積極的と言う。他人が自分の意見を強く主張すると頑固だと言い、自分が言うとしっかりしていると言う。他人が上役の気に入るようなことをするとごますりと言い、自分の場合は協力的と言う。おかしいではないか。」 
(「自己中心性」ハロルド・フィケット 『新版 幸福の座標』より)