メッセージ  (説教より)
「ローマの信徒への手紙」





「神の義が示された」      ローマの信徒への手紙 3章21−26節

 神の義とは、神の「正しさ」ということです。神が真に「正しい」お方であるということです。そして、神が正しいお方であるなら、人間のいかなる「不正」も見逃すことはできないのです。人間の不正を見逃すことは、神の正しさに矛盾することになるからです。しかし、人間の不正が真に問われるなら、人間は誰も、一瞬たりとも生きることはできないのです。なぜなら人間は、神の前に「不正」を犯すことなしに生きることができないからです。
 こうして神は、長い間、ご自身の「矛盾」に耐えて、「今まで人が犯した罪を見逃して」(25節)来られたのですが、今や、ご自身の義を明らかにすることが、人間の滅びとならず、かえって救いとなり、義のない人間がまことの義に生きる者となる、そういう道をお取りになったのです。そういう仕方で「神の義が示される」(21節)道をお取りになったのです。
 それが、御子イエス・キリストの誕生(出現)ということです。神は、御子を人間の姿において現わされ、この御子を裁くことを通して人間の不正(罪)を裁かれたのです。御子において人間の罪を完膚なきまでに裁くことを通して、人間の罪を赦し、そして救う、そういう道をお取りになったのです。
 御子イエスの十字架の中に自分自身の「裁き」を見、御子キリストの復活の中に自分自身の「救い」を見ることによって、私たちは救われるのです。主イエスの十字架の中に自分自身の裁きを見る者のうちに、復活の主の命が働くのです。それによって義のない者が神の義に生かされる者となるのです。今や神は、御子キリストにおいてそういう救いの道を拓いて下さったのです。