メッセージ  (説教より)
「テモテへの手紙2」


「世の終わりの姿」    第二テモテ3章1-9節

 「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、・・・」(1~2節)と、この世の終わりの姿が描かれています。この世の終わりが来るというのが聖書の認識です。
 どこからこのような認識が生まれてくるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の出来事を見つめる中で与えられる認識なのです。人々は、主イエスが神と共にあり、神の命に生きておられるお方であることを認めませんでした。主イエスを受け入れ、主イエスの命に生きることを求められていながら、それを拒み、それどころか、自分たちこそ神を信じ、神の救いに生きる者と主張しつつ、主イエスを神に呪われた、神を冒瀆する人間として断罪して十字架につけたのです。
 主イエスを十字架につける出来事の中に、神に対する人間の深い不従順が示されているのです。その不従順を言い表し、主キリストの十字架の贖いと復活の命に頼るところに、主イエスの救いに生かされる生活があり、今も主イエスはこの世にあってそのような救いの働きをしていて下さるのです。
 しかし、主イエスを十字架につける人間の不従順がこの世に働いていることも、事実なのです。キリストの十字架は神に対する人間の不従順の本質を言い表しているのです。その本質が露わになる時が来る。その時が世の終わりの時であり、同時にキリストの救いの完成の時であると聖書は語るのです。
この世はそういう歩みの中にあるのだから、目を覚まし、身を慎みながら神の賜物の善き相続人として生きるように、と勧められているのです。